20019 命乞い
「叩くときは平手に決めてる。殴ったら死んじまうからな…………その穴、死んじまったか? 死んでたら面倒だな。さっさと犯らねーと冷たくなっちまう」
ベタつく液体で汚れたナイフを片手に、黄色い歯を剥き出しのニヤニヤ笑い。巨漢の黒人男性ヤキトが、くだらない事を喋りながら探偵、目貫千に近付いて来ていた。
「『アナグマ』を刺したのか?」
「裏切り者にはふさわしい罰だ。一度裏切った奴は次も裏切るぜ。お前は俺に感謝するべきだ正義マン」
ナイフは新しい血が滴る。『アナグマ』の血だ。千は倒れ込んで動かない死地妊を一瞥した。
「お前、ヤオもグーで行こうとしてなかったか?」
「うるせえぇぇえ!!! あのクソ穴!! よく考えると『前回俺を殺した』穴だったしよぉ!!!」
突然泡を吹いてブチ切れるヤキト。その言葉の意味を、常人は理解出来まい。
千は目を剥き、息を吸って、吐いた。…………夢の中で見た巨大な女が、千を何と呼んでいたのか。
『殺し奪うだけの才の果てたる百の魂の一つ』
忸怩たるものはあれど、違うとは言えなかった。事実千には才能があった。自覚していた。
そして……ヤキトは己以上に『殺し奪うだけの才能』がある。反吐が出るほどに
「絶対殺す! ◯◯◯もケツも口も! 目玉もえぐってfuckしてやる!!」
「……オレたちは関係ないだろ? ここは危険だ。これを見ろ、変なバケモノがうろついている」
千は攻撃の意思が無いことを示すかのように両手を上げた。『わいら』を示すもヤキトは鼻で笑う。
「テメエは、俺があの穴にノックアウトされたのを見てたよなぁ?」
「誰にも言わない。土下座でも何でもする。足を舐めてもいい。命あっての物種だ! 見逃してくれよ!」
完全に問答無用だ。それでも千は食い下がる。見栄も外聞も捨てた言い草に、ヤキトは噴き出した。
「HAHAHA!! みっともねぇなあ! そっちが本性かよ! いいぜ、消えな!!」
「ありがたい」
千は卑屈に笑って、ヤキトからジリジリと距離を取ろうとした。付き合っていられるか。
「待てよ」
「な、なんですか?」
「そっちに行くな」
不機嫌なヤキトに、千は肩をすくめた。進行方向にライトを照らす。
「どういうつもりだ」
「見逃してくれるんだろ?」
「テメエだけに決まってんだろこのidiot! それ以上俺の穴に近付くな!!」
ライトを向けた先では、黒い服の女が身動ぎしていた。死地妊は生きている。しかし、動けないような負傷。
千はゆっくりと体の向きを変えた。
「『オレたち』は無関係だから見逃してくれって頼んだだろう? できれば『アナグマ』もなんとかしないと、一人で三人は背負えんが」
「ふざけてんのか? お前だけに決まってるだろ!! 穴は置いてけ!!!」
「仕方ないな」
死地妊を助けられないのであれば、媚びへつらった意味もなくなる。
だが、無駄な消耗を避けたいのも事実だった。少なくとも千は、『わいら』が一匹だけとは思っていない。
「殺しと略奪以外何も考えられないのか?」
「あ? 当たり前だろうが。男は殺す。穴はfuckする」
「分かった分かった、もう喋るな」
千は己を上等な人間だとは思っていない。だけれど、こいつと同列に扱われるのだけはゴメンだ。
どれだけ、自分がどうしようもない人間だったとしても。
「オレは探偵だ」
「は?」
「『かくあれかし』と生きてんだよ!!」
彼我の距離は7メートル。お互い腕を上げて構えながらゆっくりと距離を詰める。
……奇しくも両者の構えは似ていた。
左前の半身、脇を締め、飛びかかる前の野生動物のように身をかがめる。
千は左手に光を絞ったフラッシュライトを。ヤキトは血塗れの大型ナイフを。それぞれ逆手に。
刀身が20センチもある大振りなナイフは、ギラギラと危険に光る。
ボクサーのような構えで、じりじりと円を描くように動く千。じわじわと前に出るヤキト。
187センチの千と192センチのヤキト。身長はほとんど同じだが、身にまとう筋肉量は違う。
千も鍛え抜かれ絞られているが、ヤキトは黒人特有の発達した、鎧のような肉体を誇る。
怖いな。マジ無理。
千は思った。
体重差があるから、パンチの威力が違いすぎる。しかもこっちはライトなのにヤキトはナイフだ。なんだあの長さ、あんなので刺されたら死んじゃうじゃん。
しかもボクシングに見せかけてるけど、他の格闘技もやってる。もちろんボクサーのパンチも打ってくるが、本命はたぶん蹴り。
あの丸太みたいな足で蹴られたら骨もベキベキだよ。女子供なら本当に死ぬ。
あんなにキレてたし、更に挑発したのに、殺し合いになったら即座に冷静になっちゃうし。
ある意味で『わいら』より厄介なんじゃないの? 無傷で倒すのは無理だよ。
痛いのは嫌だな。千は泣き虫で平和主義なのだ。
「死ねよッッ!!」
ヤキトが体格を利用したぶちかまし。壁が迫ってくるかのような威圧感。左に避けたらナイフで、右に避けたらキックが来る。
千はライトを点けた。目眩ましをして身を屈め、思ったよりも鋭いナイフの一撃で頭皮を削られながら足払い。
「damn!!」
素早く距離を取る千。おいおいおい。目が見えなくて当ててくるのかよ、位置もタイミングもずらしたぞ?
後頭部から流れ出した血液が耳に伝う。顔の側でないのが救いだが、ハゲになったらどうしてくれる!?
「殺す! 殺す!!」
「それはさっきから聞いてるぞ」
挑発しながらも冷や汗が止まらない。立ち上がるヤキト。思いっきり振りかぶる。
「ぶっ殺す!!」
投石! 風を切る石塊と飛散する土。ナイフを前にして踏み込んで来るヤキト。
千は覚悟を決めた。




