異変のきざし
彼は光の粒子のベールをまとって、わたしに近寄ると、「さあ」と言って、両手を差しだした。
「えっ」
わたしは一瞬ためらう。
顔のベールはかかっているので、いくらか落ち着いて彼を見ることはできたが、なぜか動悸は治まらない。
「行きたくないのか? 移動魔法で行くぞ。さあ」
ああ、驚いた。そうか、移動魔法ね。一瞬ハグかと思ってどきりとしたけど、そういうことね。
ほっとしてそばへ行く。でも似たようなものだった。
いつものようにわたしの腰を抱いて、移動魔法を発動する。
今までなんともなかったのに、緊張してしまう。
こんなに彼の胸って、温かかったかしら。
細いのにしっかり筋肉もついてるのね。あら、いやだ、変に意識しちゃう。
そんな思いはすぐに、移動魔法の空気の渦に飲み込まれた。
着いた場所はよく見知った町。グリッダー男爵領の鉱山町が見える林の中だった。風が冷やりと頬をかすめた。
「冷えるな」
彼が言った。
わたしは収納バッグから紺のローブを引っぱり出し、急いで羽織る。フードも被った。
ちらりと横を見ると、ジンクもグレーの長着のフードを被っていた。
町まで並んで歩く。
「あの山小屋から近いのかしら? ここは」
「それほど近くもないが、ここは店が多いからな。欲しいものを手に入れるには都合がいい」
それで、ときどき鉱山町で姿を見かけるという噂があったのね。
マダーの話を思い出した。
「ところで、何を買うの?」
「これから寒くなる。新しい毛布が必要だろう。蝋燭や油も買っておきたい」
「ああ、もう冬支度なのね。雪は積もるかしら」
「山小屋は人界の境目にあるから、多少は人界の天気の影響を受ける。大雪のときは、小屋の周りに積もることもあるかな」
「そうしたら、雪だるま作ろうかしら」
「そうだな」
ジンクはくすっと笑って大きな手でわたしの頭を撫でた。
「久しぶりだから、美味いものでも食べに行くか」
「エルフ食じゃなくてもいいの?」
「たまにはな」
鉱山町は昼間からにぎやかだった。あちらこちらの居酒屋から笑い声や店の楽団の鳴らす楽の音も響いてきたりする。
商店街には、夕食の食材を買い求める鉱夫のおかみさんたちが行き来していた。
ジンクは町の路地をいくつか曲がって、石造りのこじんまりした建物の前で立ち止まった。見上げると、『ギャンズイエー』という名の下に『食堂と宿』と書かれたの茶色の看板がかかっていた。
「ここにきたときは、立ち寄る店だ」
彼は光沢のある重い木の扉を押し開けた。
意外に明るい室内で、清潔そうなテーブルや椅子が並んでいる。
数人の客が窓際に座っていた。
「いらっしゃい」
がっしりした初老の男性が声をかけてきた。
「おや、これはめずらしい。最近、お出でになりませんでしたな」
「そうだったかな、マスター」
ジンクはわたしを連れて奥の席に座る。
「今日のお薦めは何かな?」
「羊肉のシチューでございます」
「食べられそうか?」
わたしの顔を見る。
「ええ、食べられるわ」
「じゃあ、それを二つ頼む」
マスターが離れて行ったのを見て、わたしはたずねた。
「ここには、よく来てたの?」
「以前はな。おまえに最初会ったときは、ここに泊まってた」
「そんな前から」
「ああ」
「でも、感じいいお店ね」
「ちょっとした知り合いなんだ。ここの連中は。挨拶してくるから、待っててくれ」
彼はそう言って席を立ち、厨房の方へ向かった。
わたしは、ローブのフードを下ろしながら辺りを眺めていた。すると、新しい客が入ってきた。二組の男女だった。彼らはわたしたちの席の隣のテーブルに座った。
注文を取りに来るまでひそひそと、というより丸聞こえなので、内緒話というほどではないのかもしれない。世間の噂話に花を咲かせている。
「そうそう、お聞きになりまして? 次期聖魔女が決まったそうですわよ」
貴族風の中年の女性が言った。
それを聞いて残りの三人が驚いた声を上げた。
「それで、どなたに決まったのかな」
恰幅の良い中年の男がたずねた。
「コーラル様とか」
「あら、あの方は平民の……私は侯爵様のご令嬢かと思いましたわ」
老婦人が言った。
「誰もが、そう思ってたと思うぞ」
老婦人の連れ合いらしい老紳士が言った。
「それが、どうも侯爵様に何か不都合がおありになったらしいのですわ。まあ、噂でございますけれど――」
そのとき、マスターが注文を取りに来て、四人は口を閉じた。
次期聖魔女が決まったということを聞いて、わたしはうれしくなった。やっと魔力を自由に使える。決まった聖魔女がコーラルだと聞いて、当然だと思った。彼女の魔法は素晴らしいものだったから。
まもなくジンクも戻ってきて座ると、すぐ若い給仕が料理を運んできた。
シチューには、小さなパンと酸っぱい温野菜がついていた。
わたしは、温かいシチューに満足して微笑んだ。
「気に入ったか?」
わたしがうなずくのを見て、彼もうなずきながら食べてしまった。
店を出る前に、マスターが何か彼に言っていた。
彼は笑いながら返事して、わたしを見た。
めずらしい、あんな笑顔を見せるのね。
マスターがわたしにも声をかけた。
「お嬢さん、またぜひお越しください」
「ええ、ぜひ。とても美味しかったです」
マスターに挨拶して、ジンクが支払いを済ませた。
それからわたしたちは店を出た。
「ジンク、お金は……?」
「心配するな。王子の側に仕えた間の報酬は、しっかり持っている」
「それならいいけど……ごちそうさま。あ、そうだわ、知ってる? 聖魔女が決まったのですって」
「ああ」
「え、知ってたの?」
「さっきマスターから聞いた」
「じゃあ、侯爵様に不都合があったというのは?」
ジンクは立ち止まった。
「なぜそれを?」
「さっき、隣の席の方たちが話していたわ。噂になってるって」
「そうか……そのわけは聞いたか?」
「そこまでしか、話していなかったわ」
「ふむ、しかし、もう噂が広まっているとはな」
「何かあったのね、教えて。隠さずに」
「帰ったらな。早く買い物を済ませよう」
わたしは、こくんとうなずいた。




