逃亡
桜はベットに入ったものの、一睡も出来なかった。
眠れないなら眠る必要は無いと、桜は勉強を進めた。
一晩中机に向かっていたから、身体は凝り固まってしまって、頭は重い。
リュートが宮殿に戻ってこないのは、きっと忙しかったからだと解ってはいても心は晴れる訳もなかったのだ。
朝起こしに来てくれたマリアに説教されながら、身支度を整えて貰った。
本当は自分だけでやりたいのだが、それが仕事だからとマリアに言われて押し切られてはそれ以上何も言えない。
今日の勉強も止められてしまっては、もう何もすることがない。……リュートの為の料理すら会食があるからと断られてしまった。
こんな時、本当に自分には出来ることが無いのだと桜は痛感してしまう。
実際には、桜がいるだけで他国の王族と政略的に婚姻を結ぶよ比べ物にならない位に恩恵が大きいのだが、その実態を桜自身はよくわかっていなかった。
当たり前だろう、こちらの世界にいきなり来てしまってまだそんなに日がたってはいないのだから。
桜の常識や価値観とこちらの常識や価値観との大きな相違があることを、お互いに理解していない事に宮殿の誰も気付いていなかったのだ。
リュートだけは理解していたが、そもそも巻き込ませるつもりがなかった為に後手に回ってしまっていたのだ。今も尚、桜は自身が安全に造り上げた宮殿と言う檻の中で……何者からも護りきれていると思っているのだ。
桜は部屋に籠っていては余計悪い方に考えてしまいそうで、バルコニーから庭に降りると宛てもなく歩き始めた。
今思えば、大人しく部屋にいれば良かったのかも知れないが後の祭りだ。
そのせいで聞く何気無しに侍女達の噂話を器用に拾い上げてしまった。体が重いのだから、聴力も鈍っていれば良いものを鮮明に言葉として拾い上げてしまう。
『王太子妃宮殿に王女様がいらっしゃっているらしいわ』
一人の侍女が言うと、
『妃候補ですってね。……桜様がいらっしゃっるのに、何でリュート様もお断りにならないのかしら!?』
もう一人の侍女が答える。
『何でも向こうの国のたっての申し出だったんで、邪険に扱えなかったらしいわよ!?』
『大臣の中でもこの婚姻に賛成派が多くいるらしいわ』
『まあ、複数の妃を持つ王族は多いから特別珍しい事では無いけれど、私は嫌だわ』
『でも、王女様はとてもお美しいもの、リュート様もまんざさらでも無いんでしょうね。じゃなきゃ、今までは断っていた申し出を受ける筈無いものね』
正直もう聞いているには限界で、かといってリュートと一緒に寝ている寝室に戻る気にはどうしてもなれずに、気がつけば桜は王宮を飛び出していた。
桜に加護が働いているのも禍し、通常ならまずあり得ない事だが誰にも出会う事なく難なく城を出ることが出来てしまったのだ。
外に出てからも、服装もカジュアルだったものだから、誰一人桜が運命の乙女にして王太子妃だとは気付かなかった。
途中、王宮に食材を納品している馬車の後ろに乗せて貰うと王都迄運んで貰った。
だからといって宛てなんてない。
正直手持ちもない。本当に当てずっぽうな行動だったと自分でも思ったが、それでもあそこにはいたくなかった。
桜が宛てもなくふらふら歩いていると、踞った一人の老女と出会った。
「お婆さん、どうしましたか?……具合が悪いのですか?」
桜は膝をついて身を屈めて、老女の背中に手を掛けた。その瞬間桜の手に光熱源が凝縮して発生しお婆さんが抱えている病、心臓の疾患を治癒してしまった。
治したのは間違いなく桜なのだが、桜自身は何をしたのか、いや、何かをしたことすら気付いていなかった。
「!!!!!……お嬢さん、今何を?」
驚いたのは治されたお婆さんだ。
彼女の手が触れた瞬間、心臓の激痛が和らぎ呼吸が回復したのだ。
ただ、当の本人は未だに自分を心配している。
気付いていないのかも知れない。
なら、何も今は言わない方が良いだろう……そう思ったお婆さんは、
「親切なお嬢さん、どうも有り難う。お嬢さんのお陰で体が軽くなったよ」
「私は何もしていないけれど、お婆さんの具合が良くなったのなら嬉しいです。……それと、この量の荷物を運んでいたんですか?」
桜はお婆さんが言った言葉は社交辞令だと思い込んで、表面上のお礼だけを受け取った。
心配するあまり周りを見ていなかったが、お婆さんは大きな荷物を二つも持っていたのだ。
これを運んでいたのでは疲れてしまう筈だ。
「あのベンチで少し休んだら、私が荷物をお持ちしましょうか?」
「そんな……申し訳ないわ」
「大丈夫です…どうせ何もやることも無かったし」
こうして桜が荷物を全部持ってお婆さんを送って上げる事になったのだ。
その道中、桜が宿無しなことを話すとお婆さんは自身の自宅に住むと良いと親切な提案をしてくれたのだ。
始めこそ遠慮していた桜だったが行くところが無いのは本当なので、結局押し切られる形で住み込みで働く事になったのだった。




