第一卷 第七章 未来に灯りをともす-5
聖王国の拠点に戻った後、私は『八仙洞』と呼ばれる場所へ向かうことを決めた。六島之國へ出発する前に、まずその地に何があるのかを確かめておきたかったのだ。
これまでの調査によると、『八仙洞』は聖王国領内の「玄峭山」という山脈に位置している。
玄峭山は聖王国四大古山の一つであり、長い歴史と神秘的な伝承を持つ。山の形状は奇妙で、まるで天から落ちてきた巨石がそのまま大地に横たわっているかのようであった。
山間には常に霧が立ち込めているが、龍霧山のような暗く重い気配とは異なり、玄峭山の気候は穏やかで心地よい。
特に春になると、山の斜面には「春陽花」と呼ばれる桃色の花が咲き誇る。
この花は春の間だけ咲き、十分な日差しを浴びなければ開花しない。香りは独特で、清すがしく、ほんのり甘みを帯びている。
山道を歩くたびに、その香りが風と共に漂い、まるで世界全体が春陽花の香気に包まれているかのようであった。
景観は実に美しく、花の海と山々(やまやま)が織り成す情景の中、木々(きぎ)の隙間から射し込む陽光がきらめく。
この地を歩いていると、思わず想像してしまう――もしかすると古の文人や雅士たちが、ここで詩を吟じ、友と語らいながら共に遊んでいたのかもしれない、と。
しかし、この美しい光景は長くは続かなかった。
私たちが山の奥へと進むにつれ、周囲の環境は次第に暗く、湿り気を帯びていった。
陽光はもはや先程のような明るさを失い、霧は徐々(じょじょ)に濃くなっていく。
まるで世界全体が灰色のヴェールに包まれてしまったかのようであった。
狭い山道を辿りながら歩くと、岩壁に滴る水滴が岩肌を伝い、静かな音を立てて落ちていくのが聞こえた。
山の奥へ進めば進むほど、道はますます狭まり、周囲の空気は重く湿り気を帯びていった。
呼吸をするたびに、粘りつくような湿気が肺の奥まで入り込んでくるのを感じる。
軽装の衣を身に着けていても、この息苦しい空気と重圧のような雰囲気は避けられなかった。
ここに漂う空気は、まるで何か目に見えぬ力によってかき乱されているようで、深く息を吸うことすら難しかった。
一歩進むごとに、周囲の景色は微かに変わっていく。
木々(きぎ)はより古びた姿となり、太い蔓が幹を這い回り、まるでこの地を侵す者への警告のように見えた。
もし初めてこのような場所を訪れたなら、誰であっても、この秘められた深山の中で迷わずにいられる者はいないだろう。
この道はただ隠されているだけでなく、場所によっては蔓や岩に完全に覆われ、進むべき方向を見失ってしまうほどだった。
それゆえにこそ、人の心にはますます好奇の念が湧き上がる――
あの洞窟の奥には、一体何が隠されているのだろうか、と。
霊蛇の足跡を辿りながら、私たちは山道をおよそ半刻ほど歩き続けた。
やがて、周囲の植生は次第にまばらになり、まるでこの山林そのものが、何か神秘的な存在を避けているかのようであった。
そして、ひとつの崖頂を越えた瞬間、私たちの目の前に現れたのは――
伝説に語られる「八仙洞」であった。
その洞窟は驚くほど目立たず、もし霊蛇の特別な定位能力がなければ、私たちだけの力では、見つけ出すのにどれほどの時間を費やしたか分からない。
洞窟の真上には小さな天坑が開いており、そこから差し込む陽光が垂直に落ち、地面に淡い光輪を描いていた。
しかし、その周囲は濃い霧に包まれ、外部からの視線を遮り、まるで外の世界と切り離された聖域のように見えた。
私たちは洞窟の入口の前に立っていた。
その入口は、巨大な岩によって封じられていた。
岩の表面は斑に風化していたが、その構造は異常なほど堅牢で、まるで山体そのものと一体化しているかのようであった。
洞口の近くには小さな池があり、水面は澄みきっていて、静かに天坑から差し込む光を映していた。
池のそばには、一枚岩から削り出された石の卓と四つの椅子が並んでいる。
長い年月の風雨がそれらに刻んだ痕跡が、静かに時の流れを語っているようだった。
卓の上には何も置かれていなかったが、不思議なほど清潔で、まるで最近になって誰かが手入れをしたかのように見えた。
私は一歩前へ進み、封じられた岩に手を伸ばして触れた。
それは氷のように冷たく、硬く、そして何の魔力の波動も感じられなかった。
しかし、私が鑑定の眼を起動させた瞬間、視界の景色が変わった。
岩の表面には、五重の結界の紋路が浮かび上がる。
そのうち四層は六から七階級の防護術式であり、最も内側に存在するのは――九階に属する高等結界構造だった。
「どうやら、この結界を解くには少し手間がかかりそうだな……」
私は低くつぶやきながら、手のひらをわずかに持ち上げ、指先に魔力を凝らせ始めた。
しかし、私が手を動かそうとしたその瞬間、背後から水の跳ねる澄んだ音――「ぽちゃん」という音が聞こえた。
その音は小さかったが、静寂に包まれた山谷の中では、まるで空気を切り裂くように響き渡った。
続いて、低く、それでいて落ち着いた調子の声が、私の背後から聞こえてきた。
「絶対にそんなことをするな! もし無理に結界を破れば――お前は、自分が本当に知りたい答えを、永遠に知ることはできなくなるぞ。」
その瞬間、稲妻に打たれたような衝撃が全身を走った。
この声は遠くからではない――ほとんど耳元、手を伸ばせば届くほどの距離から発せられていたのだ。
だが、何より恐ろしかったのは――私はその存在の気配を、まったく感じ取れていなかったという事実だった。
私は反射的に身を翻し、右手に瞬時に武器を召喚した。
霧がわずかに晴れるとともに、黒い外套を纏った人影が静かに姿を現した。
その人物は池の中央に立ち、まるで周囲の空間と一体化しているかのようだった。
水面には波紋ひとつ立たず、倒影すら揺らめかない。
「お前は……何者だ?」
私は低く問いかけ、視線を逸らすことなく、相手の一挙手一投足を注視した。
黒衣の人物は、わずかに頭を垂れ、顔の大部分を外套の影に隠していた。
かろうじて見えるその口元には、仮面が掛けられており、素顔を窺うことはできなかった。
彼女の声は落ち着いていて、私の問いに動じる様子もない。
「私が誰であるかは重要ではないわ。――大切なのは、あなたたちがこの洞窟の秘密を知りたいと願っているということ、そうでしょう?」
その瞬間、全身を圧し潰すような威圧の気配が空気を震わせた。
呼吸が重くなり、胸の奥が締めつけられる。
――この気。
この女の放つ気配は、これまで私が出会ったどの敵よりも、遥かに強い。
私はそばにいる緹雅を横目で見て、
その反応を確かめようとした。
だが、驚くべきことに——
彼女はいまだその場に立っているものの、
まるですべての動作を失ったかのように、
体は硬直し、瞳は虚ろで、
髪の毛さえ 空中で静止したまま——
まるで時間そのものが止まったようだった。
「緹雅!?緹雅!おまえ(お前)は彼女に何を したんだ!?」
わたし(私)はその人間に向かって大声で問い詰めた。
そのときようやく気づいた。
周囲の虫の鳴き声も、鳥のさえずりも、
そよ風の 揺らぎも——すべて消え失せていた。
世界全体が無音の膜に閉じ込められたように。
——これが、まさか伝説に語られる時間の魔法なのか?
その時、黒衣の女はただ静かに手を挙げた。
「これが私の『領域魔法』よ。でも、あなたと戦うつもりはないの。」
この世界において、いわゆる領域魔法とは、遊戯における最上級の職業技能に相当する。多くの職業技能は領域魔法に分類され、そして領域魔法そのものの強度は、十階魔法を超える。
記録によれば、なかには神器を破壊し、概念を消去し、時間や記憶を再構築するほどの強大な領域魔法さえ存在するといわれている。
そのような力に対抗できるのは、同等の力を持つ領域魔法だけである。
契約の印と神器の存在を知っているため、彼は常に自らの領域魔法──「原初の息」──を発動していた。この魔法の加護のもとでは、ほとんどの非攻撃性魔法から守られる。
だが、意外なことに、初めて遭遇した時間魔法さえも防ぐことができたのだった。
その時、黒衣の女はただ静かに手を挙げた。
「これが私の『領域魔法』よ。でも、あなたと戦うつもりはないの。」
この世界において、いわゆる領域魔法とは、遊戯における最上級の職業技能に相当する。多くの職業技能は領域魔法に分類され、そして領域魔法そのものの強度は、十階魔法を超える。
記録によれば、なかには神器を破壊し、概念を消去し、時間や記憶を再構築するほどの強大な領域魔法さえ存在するといわれている。
そのような力に対抗できるのは、同等の力を持つ領域魔法だけである。
契約の印と神器の存在を知っているため、私は常に自分の領域魔法──「原初の息」──を発動している。この魔法の加護のもとでは、ほとんどの非攻撃性魔法から守られる。
だが、意外なことに、初めて遭遇した時間魔法さえも防ぐことができたのだった。
それに加えて、相手はこの魔法を感知することもできない。
しかし、この魔法は私の領域魔法の中でもっとも魔力の消耗が激しい。もし全面的に障壁を展開すれば、数分のうちに私の魔力の大半が失われてしまうだろう。
だが、自身だけを保護する範囲にとどめれば、必要な魔力量は完全に展開した場合の十分の一にすぎない。さらに、私の体内に蓄えられた魔力はまだ十分に豊富で、短時間の突発的な状況にも対処できるだけの余裕がある。
この魔法のおかげで、私は相手の魔法の影響を受けずに済んでいるのだ。
「なにをするつもりなの?」
「私の主は、あなたたちがこの場所へ来ることを望んでいるの。だからこそ、私は案内してここまで導いたのよ。もしこの場所の秘密を知りたいのなら、この石を壊さないことね。」
「どうりで神の封書には、標された地点の記述がなかったわけだ……。やっぱりこいつの仕業か。」
私は心の中でそう呟いた。
私は黒衣の使者に問いかけた。
「あなたの主とは誰なんだ? どうして私をここに呼んだ?」
「それは私が話すことのできないことよ。それに、大した意味もないわ。聞いたところで無駄よ。」
「もしかして、あなたも『契約の印』に縛られているのか?」
「そんな小さなもの、私には何の効果もないわ。」
「……。」
さらに問い詰めようとしたその時、彼女はふいに顔を上げ、遠くの天坑を見つめながら、静かに口を開いた。
「どうやら領域の時間が尽きたようね。私は行くわ。あなたたちの幸運を祈っている。」
「まっ……!」
言葉を最後まで言い切る前に、その使者の身体は突如、墨のように溶け、漆黒の霧影となって静かに空中を一巡し、そのまま細かな欠片となって風の中に散り消えた。
そして、空間を覆っていた重苦しい圧迫感も、同時に跡形もなく消え去った。




