第一卷 第七章 未来に灯りをともす-6
此時の緹雅はすでに正常な行動を取れるようになっていた。
「緹雅、大丈夫か?」と、わたしは足早に彼女のもとへ駆け寄った。
彼女は首を振り、先程自分に何が起きたのか気づいていない様子だった。
「わたし……さっき……何があったの?」
わたしは黒衣の人物が姿を現したこと、時間魔法の封鎖、そしてあの奇妙な対話の一部始終を一つひとつ語った。
緹雅は聞き終えると、どこか理解したような、していないような表情を浮かべた。
「伝言のためだけ……なの?」
「とにかく、あの奴は危険だ。あいつの主も、相当な力を持っている可能性が高い。ただ、敵か味方かはまだ分からない。」
「でも、妨害する気配がなかったのなら、少なくとも敵ではないってことじゃない?」
「……今は敵じゃない“だけ”なんじゃないか?」
彼女は頭を巡らせ、封じられた洞口の岩を見やって言った。
「凝里、この結界の術式構造をよく見て……。上層の結界は単純な封印用じゃないわ。とくに最深層には起動式の魔導術式が隠されているみたい——もし粗雑に壊せば、自爆魔法が直接発動するわ。」
わたしは眉をひそめ、すぐに再び確認した。案の定、結界の最底層には特有の連鎖反応機構が存在し、外力が限界を超えて破壊された場合、魔力の連鎖爆発を誘発する仕組みになっていた。
緹雅の指摘で、わたしは少し恥ずかしくなった。
自爆魔法については耳にしたことがあったが、その不安定性のため、実際に結界と融合したものを見るのは初めてだった。
「……油断したな……」
わたしは小さくつぶやき、先程無理やり封印を破ろうとした自分の行動を悔やんだ。
わたしたちは洞窟の周囲を入念に探し始めた。
岩壁、地面、そして池のほとりまで、何度も行き来しながら調べたが、明らかな仕掛けや手掛かりは見つからなかった。
時は静かに過ぎ、空は次第に暗くなっていった。
太陽はゆっくりと西へ沈み、玄峭山の重なり合う濃霧の隙間から差し込む残光が、洞窟のそばにある静かな水面を照らした。
水面はきらきらと輝き、まるで柔らかな金色のヴェールが掛けられたようだった。
その光は絶えず色を変え、淡い橙から黄金へ、そして紅へと移り変わり、まるで夢の中の幻影のように揺らめいた。
池に映るその光景は、まるで眠っていた魔法の気配を呼び覚ますかのようで、
幾筋もの彩光が交じり合い、現実とは思えぬ紋様を描き出していた。
「……きれい……」
緹雅は池のほとりに立ち、静かに感嘆の声を漏らした。
その声音には、珍しく穏やかで、陶然とした響きが宿っていた。
彼女の言葉が、わたしの思考を現実へと引き戻す。
その瞬間、わたしは池の中央に、形のいびつな黒い石が沈んでいるのに気づいた。
それはまるで、静かに鼓動を止めた心臓のように、水面の下でひっそりと横たわっていた。
奇妙なことに、あの眩い光彩は水そのものから生まれているのではなく、
その黒石から屈折して放たれていたのだ。
わたしは慎重にその石を拾い上げた。
手の中でそれを確かめると、表面には繊細な晶質の文様が刻まれており、
太陽光が特定の角度で当たると、極めて強い魔力の屈折効果を発していた。
わたしがその石を掌に包み、わずかに回すと、
そこから放たれた光が洞口の封印を施した岩壁へとまっすぐに射し、
岩の表面に五つの鮮明な魔法陣を描き出した。
この瞬間、わたしはようやく仕掛けの真髄を理解した。
通常、結界魔法を解除するには、単に破壊するのとは違い、
結界そのものの性質を知るだけでなく、専用の術式を把握しなければならない。
中級以上の結界術式は、鑑定眼だけでは見抜くことができない。
つまり――この石の光が結界の術式を映し出すということは、
自爆装置を起動させずに解除するためには、
五つの異なる解除術式を同時に使い分ける必要があるということだ。
この技は……もはや芸術の域だ。
この封印を設計した者は、間違いなく結界魔法に深い造詣を持ち、かつ緻密な思考を備えた魔法使いだ。
そのことを思うと、わたしの胸には抑えきれない好奇心が湧き上がった。
――この装置は、いったい誰の手によって造られたのか?
そして、何を封じるためのものなのか?
とはいえ、解除の術式そのものは、わたしにとってさほど難しくはなかった。
陣式の核心構造と対応する論理さえ掴めば、
それは複雑ではあっても、明快な数式を解くようなものだ。
数分後、わたしが最後の印を結んだ瞬間、
五つの魔法陣の光が同時に消え、
岩壁を覆っていた結界は音を立てて解除された。
封じられていた洞口の巨大な岩が、
低い轟音を響かせながら、ゆっくりと持ち上がり始めた。
やがてその下には、地底へと続く真っ黒な通路が姿を現す。
通路の奥からは濃い魔力の気配が漂ってきた。
だが奇妙なことに、その気配が肌に触れた瞬間、
わたしは言葉では言い表せない懐かしさのような感覚を覚えた。
まるで何かが――わたしを呼び寄せているかのようだった。
わたしは緹雅の方へ顔を向け、真剣な声で言った。
「緹雅、気をつけて。中には……とんでもないものが潜んでいるかもしれない。」
その時にはすでに太陽は沈み、あたりは深い闇に包まれていた。
わたしは『蒲公英の光』を展開し、周囲をやわらかく照らした。
しかし、わたしたちがその未知の空間へと足を踏み入れた瞬間、
目の前に広がった光景に、わたしは思わず息を呑んだ。
そこはただの洞窟ではなかった。
どんな遺跡にも似ていない――時の流れに封じられた古代の祭壇だった。
広い空間の中央には、石段が高く隆起し、円形の高台を形づくっていた。
その祭壇の上方には、八つの石像が静かに立ち並び、
まるで星々(ほしぼし)が運行する軌跡を描くように円を描いて配置されていた。
一体ごとの顔は異なり、あるものは慈しみに満ち、あるものは威厳を帯び、またあるものは冷然としていた。
その彫刻はあまりにも精緻で、今にも動き出しそうなほど生々(なまなま)しかった。
わたしは思わず小さくつぶやいた。
「……まさか、これが――八仙なのか?」
わたしが元の世界で遊んでいたゲームの神話物語によれば、
この大陸の初期の信仰には、
自然と運命の力をそれぞれ司る八りの半神級の存在が登場していた。
彼らは数百年前、この地に集まり、
人々(ひとびと)が知らぬ災厄を鎮めたと語られている。
その姿は歴史の流れの中で次第に薄れたが――
今目の前にある八つの石像は、
伝説の八仙と驚くほど同じ配置と姿勢をしていた。
しかし、そんな存在がこの現実の世界に現れるとは……?
これらの像を造った者は、間違いなくその神話を知っていた。
だが、その神話はこの世界のものではないはずだ。
いったい――このすべての裏には、どんな秘密が潜んでいるのだろうか。
わたしは鑑定眼を起動し、
これらの石像に魔力反応や潜む危険がないかを分析した。
だが、意外なことに――結果はまったくの無反応だった。
それらの石像には一片の魔力も宿っておらず、
ただの石材から彫り上げられたものにすぎなかった。
この異様な静けさは、周囲を満たす高密度の魔力環境とは明らかに不釣り合いで、
わたしは思わず一歩ずつ慎重に進んだ。
「……そんな、馬鹿な……」
わたしは低くつぶやいた。
「これほどの規模の結界と祭壇なのに、
まさか――ただの石で作られた像だなんて……?」
ここには、明らかに何かがある……絶対にある。
そう、わたしの直感が警鐘を鳴らしていた。
だが、その「何」がどこに潜んでいるのか、はっきりと言葉にはできなかった。
わたしが全神経を研ぎ澄ませ、周囲を注視していたその時、
緹雅は、まるで何かに導かれるように、ゆっくりと祭壇へ歩み出した。
その姿は、何かを感じ取っているようにも見えた。
「緹雅、待って――!」
思わず声を上げたが、
わたしの言葉が届くよりも早く、彼女の足は祭壇の中央へと踏み入っていた。
次の瞬間、八つの石像の瞳が同時に輝きを放った。
それは八つの異なる色彩の光――闇の中で星のように瞬く神秘の光だった。
直後、複雑かつ高位な魔法陣が轟く音とともに展開し、
緹雅の足元で瞬時に形を成した。
交錯する符文は燃える糸のように空気を裂き、
眩い閃光が洞窟全体を包み込んだ。
「緹雅!!」
わたしの叫びと同時に、八つの石像のうち一つの瞳から、
まばゆい光柱が放たれ、まっすぐに緹雅の体を貫いた。
その光は攻撃ではなかった。
だが、そこには言葉にできぬほどの奇妙な力が宿っていた。
温もりにも似た光、それでいて、どこか魂を引き寄せるような――そんな感覚。
わたしは反射的に駆け出し、ほとんど転ぶようにして彼女のもとへ飛び込んだ。
両手で緹雅の肩を支え、必死に呼びかける。
「緹雅! 大丈夫か!? どこか痛くないか!?」
だが、彼女はまるで時間が止まったかのように、
その場に立ち尽くしていた。
瞳は焦点を失い、意識は遠く別の世界を彷徨っているかのようだった。
「緹雅! 答えてくれ!」
わたしは焦りを抑えきれず、彼女の名をもう一度叫んだ。
その瞬間、わたしが彼女の肩を揺らすと、
緹雅の睫毛がかすかに震え、ぼんやりしていた瞳が少しずつ焦点を取り戻していった。
「……凝里?」
彼女はまばたきをして、ようやく現実に戻ったように見えた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶよ! ちょっとぼーっとしただけ……。」
わたしは彼女の表情をじっと見つめ、
その瞳の奥から真実を探そうとした。
だが、緹雅の顔色は変わらず、
外傷も、魔力の乱れも感じられなかった。
「今の魔法は、確かにおまえを直撃したんだぞ!」
わたしの声はわずかに震えていた。
「本当に……何も感じなかったのか?」
緹雅は首をかしげ、しばらく考え込んだあとで答えた。
「うーん……多分あれは『情報魔法』の一種だと思う。
当たった瞬間に、何かの記憶かメッセージみたいなものが頭に流れ込んできたの。
でも速すぎて、まだ全部は理解できてない……。
ただ一つ確かなのは――傷つけるための魔法じゃなかった、ってこと。」
わたしはようやく少しだけ息をつくことができた。
それでも、肩の緊張は完全には解けなかった。
「……とにかく、無事でよかった……。」
低く漏らした声には、安堵と恐怖、そして力の抜けた虚しさが混じっていた。
「もし……もしおまえに何かあったら、わたしは――どうなっていたか分からない……。」
緹雅が何かを言う前に、
わたしの腕は自然と動いていた。
気づけば、彼女をそのまま抱き寄せていた。
ほんの一瞬でも、彼女を失うかもしれないと思った――
その光景が脳裏をよぎるだけで、
胸の奥は無数の針で刺されたように痛んだ。
「もぉ、そんなにしないでよ……。」
緹雅は照れくさそうに笑いながら言った。
「わたし、どこにも行かないってば。そんなに強く抱きしめたら、息ができなくなるよ?」
口調は冗談めいていたが、彼女は腕を離さなかった。
むしろ、そっと両手をわたしの首の後ろに回し、
震えるわたしの体を、静かに支えた。
その頬はわずかに赤く染まり、
けれどその瞳は、これまでに見たことのないほど優しく、そして真剣だった。
「……緹雅、もう二度と、こんなふうに驚かせるなよ。」
わたしの声はかすかに掠れ、低く震えていた。
「本気で……心臓が止まるかと思ったんだから。」
彼女の瞳を見つめながら、
わたしはその言葉が幻ではないことを、
確かめるように息を止めて見入った。
わたしのあまりに動揺した反応に、緹雅は何も言わなかった。
ただ――ひとつの行動だけを取った。
彼女はそっと両手を上げ、わたしの頬に触れた。
その瞬間、わたしが息を呑む間もなく、
彼女は静かに背伸びをして、唇を――わたしのそれに重ねた。
それは短くも、時が止まったかのような一瞬だった。
温かく、柔らかく、そして控えめ――けれど確かに、
心の奥に届くほど真っ直ぐな慰めと想いがそこにあった。
「どう? 少しは落ち着いた?」
一歩下がった彼女は、照れたように笑いながら言った。
その声には茶目っ気と、言葉にできないほどの優しさが混じっていた。
わたしがまだその感触から抜け出せずにいると、
緹雅はそっと頭をわたしの胸に預け、
頬を衣に寄せたまま、静かに囁いた。
「……そんなに心配してくれるなんて……わたし、本当に嬉しいよ。」
その時、わたしはもう何も言えなかった。
ただ、彼女のぬくもりを確かめるように、
そっと腕を回し返しただけだった。
わたしは呼吸を整えながら、落ち着いた声で尋ねた。
「それで――いったいどんな“情報”だったんだ?」
緹雅は少し顔を上げ、まだ混乱を引きずった表情で首を振った。
「ごめん……実は、わたしにもまだよく分からないの。」
彼女は静かに息を吐き、言葉を選ぶように続けた。
「さっきの“情報魔法”は、たぶんすごく昔に残されたものだと思う。
わたしたちの使っている魔法の体系とは違っていて……
最初はただの光撃だと思ったの。
でもあれ、わたしの防御魔法を突き抜けて――
その瞬間、まるで何かがわたしの頭の中に流れ込んできたの。」
緹雅は静かに目を閉じ、
先程の光の中で見た光景を、心の奥で反芻していた。
だが、その映像を――わたしには語らなかった。
彼女の記憶の中には、
灰燼と瓦礫に覆われた戦場が広がっていた。
空は墨のように暗く、吹き抜ける風には絶望の嘆きが混じっている。
ひとりの男が、その廃墟の中をゆっくりと歩いていた。
彼は崩れかけた石門の前で足を止める。
門の表面には、十もの符文が淡く瞬いており、
今にも消えそうな灯のように揺れていた。
そして、どこからともなく声が響いた。
「ここで私と出会えるということは、
おまえが封印を破ったという証だ。
この封印を解けるのはおまえだけ。
そしてこのメッセージを見ているということは――
封じられた魔神が、再び目覚める時が来たということだ。」
視界は遠くへと移り、
黒雲の彼方――山のように巨大な影がゆっくりと眼を開いた。
その双眸には紫の焔が燃え上がり、
彼の足下では、大地が崩壊し、世界が軋む音が響いた。
声は、なおも淡々(たんたん)と続いた。
「いずれ、彼らはおまえを見つけるだろう。
だが、その時――おまえは、何も覚えてはいない。」
次の瞬間、
光景は奔る流光のように変わり、
無数の時代と記憶の断片を貫いていく。
やがて映像は一人の男へと戻った。
彼は胸元に輝く杖を抱き、
その柄を見つめながら、静かに微笑んだ。
「おまえは、どうすべきか分からなくなるだろう。
だが、答えはすでにおまえの手の中にある。
“リオ(里奧)”を取り戻せば――すべてが分かる。
だが、やつらは必ず“リオ”を隠すだろう……。」
「私は人を見た。」と緹雅は答え、声はだんだん小さくなっていった。
「誰?」私は緹雅がどうしたのか分からなかった。さっきの魔法の影響を受けたのだろうか。
「分からない。」と緹雅は首を振り、
「その人は顔を覆っていて、体も黒い外套で隙間なく覆われていた。まったく姿は見えなかった。
でも、感じるの……あの人は決して普通の人じゃない。」と言った。
私は眉をひそめて尋ねた。「それで、そいつは何か言ったのか?」
「ええ、一言だけ言って、それに映像のようなものも伝わってきたの。」と緹雅は慎重に回想するような口調で答えた。まるで曖昧な記憶の断片を必死に掴もうとしているかのようだった。
「映像の中には、破壊された都市がいくつも映っていたの。崩れた壁と瓦礫、煙と炎がまだ広がっていた。
それから、その人が低い声で言ったの——“気を付けろ、古き敵が再び目覚める”。」
私にはその言葉の意味が分からなかった。どうしてその黒衣の女の主が、私たちにそんなことを伝えようとしたのかも。
私はしばらく考え、そして再び問いかけた。
「見たその都市、どこか分かるか?」
緹雅は首を横に振り、分からないというように答えた。
「でも……この情報、祭壇の中に仕組まれて残されていたのなら、時期はどうなんだ? さっき、昔に残されたものかもしれないと言っていたよな?」
「ええ。」と緹雅は頷いた。「これは私たちが普段使っている伝達魔法とは少し違うの。しかも、術式の中に魔力の印が残る――つまり、最初に発動された時刻が記録されるのよ。私が確認した術式の構造によれば、この情報は……おそらく約三千年前に記されたものだと思う。」
「三千年前……」と私はその数字を呟き繰り返した。
それは、この世界に黒暗時代が訪れた頃の時代だった。
その当時の各国の大陸も、さらには種族の体系さえも、今とは全く違っていたのだ。
「私たちが八仙洞に来たのは、あの黒衣の人物に導かれたからだ。
それで、祭壇の中にあった情報魔法は、敵が目覚めようとしていることを伝えるためだけ?
そんなことをして、一体どんな意味があるんだ?」
私は頭を掻きながら、脳が爆発しそうなほどの混乱を感じていた。
「とにかく、ここの情報は曖昧すぎて、私たちが何をすべきか判断できないわ。』
私は洞窟の入口から外を見やった。空はすでに完全に暮れていて、低い声で言った。
「先に出よう。戻って妲己たちと合流したあとで、落ち着いて整理しよう。」
緹雅は頷いた。「そうね。これ以上遅れたら、彼女たちが私たちに何か起きたと思うかもしれない。」
そうして、私と緹雅は洞窟を後にした。
「まさか……これらのこと、最初から予めて察していたの……?」出発の準備をしている時、緹雅は無意識に呟いた。




