その一
信号待ちをしていると、妙に背中に汗を感じた。僕は春の訪れを知った。花の香りだとか、彩られた自然を目に人は春に気づくのだろうか。季節感に疎い僕は、ただ日々の気温差でしか季節を判断できない。汗の滲む背中を、通りゆく風が冷ましていく。燦々と照らす太陽を浴びつつ、ギアチェンジをして変則を加えながら、重々しい足を上下していく。一週間ほど前までは雪の降っていた東京だったが、今日は嘘のように快晴だった。そして、この暑さと焦燥の入り混じった汗を流しながら、疲労とため息の呼吸を交えて、自転車登校をする。そう、なんてことない、普通の授業日だ。通学なんて最も重々しいルーティン。ただでさえ歩みも進まないというのに、自転車だなんて尚のことやる気をなくす。ただ僕は出席日数を鑑みて、卒業するに厳しいと忠告を受けていたことを思い出し、やっとの思いで今登校している。この止まっている間にも、僕は発汗と冷や汗をブレンドしながら足を揺する。この焦燥は今にも遅刻しそうという焦りもあるが、なんだかそれだけではない気がする。高校2年生、それも春。時期も時期だ、受験だとか就職だとか、各々の人生の分岐点となる一年がすでに始まっている。その選択肢の自由さと、その裏に隠れる将来への強迫観念。今までの友人や恋人、下手したら先輩までもが、全員敵になる個人競技の受験戦争。その戦に身を投じる覚悟のできてない高校2年生の焦燥。ただ、それだけでもない気がする。ではその正体はなんなのだろう。この満たされない幸福感、乾いた心、動かない感情、冷めた人生観。その全てに吐き気を催す。そういう負の感情の詰め合わせが、今や毎日重りとなって、足枷となりながら僕にまとわりついてくる。これからの道への不安、というよりも、これまでの道への失望だろうか。この17年間に対して、何一つ僕は満足がいっていないのだろう。
クラクションが鳴る。信号待ちをしていたかと思えば、無意識のうちに青色に変わっていて、そのまま僕は突き進んでいた。そしてそのまま次の信号を軽々しく通り過ぎようとしていたのだ。これはいけない。考え事というのは時に周りを見えなくさせる。物思いに耽るのは教室に入ってからにしよう。そう思うと僕はまた、自分の脊髄に身を任せ、悠然と通学路を進んでいった。
1
門をくぐる頃には、学校は鐘を鳴らしていた。仕方なしに、僕は少し歩みを早めた。リュックの中身が揺れているのを、心臓の鼓動よりも強く感じる。風が靡く。誰一人僕以外に遅刻している生徒はいないみたいだった。いくらか通行人は見受けられるが、缶コーヒーを買いに行く顔のやつれた非常勤講師だったり、経営企画等の仕事を担当している、学校側の人事部のような方々であったりと、僕自身を存じている者はいないらしかった。ただ別に、いつものことなので、たとえ僕を知っている教師がいたとして、僕のことを今更注意しようとする人物はいないと思われる。ここ半年近くで、物凄い形相で怒られることより、はあぁと呆れた顔で見られることの方が多くなった。教室は4階だったので、走るわけにはいかない。階段は歩くにも走るにも汗をかいて仕方がない。ああ、こういう積み重ねというか、不快感の募りが、僕自身のやる気を悉く損ねていく。
遅れて入る教室に、何も抵抗感がなかった。何しろ、常習犯の僕を咎めるものなど何もないからだ。高校一年生のころ、ちょっとした腹痛で遅れて学校に行った時、教室に入ることがとてもじゃないけど恥ずかしくて苦しいと思っていた。まるで味方のいない陣営に身を投じたような気分だった。クラスメイトから敵を見るような鋭い目つきを浴び、先生はその空気をシカトするように黒板にチョークを滑らす。僕はこれ以上に目立たないように、小走りに席まで移動して、ハンカチで顔を拭う。だが今では、そんな光景も普段と変わらない日常になっていく。ただ少しずつ違って見えてくることもある。まず他人の目線というのは、本当にただ瞳がこちらを向いているだけということ。ただ遅れてきた僕をみたとて、嘲笑も嫌悪も呆れも、何も湧くことがない。興味がないのである。これは遅刻の回数が増えた今だからというわけではない。おそらく2回目、3回目くらいからこの目の色は何も変わっていない。憐憫や憐れみは少しあるかもしれない。いやないな。ただこれっぽっちも、僕に指を刺す人なんていない。
「おはよう高橋。早く席に座りなさい。」
ああしまった。そう言えば1人だけ、僕の心まで覗くように見てくる人がいた。坂本先生だ。運動部の顧問で一般男性より少し身長は高く、若い。実際に若いかどうかはわからないが、制服姿で教室に佇んでいれば、それはもう生徒としか認識できないような、若々しい先生だった。僕の担任ということもあるからか、坂本先生だけは、僕が遅れて入ってくる時にわざわざ授業を中断する。ただ怒ってきたりだとか、蔑むことはしない。ただただ「高橋。早く席に座りなさい。」と一言だけ添える。僕は返事もせずにのそのそと歩いていく。しかしこういう時の教室というのは、いささか疑問なものだが、音を弱めるという概念を知らない。教室には40人ほどの人がいるというのに、その広さ多さに相反して、僕の足音しか聞こえない。何も動かない教室にただただ僕の弱々しい足音だけが鳴り響く。叱られるよりも、嫌に僕は感じる。今日もそうだ。今日もまた注目を浴びてしまった。席について、拭いたはずの汗がまだ滲んでいるのを感じて、ハンカチで額を拭いた。
高校2年生の3学期。青い春を過ごしてきた生徒たちに現実を突きつけるように、教師たちは進路の話をする。恋愛であったり、部活であったり、バイトであったり、勉強とはひどく無縁の日々を過ごしてきた生徒たちは「受験」や「就職」のシーズンが来たことを感じ、ひどく怯え始める。僕の高校は少しばかり進学校であったため、受験の色が濃い学校であった。今や聞き慣れたお決まりのフレーズである「3年0学期」などという造語。この頃から勉学に対して風当たりが強くなる。先週終わった学年末テストが今週から着々と返されていくが、先生たちの顔はいつもより険しく感じる。生徒たちもそうだ。文系理系がはっきりと分かれ始め、得意不得意が明白になってきた頃、自分の点数や学年順位というものをひどく気にし始める。だが、こと僕に至っては特にこだわりなどなかった。
いつからか明瞭ではないが、心のうちにエネルギーを感じることがなくなってしまったのだ。パッションのような。全てを突き動かす原動力となるものが失われてしまったのだ。いや、元々なかったかな。どうしようもなくやる気が出て、自分から進んでやったことはなかったかもしれない。正直何一つとして、中身がない。高校に入った頃は”まだ”マシだった。この高校も先述通り進学校だったため、それなりに努力をして入った。実直な性格ではなかったが、それでもかなり勉強を頑張ったつもりだった。しかし、今思えば、その成功体験が僕には不要だったのだろうと思う。高校入りたての頃、周りには無理をして入ったものが多いかと思っていた。しかし実情は自分自身のポテンシャルに身を任せて、才能の暴力で入ってきた生徒がほとんどであった。僕自身もその枠に当てはめられるのかもしれない。「ほんのちょっとの賢さというのは、知恵を空白で埋め始める。」これは僕自身が感じたものだ。常人より理解力が高く、鋭い視点を携えていると感じているため、努力を怠り始める。僕は虚勢を張って賢いふりをして、努力することを等に忘れていた。その惰性が己をすり減らし、虚構まみれの、熱のない学生を一人生み出してしまったのだ。前まではそんな僕にも友人がいくらか居たが、いつの間にか劣等感を感じるようになって自分から離れてしまった。
進路に不安を感じている生徒たちは偉い。いくら僕のようにポテンシャルで生きてきたヒトが多いといえども、周りと競争を重ねていれば、いつか危機感を感じて徐々に努力することを覚えていく。それかもしくは、元々競争に興味がなければ趣味に時間を費やすだろう。実際、全く勉強のできないヒトでも、周りと打ち解けあって、クラスの中心人物になっていたりする。もちろん僕はクラスに打ち解けているわけでもないし、家に帰れば趣深い何かが僕を待っているわけでもない。いつからか、この世界には僕の需要などが一切なくなったみたいだった。
気がつけば授業は終わり、10分休憩の時間になっていた。周りは賑やかになり、白色のシャツが目立つ。隣に座るクラスメイトの仰ぐ風が僕に吹いてくる。なんだか少し肌寒く感じてきた。このクラスにいることが辛くなると僕は、とりあえず席を立つ。そうだな、2時間目から飛ぶことにしよう。僕からすればここから6時間目までのテスト返しは憂鬱を煮詰めたフルコースでしかない。僕はその地獄のコースをオードブルから耐えられそうにないので、やけに軽い机に椅子を入れ、そそくさと教室を去る。
足早に僕は中央階段を登っていく。飛ぶと言っても、一応学校には居るようにしている。数少ない友人と安息の契りを交わしているのだ。その集合場所が屋上へ登る唯一の階段である中央階段なのだ。とはいえ、近年規制の厳しい世の中では、もちろん大事がない限り、屋上の扉は閉まっている。そのため、僕と友人は秘密裏に屋上の扉の前に机を置き、そこを棲家としている。中央階段を登れば、今日も友人がそこにいた。
「やあ友よ。もうそこにいたのか」
「なんだ高橋、急に。やめろよ、友とか。名前で呼んでくれ」
相原。彼の名前は相原という。高校一年生の頃に同じクラスになり、彼は僕の数少ない友人である。
「そういえばテスト帰ってきた?俺結構耐えてたわ。」
「やめろよテストの話なんか。1時間目から遅れて行ったから、テストなんて1個も帰ってきてないよ。」
「おーい。勝負のこと忘れんなよ。負けた方が『いちごスペシャル』奢りだかんな。」
忘れていた。相原とはこの学年末テストで勝負をする約束をしていた。全く張り合うつもりもなかったから、ただの消化試合でしかなかった。
「俺今回結構頑張ったんだよ。英語なんかは苦手なまんまだったから、まだまだ伸び代しかないけどさ。数学なんかはもう凄かったぜ。ちゃんと勉強した成果が出てたぞ。」
「凄いな。相原にもついに勉強ブームが来たのか。」
「ああそうだよ。まあもう受験を考えるシーズンになっちゃったしな。意識せざるを得ないってゆーか。なあ、高橋は受験とかすんの。」
「そうだな。全く何も考えてないな。進路のこととか考えるだけで憂鬱なんだ。ただでさえ今現状に満足もしていないというのに、未来のことなんて考えてたらパンクしちゃうな。」
「まあわからんもんだよな。先のことなんて。でもさ。最近考えたんだけどさ。『時間が足りない』っていうやつ、全部嘘だよな。」
「嘘?」
「まあなんていうんだろうな。もうすでに受験が始まっていて、目指すやつは東京大学なんかを目標にする奴なんかがいるだろ。そうするとさ、どっかで絶対に『時間が足りない』だとか『もっと早くからやっておけばよかった』だなんて言い出すんだ。」
「ああそうだな。」
「でもね。そんな過去のことを気にしてたってしゃーないじゃんか。別に過去に戻るなんてこともないわけだし。今を生きるヒトは今しか生きていないんだ。それに、時間なんて生み出そうと思えばいくらでも生み出せるんだ。今なんか3月だぞ。」
「確かにな。相当意識高いやつか、ただただ言いたいだけのやつだろうな。」
「だから俺は今を大事に生きているんだ。何事も”今が最速”なんだ。」
「意識高いな。やっぱ元バレー部キャプテンなだけあるな。」
「やめろその話は。もう”過去”の話なんだからな。」
相原は元々バレーボールキャプテンだった。高校から始めた彼は、その恵まれた体格と、地頭の良さによってゲームメイクをするスーパープレイヤーだったという。仲間たちとも仲睦まじく、戦績も悪くなかったらしい。しかし、とある大会にて彼は、軽やかにスパイクを決めた後、相手のブロッカーの足を思いっきし踏んで着地してしまい、靱帯を断裂してしまったのだ。彼は完治するまで3ヶ月の期間を要することになり、そこで彼の闘争心は無くなってしまったのだ。あれは高校1年生の終わり頃だったか。僕はその不貞腐れた彼と意気投合して仲良くなったのだ。
「でももう足は完治したんだろ。もうすぐ3年生の最後の大会があるんだから、復帰してみてもいいんじゃないか。」
「いやー流石に迷惑なんじゃないか。今の体制がちょうどいいんだよ。別に俺自身はそこまで上手くはなかったし。それに、ブランクが空きすぎてる。俺は今のままでいいと思うんだ。」
彼は完治後、すぐには部活に顔を出さなかった。周りの仲間たちが、自分よりも成長していく姿を受け入れられなかったらしい。部活においての自分の需要がなくなっていく感覚が彼を苦しめ、さらに復帰を遅らせていった。彼が顔を出したのは夏休み前の練習時。彼は凄い形相で体育館に駆け出していき、監督に土下座をしたのだそうだ。そして、怪我をしてからの無礼を謝罪し、マネージャーの仕事からと言って、部活に復帰をしたのだそうだ。彼なりの落とし前なのだろう。
「まあとにかく。これからは受験の季節だ。周りの仲間たちが急に敵になってくるかもしれないしな。高橋、お前も少しはやる気出てきたんじゃないか。」
「そうだな、6時間目だけ受けるやる気は出てきたかも。」
「そのやる気は多分6時間目まで持たないかもな。」
また少しの間、二人で雑談をしていた。相原と僕がどうやって仲良くなったのか。僕自身はあまり覚えていない。しかし、何か、こういう哲学チックなというか、色々な対話が僕らを繋げているのだろうと思う。彼の考えは僕に新しい経験をくれる。あまり響いていないかもしれないが、僕はこの"今が最速”なんていう考え方も彼らしくて好きだった。僕も少し、変わらないといけないのだろう。
3時間目が終わった頃、お腹が空いたのでご飯でも買いに行こうと相原と話していた頃だった。誰かが階段を上がってくる音がした。いつもなら誰も確認してこようとしない中央階段の最上階。誰か来るのか、二人は沈黙を貫く。先生には怒られ慣れている。今更注意され、この中央階段が塞がれたところで、また別の隠れ家を探すだけだった。しかし。世の中には先生よりも厄介な存在がいるらしい。
「またあんたたちはここにいたのね。」
赤いリボンのセーラー服を纏い、スカートを短く折っているショートヘアの少女が現れた。少し可憐な、華やかなメイクをして、髪も短い割には内側に巻いてボブの髪型を成そうとしている。工藤あかりだ。僕の幼馴染だった。
「げっ。お前かよびっくりさせんな。また俺らのことを先生にちくりにきたのか。」
「その手はやめた。どうせあんたらは懲りないんだもん。私だってこんなところまでわざわざ登ってきたくなんかないし。」
「そんじゃなんか用事でもあんのか。満天の青空はこの汚れた扉のフィルター越しにしか見えないぞ。それともあれか。告白場所でも探してんのか。」
彼女は呆れてシカトした。そして相原の方から目線を移動させ、僕を睨みつけた。彼女の目は人間に向けるべきではない侮蔑の態度が現れている。
「あんた放課後でいいから、坂本先生のとこに行きなさい。何かわかんないけど話があるみたい。ただそれを伝えにきただけ。」
「ああ。ありがとう。」
「ほんと。なんで私が頼まれないといけないの。こんな堕落した男なんかに伝言なんて。幼馴染であることすら鬱陶しいんだけど。」
「ありがとう。本当にごめんとしか言えないよ。」
彼女はそそくさと階段を駆け降りていく。僕もうんざりだった。本当にたまたま一緒の高校に入っただけで、あとは話すことなどない。僕も彼女も珍しく電車で40分、自転車で30分ほどかかる場所にわざわざ出願したのだ。ただそれだけの仲だ。
「ほんと苦労するよな。あんな奴なんかが同じ小中だなんてさ。まあでもあいつなんでもできるからな。優等生ちゃんは全部任せられちゃって大変なもんだ。」
相原のおかげでほんの少しだけ思い出した。工藤あかりは成績優等生。小中学校が一緒だった。小学校の頃から塾に通い、ああそっか。他にもたくさんの習い事をしていたか。とにかくかなりのお嬢様らしい。高校に入って久々に声をかけた時、彼女の第一声は「げっ。」だった。何やら僕はいつの間にか嫌われていたらしい。これは僕の妄想だけど、彼女は努力家で何事にも熱心な性格ゆえに、ポテンシャルだけで生きてきた僕のような存在が厄介で厄介で仕方がないのだろう。同じ高校に来てしまったのも何かの縁だとは思うが、別にこれからも関わろうとは思わない。
「それより、また面談でもすんのかお前。引っ張りだこだな。」
「ついに退学処分でも受けるのかな。まあ、出席日数も少ないし。弱ったなあ。」
「そっか。」
いつしかから相原が僕に怒ることは無くなった。今相原が息を呑んだことも僕は察せられる。諦められたのだろうと思う。彼は優しい。このどうしようもない僕のために一緒に授業をサボって話に付き合ってくれるのだから。だがしかし、もう長くサボるのも難しいみたいだ。
「ああすまん。部活の奴らに呼ばれたわ。あんまり授業をサボりすぎると、この場所もバレちまうしな。俺そろそろいくわ。」
「そっか。ありがとな。また明日にでも話すか。」
「おうよ。お互い頑張ろうな。あ、テストの点数教えろよ。」
「わあったよ。じゃあな。」
別れを告げると彼は、足早に階段を降りていった。僕は黙々と天井を眺めていた。そしてくだらない思考に耽っていた。また1人か。どれだけ仲の良い友人がいても、結局僕は孤独を感じてしまう。相原は僕の性格や考え方、思考パターンととても似ている友人だが、僕の学校での立ち位置とはまるで違う。心の内側で湧き出る感情パターンは似ているのだろうけど、アウトプットの仕方が違うのだろうと思う。ともすれば、僕のような人間は果たしてこの世にいるのだろうか。最近はずっとこんなことを考えている気がする。思考の幅であったり、深さであったり。自分から線引きを引いて、区別しているというのに。自分から孤独になりに行っているというのに。
満天の青空がいつの間にかまっさらなキャンバスのように変わっていた。僕は気付かぬうちに眠ってしまったのだ。曇天で低気圧だからか、ひどく頭痛がする。ああ忘れていた。確か放課後に坂本先生に呼ばれているんだった。まあなんとなく話される内容はわかっている。きっと進路のことだろう。なんだか気が滅入ってしまうな。ただ時間的にこうも寝ていられないのでパッパと起き上がる。曇りのせいだからか、15時半にしては校内がとても暗く感じた。より一層憂鬱さが灯る。早めに終わらせて、雨でも降る前に帰るとしよう。
階段を駆け降りて2階の職員室に行く。道中には部活に向かう生徒たちが見受けられた。その中には相原の姿もあった。ただ相原はなぜかみんなの前では僕と会話をしようとしない。おそらくだけど、除け者扱いされている僕と仲良いことを知られたくないのだろう。別にそれでいいと思う。僕はなんとも思わない。例え立場が反対だったとしても、僕は手すら振らないだろう。そういうものなんだ。この我が国日本の”空気を読む”という文化は。
人通りの多い中央階段をよそに僕は職員室をノックした。坂本先生は国語の教師であったため、職員室周りは蔵書が多く見受けられた。あまり本を読むのは好まないけど、なんだかこの和書の古臭い香りは嫌いじゃない。実家のような安心感を僕にもたらす。心地いい。前まで、図書室でバレないようにサボったりもしていた。しかし、図書室のおばさんにはれっきとした業務があるらしい。「サボっている生徒を無惨にも追い出さなければならない。」という業務が。それ以来僕は、気まずくなって図書室に行かなくなってしまった。
そうこうしているうちに、坂本先生が僕のところに来た。一応礼儀のようなものは心得ているので軽く会釈をして、「お忙しい中ありがとうございます。」と断りを入れる。しかし坂本先生は軽くうなづくのみで、僕の礼儀作戦は意味なかったらしい。先生に手招きされ、職員室前の椅子2脚に腰を下ろした。まず先生には今日どこで何をしていたかを聞かれた。僕は正直に答える。と言っても、相原の名誉を守るために、僕1人で本でも読んでいたことにした。すると意外にも、
「ほう。読書をしていたのか。なんの本だ。」
と食いつかれた。少し面倒だった。咄嗟についたかなり良い嘘だと思ったのに。僕は少し吃ったが、すぐに「ライ麦畑で捕まえて」と答えた。中学生くらいの頃に親に勧められて読んだが、すぐに飽きてしまった本だ。多分50ページも読んでないと思う。最初のデヴィット・カッパーフィールド式だとか、口調がやけに鼻についたからだ。でも主人公の態度というか、世間への感覚はどこか僕と似ているような感覚はあった。
「ライ麦か。あれはいいぞ。若いうちに読んどくべき本だ。なかなかセンスがある。」
ああ、これがあんまり好きじゃない。若いうちに読んでおくべきだとか。知らんこっちゃない。「センスがある」とかそういうのも下らない。センスなどという言葉に僕はもう騙されない。これまで幾度となく言われてきたからだ。人というのはどうしても他人と比べてしまうものらしい。自分の好きなものが他人よりも優れていると勘違いしやすい生き物。僕は驕れたくない。いつしかの道化を演じていた自分が重なるからだ。自分を天才だと鼓舞をし、根拠のない自信などに浮かされていた自分に。
それからというもの、返却されたテストを渡され、卒業に必要な出席日数の話や、補習の話がされた。ただまあ、正直いうとあまり覚えていない。何も聞く気がなかった。ただただ過ぎていく時間を数え、だんだん暗くなっていく外光を眺めていた。
時刻は17時。1時間半ほど話されてようやく解放された。うんざりだった。早く家に帰りたかった。僕を何も咎めない場所に行きたかった。世界から身を隠したかった。ただ学校構内を走るようなキャラでもなかったので、早歩きをしながら駐輪場に向かった。しかし、僕は気づいていなかった。外では、天からバケツをひっくり返したかのような、土砂降りの雨が地面を打ちつけていた。一見したところでは計り用もない大粒の雨たちが、オゾン層上空の空気を地面にまで運んでくる。辺りには今朝の快晴を忘れてしまうくらいには、水の濁った、湿度たっぷりの匂いが充満していた。弱ったな、とても帰れそうにない。少しばかり雨宿りをして自転車で駆け抜けようかとも思ったが、生憎この雨は弱まることを知らないらしい。今日は自転車を諦めて電車で帰ることにしようか。学校には傘くらいあるだろう。そうこうしていると後ろから足音が聞こえてきた。雨の打ちつける音がノイズキャンセリングされてるかの如く静かになった。後ろを振り向くと、カバンをいじっている坂本先生がいた。
「ひどい雨だな、高橋。」
「ああ、坂本先生。そうですね、これは僕も予想外でした。」
「すまんな。私が早めに終わらせておけば、雨の降る前に帰られただろうに。」
「いえいえ。とんでもないです。」
坂本先生はカバンから折り畳み傘を取り出し、紐を緩めた。とても華奢な折り畳み傘だった。先生は恵まれた体躯なのでとても入りそうになかった。
「ああそうだ。こんな雨だし。高橋。私の車に乗って行きなさい。」
「いえいえそんな。滅相もないです。」
「そんな遠慮しなくていい。君は傘も持っていないようだし。それに私がこんな時間まで残してしまったんだ。とにかく、乗って行きなさい。」
そう言うと先生は、傘を刺して歩いていく。このままだと僕もずぶ濡れになってしまうので、足早に先生の後をついて行った。
先生の車は家族づれがもつ一般的な軽自動車だった。先生は見た目から若く見えるので、車を使って登校していることに驚いた。確かに高校1年生の頃から学年主任を務めていたことを思い出す。この人は見た目によらず、かなり偉い人なんだろうと思う。中も質素だった。親の実家に帰った時に乗る祖父や祖母の車のような安心感の漂う香り。なんだか国語科職員室前で嗅いだことのあるような香りがした。ただ少し違う。この車が新品であるらしかった。外傷は見受けられないし、こういう古臭い匂いというのは祖父祖母特有の匂いなんてことはない。あまり使っていない新品の匂いだった。先生が車登校であることなど知らなかったが、そこまで使い古されている様子がないため、納車はつい最近のことなのだろう。後ろの席にはまだ使っていないチャイルドシートが見受けられた。
エンジンをつけると、先生は慣れない手つきで運転を始めた。その不器用さは坂本先生にしては意外に思った。僕からすれば、怒鳴りつけはしないものの、淡々と事実を述べ、説法を説くような先生だったから、あまり苦手なものなどないように見えた。ただ荒々しい運転だとは思わなかった。むしろ心に触れるような優しさの灯った運転だった。
「つい最近、車を運転するようになってな。シートベルトはしたか。」
「はい。どうもすいません。家まで送ってもらうなんて。」
「全然大したことないさ。高橋の家はここから車で15分弱くらいか。雨も激しいし、安全運転で行くぞ。」
そして、しばらく沈黙が鳴る。先程までテストの話や進路の話をたくさんされていたので、若干の気まずさがあった。車の中は雨の、ガラスを打ち付ける音が鳴り響く。電気自動車なので、エンジンの音などは限りなくスマートだった。この僕を取り巻く全てが違和感でしかなかった。この状況も空気も僕を嫌がっているような雰囲気があった。なんとなく、反省を促されている気分だった。
「にしても高橋。君は1年生の頃、成績が良かったのにな。今回も、国語以外、大半が赤点だったじゃないか。」
正直僕から言わせてみれば、ごくごく当たり前のことだった。勉強をしなければ、赤点というのは当たり前だし、進路についてそっぽを向いていれば、向こうからやってくることもない。いつしかから、僕は自分から行動することを諦めてしまっている。だがしかし、僕も気づいてはいるんだ。今やらなければ倍以上の荷になって帰ってくることも。幸福感や生きる意味、この人生に価値を与えることが困難であることも。僕は黙っていた。
「先生はな。自分のことを思って行動しているわけではない。もちろん悔しさはある。1,2年生どちらも担任をしている私が、君みたいな優秀な子を堕落させてしまっていることを。だから、こうやって真摯に、あい見えたいと思っているんだ。」
「それは、その、ありがとうございます。でも、僕でもわからないのです。なぜこうも世界に絶望をしているのか。何かこう、急に生力がなくなってしまったのです。周りの人たちも、作られた『アオハル』なんかを謳って。僕の性に合わない。悔しいです。ずっと悔しいのです。僕だって、高校2年生という青春真っ只中の学年を楽しく過ごしたかったです。でも今のクラス、いや高校生活全般、僕の想像したものではなかったです。いつしかから、僕は自分を偽って、頑張ろうと思っていました。1年生の時も、そのおかげで顔は広かったです。でも、それだけでは身を滅ぼしてしまうのでしょう。僕はいつからか、空気を読むようになっていました。そして、勝手に、空気を読めていると勘違いしていました。気がつけば、僕の周りには無理をして友達になった人ばっかで、誰も僕の幸福感につながる人はいなかったです。みんながみんな虚勢を張って生きているように見えました。そしていつの間にか、僕は蚊帳の外に放り出され、この高校の主人公候補からひどく外されてしまったみたいでした。その時気づきました。僕はこの世界に需要がないことを。僕の居場所はここにないことを。だから誰も憎くなんてありません。ただ僕が消えてなくなればいいと。ここ最近はずっと思ってしまっている。でも矛盾するように、これ以上悲しませてはいけない存在もいる。だから、僕は学校に行かなくてはいけない。先生、僕は何がいけなかったんでしょうか。」
外の風景がぼやけて見えた。気づけば、少し涙を浮かべていたらしい。僕はいじめを受けていたわけではない。それに、友達にも悪口を言われていたりだとか、少なくとも僕はそんな情報を知らない。ただ、全てがアレルギーに感じていた。上部だけの関係だったり、空気を読む文化であったり。僕はそんなしがらみから解放されたかった。しかし、同時に孤独になることを恐れていた。その曖昧さが今の悲惨な状況を作り上げていたのだろう。
「先生、僕は。学校になんて行きたくないです。」
「高橋。そうか。すまなかったな。色々、気づいてあげられなくて。」
再び沈黙が鳴り響く。今度は雨の打ち付ける音も聞こえなかった。車は道路の脇で止まっている。窓の外は、僕の知らない光景で溢れていた。先生はあえて、遠回りをしているのだと、気づいた。
「高橋。俺は今からでも遅くないと思うぞ。アオハルだとか青春だとか。高橋が何を渇望しているのか、見当もつかないが。もし手遅れだと感じているなら、それは違うぞ。」
この時先生の目には光が宿っていた。車の中には高尚な雰囲気が漂う。
「先生はな。今一番に全力で生きることが大事だと思うんだ。明日死んでもいいように。今日死んでもいいように。もちろん、自分の計画していたものが頓挫してしまうのは悲しいことだよ。でも、今一番、今日を生きることに、人は生きる価値が与えられると思うんだ。過去はどうしても、変えられないんだ。でもその経験を忘れないように、次に活かしていくんだ。高橋。進路についても、学校は非道なことをするもんだなと思うよ。人間はいつだって、今日しか生きられないのだから。未来のことなんて、予測できないんだから。あともう一つ。」
先生が僕の瞳に映る。それくらいに先生の目線は僕の奥底まで見つめてきた。
「俺は、後悔なんてしてもいいと思う。行動することに意味があると思う。やらない後悔よりやる後悔。失敗なんてしてしまうもんだからさ。」
先生は前を向くと、また車を走らせていった。僕は黙り込んでしまった。
雨粒が車の速さに揺れ、斜めに差し込んでくるころ、僕はひょんな考えが頭に浮かんだ。
「先生。僕はやはりやり直せるんですか。」
「ああ。今からでも。すぐに。」
「でも僕は、過去から何も学んでいません。何を間違っているかなんてわからないのです。もし過去に戻ったとしても同じ過ちを繰り返します。」
「どうかな。私は…。」
先生が何か言いかけた瞬間、前の車こちらの方に向かってきていることに気づいた。対向車の勢いは止まることを知らず、先生は忙しげにハンドルを左側に回した。すると次の瞬間、車体がぐわんと宙に浮かんだ。車に身を任せていた僕は、その慣性に身体を委ねていたので、視線が視界に追いつかなかった。そして、地面に着地した後、前方から強い衝撃が身体に走った。
あまりに一瞬の出来事で思考が追いつかなかった。いつの間にか気を失っていたらしい。気がつけば僕は学校の教室にいた。教室内には教卓と1つの机椅子だけ。ロッカーなどは生徒たちの使っている痕跡があるが、恐ろしいほどに生徒たちの気配がしない。黒板の前に教卓があって、号車など関係なしに、ど真ん中に僕の席があった。そして、僕は席に座っていた。教室の外は廊下だったが、その先には何も続いていない。窓側の外にも、大木が一本顔を出しているだけで、他には何もなかった。そして、全体的に白飛びしていて、空も真っ白だった。絵に描いたような「死後の世界」って感じがした。僕は死んでしまったのだろうか。席を立ち上がって、周りを見に行こうとしたが、動けばたちまち身体に激痛が走った。これでは、まともに歩くことができない。
そうこうしていると、廊下から足音が聞こえた。何者かが教室に入ってくるみたいだった。僕は死神の鎌を持った何かが入ってくるのではないかとドギマギしていた。僕の解釈では、ここは所謂「死後の世界」で、今から天国行きか地獄行きかが決められるのだろう、と思っていた。しかし、教室に入ってきたのは、スーツ姿の男だった。ガタイはいいが、肝心な顔には靄がかかって見えなかった。
「ええと、高橋なおとくん。8月15日生まれ。年齢17歳。まあそんなことはどうでもよくて。」
男は淡々と書類に目を通していく。何やら僕について載っている書類みたいだった。僕は男が何者なのか聞こうとしたが、うまく声が出せなかった。
「あ、いいよ。喋らなくて。今から点数をつけるんだ。天国に行くかどうかのね。すぐに終わるからさ。さて、君は…。」
男はなぜか言い淀んだ。そして、険しい顔をしながら、ため息をついた。
「いやーこれはきついね。君はあまり点数が良くない。というより、加点がないって感じだね。悪いこともしそうにないしさ。これは『追試』かなー。」
何を言っているのかわからなかった。僕の人生に点数をつけていて、僕は追試になるというのか。
「君の人生、君自身も何も満足いってないでしょ。何かに没頭したり、夢があったり。そういうもんじゃないの現実世界は。よく気狂いせずに生きてこれたね。君は世界に愛されていないと思ってるんだ。」
男は書類を叩き、僕の様子を伺っていた。僕はできることが少ないので、男の目を見ることしかできなかった。そんな中でもやっと口を動かせるようになってきた。
「ここはどこなんですか。」
「んー。説明は難しいけど、回想っていうかなんていうか。でも安心して。君はまだ死ぬべきじゃないんだ。というより、死ねないって言う方が正しいかな。」
「交通事故で亡くなってしまったんですか僕は。『追試』ってなんなんですか。あ、それより坂本先生は…。」
「色々質問したい気持ちはわかるけど、僕もわかりかねる事ばかりなんだ。なんてったってこの仕事引き受けるのも1回目だしね。でも。1つだけ言えるとすると。君の人生は、評価基準を下回ってるんだ。所謂『赤点』てやつかな。だから天国にも地獄にも預けようがないってわけ。」
男は教卓を歩き回る。少しだけ、教師の雰囲気がある。
「それでね。君には今から『追試』を受けてもらおうかと思ってさ。もう1度高校時代をやり直してもらいたくてね。」
「高校時代をやり直す…?」
「そうそう。ちょうど君もやり直し違ってたでしょ。いいじゃん。君のお望み通りでさ。」
状況が理解できなかった。何かおかしな夢でも見ているのだろうと思った。もう少し、色々確認したくて書類に目を通そうと立ちあがろうとした。しかしながら、足を動かせば激痛が走るようになってしまっている。
「ああそんな身体動かしたらダメだよ。元気だな。すぐに追試を受けさせてやるから、ちょっと待ってな。」
男がそう言うと、今度は当たりが真っ白に輝く。そしてだんだんと暗転していく。僕はまた気を失ってしまった。




