20021 負け
「ガッ……ぐぐぐ…………うぅぅ……ッ」
探偵、目貫千は生きていた。生きていたが死に体だった。
バタフライナイフで刺されたのは、完全に千の読み間違いだった。完全敗北だった。
刺されたのはへぞの右下。痛い。千は泣きそうだった。ショック死しそうなくらい痛い。この痛みを消すためなら何だってする。
刺された上から蹴られたせいで、腸はズタズタだろう。傷口も広がって、血がドクドク溢れてきている。これ、抜いたらどうなるかな? 更に出血するだけですかね?
しかし、今は何時だろう。いや、何時でも関係ないか。
こんな山の中だ。助けは絶対来ない。病院に行くのも難しい。
「ぐぁぁぁ……あぐっ」
あー…………………………これは死んだな。
千は諦めた。
「HAHAHA待たせたな、fuckの時間だぜ」
「ぐ……げほッ。待ってねぇよ短小が」
「まだ生きてやがったか」
倒れ、動けないでいた死地妊。『わいら』の射撃で受けた傷が開き、更にヤキトに殴られて鼻と肋骨を折っていた。
それでも中指を立てる。
「待ってたのはお前じゃねぇ、俺のJrだ」
「…………うげ」
ヤキトがジーンズと下着を下ろす。500ミリリットルペットボトルのような性器は、すでに臨戦態勢だった。
当たり前だが、人間の身体のどこに対しても、そんなものを挿入したら肉が裂ける。
「や、や、ヤキトさん!!?」
「ば、馬鹿野郎、目貫!! 寝てろ!!」
チンピラが悲鳴を上げ、死地妊が苦痛をこらえそれでも叫ぶ。
全身を総毛立たせて振り返るヤキト、その目に写ったのは、亡霊のように立つ目貫千。
暗闇の中でも、その腹から溢れた血液が、スラックスを染めているのが見える。
カチリと、フラッシュライトを点ける千。右手にはバタフライナイフ。
「クソッ! そいつを止めろ!!」
「ひい、無理ですって!!?」
ヤキトはまず、ズボンを完全に脱がねばならなかった。慌てて周囲を見る。さっきはたき落とされたナイフはどこだ。
靴を脱いでズボンを引き抜くより、上げたほうが早いか、焦ってうまく履けない。
「馬鹿が……きたねーモノぶら下げやがって!」
腹から血を吹き出しながら、死地妊が右手を振り上げた。身体の言うことが聞かず、狙う通り金的に命中はしなかった。
しかし、靴下に入った石の塊で大腿部をぶん殴られてヤキトは飛び上がった。
「ぎゃああああ!?」
「もう一発!!」
「この穴!!」
ヤキトは死地妊に拳を振り下ろす。石を詰め込んだ靴下と同様か、それ以上の破壊力。
顔面を強く打たれて、死地妊は倒れて動かなくなる。眼球が破裂したのか、閉じた左目から血が流れる。
その間に、石を掴んで殴りかかったチンピラは倒されていた。
バタフライナイフの刃は使わず、鼻を折られ、脳天を叩かれ、膝で顎を砕かれて。
「…………オレの負けだよヤキト」
ドライバーが欲しいな。千は幽鬼のように歩きながら考えた。
千の空手はドライバーを使う。明らかに真当ではないが、使うものは使う。
『目貫』だ。隣人はその動きをそう呼んでいた。眼球を食い破り脳まで達する必殺の突き。
『これでお前は誰でも簡単に殺せる』練習して練習して練習して……その上でどうするのか。子供の頃の千は考えていなかった。
だから型を完璧にした頃に言われた隣人の言葉は、胸に深く刺さった。
『お前より弱い奴らを守るためだけに使えばいいのさ』
そうだよ。畜生。誰よりも強くあって、誰よりも冷静で、タフで挫けず屈しないのがハードボイルドだ。だから……『目貫』なんて、使うことのない技術だ。
だが、ヤキトが千より強いなら、使わない手はないだろう。強い相手に手加減なんて必要ないからな。
痛すぎて頭が回らない。勘弁して欲しい。今すぐ寝たい。知朱に会いたい。会って、言わないと。
ごめん。お前の遊び相手は、もうできなくなる。って。
千は神に祈らない。運命を呪わない。
ただ、結果を受け入れ冷徹に判断する。それがハードボイルドだと信じている。
故に、そこに差し伸べられたのは救いの手ではなく、さらなる混沌。
『ぅぅぅぅおおおおおおおん』
「は?」
「…………嘘だろ」
『わいら』。とどめを刺したと思っていたのに。
千は倒れた。あの音はヤバい。骨の散弾が来る。地面に転がりながら、千はぼんやり考えていた。
あー、『ムジナ』でもあるんだったか? つまりあれは『アナグマ』同様に死んだふりをするってわけか。
骨の散弾は発射されない。代わりに、なにか白い光が視界の端で動いた。
「なんだてm…………」
ブビュッ! 不愉快な水音と同時にヤキトが脱糞した。千は笑おうとして、すぐにその意味を理解した。
『くねくね』……『河童』…………。おそらくヤキトは、あの時の、バスの中の三十女と同じ表情をしているはずだ。
人格のすべてを取り払われた『空白』。
今飛び出したのは糞便ではなく……尻子玉だとでも言うのか。
ヤキトは無力化したとしても、別の脅威が迫りつつある。
そんな中で、千の意識は急速に闇に飲まれつつあった。
眠かった。痛みも引いてきた。
安心すると同時に、心のなかでむくむくと大きくなる焦燥。
当たり前だろう?
今、ここで眠ったら二度と目が覚めない。
分かってはいるけれど抗うことは叶わない。
………ぽっかりと口を開けた死の深淵に、千はなす術もなく滑り落ちていった。
そしてその先で彼は、広がる銀河を見た。
序章 『2008年の暗夜行』
終幕




