その二
見慣れた天井を前にして、僕は起き上がった。背筋がピンと伸びた。気温と代謝によって少し湿っぽいパジャマが、少しむさ苦しくなって脱いだ。さっきまでの身体の激痛は全く嘘のように消えていた。代わりに、ジンジンと柔らかな頭痛がした。なんだかひどく長い夢を見ていた気がする。確か僕は遅刻しそうになって、テストが返されて、帰り道に交通事故にあったはずだ。後遺症はないのか、僕はどれくらい眠っていたのだろうか、もう既にここは現実世界ではないのだろうか。
「なおと。ご飯できてるよ。」
扉のノック音がした。母だ。条件反射的に僕は時計を見た。7時30分。陽光がカーテンの隙間から差していたので午前だとわかる。不意に焦燥感に駆られた。
「あんた学校の時間じゃないの。早くご飯食べていきなさい。」
僕は布団から飛び出し、急いで身支度を始めた。母から催促されるのなんていつぶりだろうか。いつもなら二度寝でもして準備を始めるのだろうか。今日は少し空気感が違うように思えた。なんだ懐かしく感じる。
リビングに行って朝の味噌汁を堪能し、洗面所に向かう。歯を磨きながら髪を手で解かして、襟を整える。本当はワックスなんかもしたかったけど、そんな暇はなかった。スマートフォンの充電を確認して、自転車の鍵とリュックを背負って、深呼吸をした。この朝の機械的に進む時間を、メタ的な視点を持って眺める。ちょっとした違和感が変わらず残っていた。
家を飛び出し、少し重く感じる自転車に乗って駆け出していく。南風が吹き、桜が舞う通学路。街路樹に太陽光を阻まれ、木漏れ日のみが僕を照らす。学ランを着てきたことを後悔した。そして前のカゴのリュックに学ランを乗せて、シャツを捲った。汗の染みたシャツの隙間に風が通り道を見つけて駆け抜けていく。清々しい春日和だった。憂鬱だった記憶も忘れてしまうほど、心地が良かった。これから僕は学校に行くのだろうけど、不思議と何も嫌悪感が湧かなかった。ただ少しだけ、朝から違和感が残っている。この心地良さも、清々しさも、今までの鬱感情を鑑みればありえないと感じた。メタ的視点を持って、今の感情を否定してしまう。脳がはっきりと違和感を感じていた。それに、この違和感は感情のみにとどまらない。僕の学ランが少しばかり大きく感じるのだ。そして、自転車に乗った時のサドルの高さ。周りの建造物が大きく見えたり。ああそれに、通学路にも違和感がある。学校に興味をなくしてから、通学路なんてあまり注目していなかったが、ただ色合いが違うように見える。言葉で表すのは難しいな。前までここの位置に本屋なんてあっただろうかとか、コンビニの数が少なく見えたりだとか。前までとは違う、焦燥と不安に駆られながら、自転車を走らせていく。
信号待ちをしていると、奥の方に高校が見え始めた。腕時計を見てみると、時刻は8時20分。まだ安心できない。僕のクラスは4階。額の汗をハンカチで拭う。こうなれば、シャツが染みるなど関係ない。ただただ間に合うことだけを意識しなければ。すると後ろの方から、声が聞こえてきた。
「おーい高橋。」
振り向くと自転車に乗る相原がそこにいた。息遣いが荒く、シャツは汗でひどく濡れている。彼の家は僕と同じくらいだが、この様子だと僕よりかっ飛ばしてきたのだろう。
「お前珍しいな。このままだと遅れちまうぞ。」
彼の僕をみる目は、驚きと疲労と焦燥。どれを取ればいいかわからなかった。僕は状況から鑑みて、驚きの感情が物珍しく感じたので、少し疑問に思った。
「そうだな。今日は遅れないために早く来たつもりだよ。」
「いやいやいや、そうじゃないだろ。お前ってば、遅刻したことないのに、こんな時間に登校することあるのか。」
彼の言っている意味がよくわからなかった。相原の遅刻癖は先述通り、僕も認識済みだというのに、僕の遅刻癖に対して、彼は認めようとしなかった。
「ともかく、このままだとトップスピードで行かないと授業に間に合わない。俺だけなら言い訳も浮かぶけど、高橋に見つかっちまったら、これはもう間に合う以外の選択肢がねえ。ほら、いくぞ。」
前を横切る道の信号が赤色になったタイミングで、彼はスピードを乗せていく。僕は彼に遅れを取らないように、足を雑に上下させていく。相原の背中だけを見ていた。
門をくぐり、駐輪場に着く。自転車に鍵をかけ、ポケットに鍵を突っ込む。相原は話すこともなく、すぐにリュックを背負って駆け出していく。汗だくの中、リュックを背負うのは汗が染みて不快だったが、うだうだ言っている暇もなかった。せめてもの抵抗として、片側だけを背負って、体重のかかった姿勢の悪いスプリントで走って行く。相原に遅れを取らないように、彼の影を縫う。日が燦々と私たちを照らし、身体中の細胞を熱していく。ああ、これじゃもう夏じゃないか。天気予報を調べる習慣なんてだいぶ前の記憶だが、今日は体感25℃はあるだろう。そんなことを考えながら昇降口めがけて走る。
昇降口に入ると、少しばかり人がいた。僕らのように突っ走ってきたであろう生徒や、授業準備をしに歩いている先生、朝練をしていた陸上部など。外の、蝉の声も聞こえてきそうな夏らしさを纏った熱気とは裏腹に、室内は涼しさを保って、例年の春通りの気温と静けさを奏でていた。助かった。室温に冷まされるとともに、僕ら以外の生徒を目にして安心感が流れる。しかし、まだ早い。僕らのクラスは4階。生徒たちの間では「地獄」と称される中央階段を駆け上っていかなければならなかった。一瞬の安息。
相原が中央階段をかけていく。僕も跡をつく。途中で階段の壁紙に目がいく。ここでも脳内に異変を感じさせられた。『体育祭スローガン』いつも気にもかけない壁紙だったが、そうか。今は5月頃なんだな。どうりで、少しばかり夏っぽさがあったわけだ。あまり深く考えずに身体は先に行ってしまうが、頭の中では今朝からの違和感が少しずつ糸で繋がっていく。吹き出す汗に感覚神経系が気を取られてまともに思考ができなかったが、僕の中で何かの思考が固まっていくのを感じる。この思考を確かめるためにわざと転んだりしようかと思ったが、相原についていくので必死だった。
リュックの中身が揺れるのを背中に感じながら、僕らは教室の前についた。扉の隙間から教室の中を伺うと、朝会で先生が連絡事項を話しているところだった。相原が先に教室に入っていく。僕も遅れてあとをついていく。
坂本先生がいた。昨日、いや今がいつだかわからないが、交通事故後から安否が不安だった。しかし、今の世界が夢かどうかはさておき、安心感があった。坂本先生が生きているというだけで僕は安心感があったのだ。
「相原、そして坂本か。珍しい。とりあえず、席に座りなさい。」
坂本先生は怒らない。僕の遅刻は「珍しい」らしいが、それ以外はいつも通りの朝だった。そしていつもなら神経に障るようなこの静けさが、やけに懐かしく感じた。何も、不快な感覚なんてなかった。
席に座り、僕は朝からの違和感の精算にかかった。というのも今もなお、いくつかの違和感がまた現れた。まずこの階層は5階であること。そして、相原が同じクラスであること。この点から、僕は今、
「それでは、1年4組の朝の会を終わる。」
そう、1年生となっている。景色が少し古臭く見えたり、周りのものが大きく見えたりするのは、僕が高校1年生に戻っていたからだ。そして、時期としては5月手前、体育祭の準備が始まる時期だ。僕は、高校生活の最初に戻ってきたというのだ。唐突に、白世界での記憶が思い出される。
『それでね。君には今から”追試”を受けてもらおうかと思ってさ。もう1度高校時代をやり直してもらいたくてね。』
あのスーツ姿の男の言葉が鮮明に思い浮かぶ。そうか、僕は今『追試』を受けているんだ。人生のやり直しを受けているんだ。高校時代の青春の追試を。
僕は覚悟した。あの日、僕は交通事故に遭って死んだんだ。そして、神様のおかげかせいなのか、もう1度人生をやり直すことになった。僕は覚悟した。これからの高校生活に、後悔のないように。まだ状況を鵜呑みにできるほど冷静じゃいられない。ただ、明らかに僕の心では、忘れられていた情熱が微かに燃え始めているのがわかる。冷えている自分に対して、少年時代の時の、世界を初めて見た時の興奮であったり、明日が待ち遠しいような感覚が、ほんの少し芽生え始めている。人生の追試。僕はまた絶望に蝕まれて、追試に落ちて、地獄に行くかもしれない。やり直せないかもしれない。ただ、一度経験した2年間の虚無感を、もう一度経験することの方が僕は嫌だった。少しだけでも抗ってみる。やり直せるかどうか。それを考えていても仕方がない。そう。
「”今が最速”なんだ。」
「どうした急に。高橋。」
しまった。つい考え事をしていたら口にしてしまった。いつの間にかホームルームは終わっていて、気づけば、目の前に相原がいた。まだ高校1年生が始まったばっかということもあり、教室は少しばかり静かさが残る。
「ごめん。何でもないよ。ちょっと考え事してた。」
「それより、何とか間に合ったな。ホームルーム。」
「そうだね。朝から少し頭痛くてさ。ちょっと遅れそうになっちゃったんだよね。」
僕の遅刻キャラはまだ浸透していないらしいから、それっぽく言い訳を並べて払拭しようとした。僕の人生の追試はもう始まっている。
「そっか。夜は雨が少し降ったらしいし、最近は気圧の変化もあっただろうから、偏頭痛も起きやすいよな。」
何だか少しぎこちない雰囲気があったが、それでも、相原と僕の関係はもうすでに高校3年生の頃の片鱗が見えた。
「ああそういえば、高橋。昨日のことは考えてくれたか。」
相原は少しウキウキした様子だった。『昨日のこと』とは何なのだろう。
「とぼけた顔すんなって。ほら。」
相原は片手に持っていたであろう、手作り感のあるチラシを机の上に広げた。そして、ページを開き、指で刺した。なぜだろう、僕はこの光景に妙に既視感を感じた。
「一緒に、バレーボールやろうって話だよ。」




