ゼノンの息子
侯爵の執務室を後にしたティアは、参謀長ゼノン・グリッドに連れられて、再び薄暗い廊下を歩いていた。
彼女の心は、侯爵との交渉が成功した安堵と、キラのことが心配で胸がいっぱいだった。
しばらく歩くと、ゼノンは立ち止まり、兵士に簡潔な指示を出した。
「先ほど捉えた少年を解放し、連れてこい。」
数分後、キラが手錠を外され、二人の元へ駆けてきた。ティアは思わず駆け寄った。
「キラ!」
「ティア!無事だったか!?」
「ええ!キラこそ怪我はない?」
二人は互いの無事を確認し、固く抱き合った。人生で初めて牢へ入れられた時の無力感や苛立ちで固くなっていたキラの心が、ティアの温かさに触れて、少しだけ解けていくのを感じた。
ゼノンは二人の様子を黙って見守ると、静かに声をかけた。その声には、感情の起伏は一切感じられない。
「君たちの赤炎島での行動は私の監視下に置かれた。今後は私の屋敷に滞在してもらう。」
キラはゼノンを睨みつけた。
「俺たちの話も聞かずに牢屋に入れたくせに、今さらなんだ!」
「キラ!」
ティアが慌ててキラの袖を引く。ゼノンは怒るでもなく、その冷たい視線でキラを見つめた。
「君たちの不審な行動が、島の防衛網に引っかかったのは事実だ。軍として当然の判断だ。君たちのスパイ容疑は完全に晴れたわけではない。怪しい行動をした場合は即刻勾留されることを理解しておくように。」
淡々とした口調でそう言い放つと、キラが何か言いかけるのを待たずに、屋敷へと向かった。
ゼノンの屋敷は侯爵の城に、ほど近いところにあった。重厚な石造りの壁を通ると、中は広く、前庭を抜けた先に、和を感じさせる屋敷があった。中に入ると、人を寄せ付けないような外壁の印象からは想像もつかないほど、温かい雰囲気に満ちていた。奥方が笑顔で二人を出迎え、キラと同じくらいの歳に見える息子が、姿勢を正して父親を出迎えた。
「お帰りなさい。あなた。」
「あぁ、ソフィア。悪いが連絡した通り、彼らの世話を頼む。」
奥方のソフィアは、キラとティアを笑顔で歓迎した。
「疲れたでしょう?我が家だと思ってくつろいでちょうだいね。」
「父上、お帰りなさい。街で騒ぎがあったと聞きました。この方達と関係があるのですか?」
「カイル、彼らは赤炎島のことを知らない。お前が手を貸してやりなさい。島の外のことを知る良い機会になる。」
ゼノンは息子の肩に手を置き、頼んだぞと言っているようだった。
息子と奥方に向ける眼差しは、温かさを含み和らいでいるように見えた。ゼノンは家族にはキラたちがスパイの疑いをかけられたことは知らせていないようだった。
家族に要らない心配をさせないためか、キラとティアに歩み寄ってくれているか、その意図はわからないが、温かな歓迎にキラたちはほっと胸を撫で下ろした。
「君たちは軍人ではない。私をゼノンと呼んでくれて構わない。赤炎島にいる間は私の屋敷に滞在しなさい。私は一度軍に戻らねばならない。私が戻るまで、屋敷から出ないように。」
ゼノンはキラたちに指示すると、妻のソフィアに頼んだと言い残し、屋敷を後にした。
キラはカイルに連れられて、屋敷の中を歩いていた。
「お前、父上に(ゼノン)に迷惑をかけたみたいだな。父上は、侯爵様の補佐官であり、軍の参謀長で毎日忙しいんだ。煩わせないでくれ。」
カイルは、まっすぐに前を見据えたまま、咎めるように言った。彼の言葉には悪意はなかったが、頭ごなしに言われたことに、キラは気分が悪くなり、何も答えなかった。
カイルは、キラの様子にそれ以上何も言わなかった。二人の間には、気まずい沈黙が流れた。
牢屋に入れられたせいで埃まみれのキラが連れられたのは、温泉が引かれた大浴場だった。
「すごい……」
キラは思わず声を漏らした。
そこには、湯気が立ち込める大きな湯船があった。
赤炎島には活火山があるため、温泉が湧くことは知っていたが、実物を見るのは初めてだった。
カイルは、キラの驚いた様子を見て、少し得意げに言った。
「赤炎侯爵領には温泉が湧く。この島の源泉は『火の遺跡』の力で熱せられているんだ。」
カイルの言葉に、キラの好奇心が刺激された。
「遺跡の力で、どうやって温泉を?地熱で湧いているだけじゃないのか?」
キラの純粋な疑問に、カイルは真剣な表情で答える。
「違う。遺跡の力が、地中の水を熱しているらしい。水の成分を分析した研究者が、普通の温泉とは成分が少し違うと書いている論文を読んだ。」
「へえ、それは面白いな!」
「ともかく、君は埃だらけだ。早く風呂に入るぞ。」
二人は、温泉の仕組みについて議論を交わし始めた。最初はぎこちなかった会話は、共通の興味を見つけたことで、徐々に弾んでいく。キラは、カイルがただの規律正しい軍人の息子ではなく、自分と同じように探究心を持っていることに気づき始めた。そしてカイルもまた、キラがただの反抗的な少年ではなく、純粋な好奇心に満ちた、まっすぐな目を持つ人物であることを知った。
湯船に浸かりながら、二人は自然と打ち解けていった。温泉の温かさが、二人の間にあった心の壁を少しずつ溶かしていく。
「改めて、僕はカイル・グリッドだ。君たちのことを父上から任された以上。面倒を見てやる。」
「キラ・スカイラーだ。」
2人はお互いの手を固く握りしめ、握手を交わした。温泉の効果なのか、二人の心も体もほぐれているようだった。
「・・・大丈夫か?」
カイルがやや呆れ顔でキラに声をかける。
キラは温泉の脱衣場に備え付けられた長椅子に仰向けになっていた。おでこの濡れタオルはカイルがのせてくれた。初めての温泉に興奮したキラは、少しでも長く浸かっていたいと、カイルの助言を聞かず、湯当たりして、のぼせてしまったのだ。
「だから慣れないうちは早めにあがろうと言ったんだ。」
ため息まじりに、小言を言うカイルに、キラは大丈夫と言うように、手をぷらぷらさせた。




