第4話 ナヒロの想い
目を開けると、見慣れない天井の模様が飛び込んできた。身体には分厚い上掛けがかけられている。
それだけで、ナヒロは察した。
(助けられた、の……ね)
ナヒロが知る天蓋付きベッドがある場所は王城以外知らない。ここは王城内の一室になるのだろう。ナヒロが使う女官の部屋でも、アカリが使う部屋でもない。
身体を起こそうとするが、重たい重りが身体中につけられているかのようにまったくびくともしない。
左右に動かすと全身に痛みが走った。目蓋を閉じ、痛みがおさまるまで待つと一息ついた。
再度天井を眺める。やはり助け出されたとしか言いようがない。
牢へ閉じ込められ、アカリが連れ出されたそのあとのことは覚えていない。
牢でうっすらと、モヤのかかった先に誰かをみたような気がした。現実と、夢が混じり合い、誰だったのか思い出せない。ナヒロにとって大事な人だったような――。
夢か現実か。唸っていると、カーテンが小さな音をたてて開く。カーテンで遮断されたベッドの向こう側は陽光で明るかった。
眩しさに目を眇めると、カーテンを開け入ってきた女性が、目を丸くするナヒロを覗き込んだ。
「まあ、目を覚まされたのですね」
かけられた声に反射的に首肯した。カーテンの向こう側の眩しさに目が眩み、目蓋を閉じると、再び睡魔に襲われた。
身体がものすごく怠い。
ナヒロが再び目を覚ますと、本を片手にもった、見知らぬ女性が椅子に座っていた。
アカリが着用していた服を着た女性は、ナヒロの視線に気がつき、本から顔を上げる。
「お目覚めにならせましたか?」
「あ、は……い」
「……お待ち下さい」
中側からドアを叩く音に続いて外側から、ドアが開けられる音が聞こえた。
「殿下にお伝えくださいませ。一度お目覚めになられましたが、また寝てしまわれました、と」
了承と同時にドアが閉じられた。
カーテンが開けられ、ベッドから起き上がれないナヒロへ女性は一礼をした。
「ナヒロ様」
女官はナヒロの名を呼ぶ。ナヒロは知らない人だ。女性は硬質な表情を一切崩すことなく、名を名乗った。
「暫くの間ナヒロ様のお世話をさせて頂きます、フェリーチェ・ルータ・カルトラと申します」
フェリーチェは栗色の髪を後ろで結び上げ、ナヒロとは比べようのない優美さで、挨拶をした。
カルトラ家は確か、ナヒロとは爵位が違う。ナヒロは地方領主の娘になるが、カルトラ家は、地方領主を統括するさらに上の位の貴族になる。
恐れ多くて、とても敬称なしでなどできない。これが、パーティなどであれば、会話をすることすら許されない地位にいる人だ。
「フェリー、チェ……さん」
掠れた声で名を呼ぶ。呼び捨てはどうやってもできない。
「何用でございましょうか?」
フェリーチェは無表情で、ベッドに横たわるナヒロを見下ろした。フェリーチェを寝起きの目で見上げ、気がつく。彼女の瞳に宿るものを。見下ろす目から怒りと妬み、のようなものを感じとってしまい、ナヒロはベッドの中で自身の両手を擦り合わせた。
ナヒロの爵位を知っているのか、それともただの一平民と思っているのか判らないが、地位の持たないもしくは、爵位の底辺にいる人が、王宮の豪奢なベッドを使っていることが気に入らないのだろう。王宮の客人としてここにいるナヒロへ表立ってなにも言えないかわりに怒りを内側に秘め、それが瞳に表れてしまっている。
怒りを無言で、上から見下ろされ、ぶつけられるのはこれほどまでに恐ろしいのか。
「あの……」
名を呼んだ以上、なにもありませんでしたではすまない雰囲気に、用件を言わなければと、ナヒロが声を出した、小さな掠れた声をかき消す程、ドアを叩く音が大きい。
この部屋は寝室と、部屋がドアで隔たれている。叩かれているドアは通路側の扉の方で、フェリーチェが一礼をして寝室を出て行く。
姿が見えなくなると、ナヒロはようやっと肺に閉じ込めていた空気を一気に吐き出した。
ナヒロの想像以上の迫力に、アカリ専属となった女官が爵位持ちの人でなくてよかったと心からそう思った。
女官が皆、フェリーチェのような人ではないかもしれないが、違うとも言えない。
そこでふと、ナヒロの中に疑問が生まれる。
ナヒロがベッドから動けないこの状況で、アカリは誰に世話を焼かれているのだろう。フェリーチェのように、客人ではなく、地位で人を見るような人がアカリについていなければいい。アカリの心が傷つけられなければいい。
村にいたブリエッサのように、意中の人が振り向かないからという理由だけで、アカリを傷つけるような人でなければ。
アカリは怪我なく無事なのだろうか。ナヒロと同様に救われただろうが、ナヒロの記憶にある最後は、アカリが牢から連れ出されたところまで。そのあとは意識をなくしてしまい、どうやって救い出されたのかを知らない。自分のような酷い怪我でなければいいのだけれど。
「殿下がお見えになられたようです」
気がつくと寝室のドアが少し開いていて、ドアの向こうからフェリーチェから尋ねられた。
殿下と聞いて、どちらのと聞かずとも分かる。許可するとドアが勢いよく開けられた。ラズファロウは部屋で控えるフェリーチェを振り向きもせず、一直線にナヒロが横たわるベッドへ向かってくる。
ラズファロウの訪室を寝たまま迎えるわけにいかない。あまり力の入らない身体を起こそうとするナヒロの姿を捉えたラズファロウが足早にベッドへ駆け寄った。そのままの勢いで、抱き寄せられて――。
「な、なにす……」
弱い力で抵抗すれば、抵抗する力ごとやや乱暴に、上掛けごとの荒々しい抱擁はナヒロを酷く狼狽させるに十分だった。
「……ロ、無事で」
吐息のように溢れでる声に、ナヒロの方が言葉をなくす。
心配をかけてしまったのだろうか。
いや、この人に限って、心配なんてあるわけない。
否定をしながらも、抱かれる力が強くなって、背中がベッドから浮く。
心配してるひとなんていないと思いたくても、この強い抱擁が、そうじゃないと。
ここに、ナヒロを心配するひとがいると、言われているようだった。
ナヒロが危険なときが何度か過去にあったことを知っていて、幾度も困難を潜り抜けてきていることを、側で見ていて、知っているこの人が。
ルディラスがアカリを心配するのは分かる。けれど、ナヒロをラズファロウが心配するだなんて、あり得ない。
「痛みは、ありますか?」
抱かれたまま、耳元で問われる。
「あなたの腕で全身痛くて動かせませんわ、殿下」
冗談まじりに訴えると、力が緩んだ。けれど、離してくれそうにない。
しかしこの体制、以外に腰にくる。
「離してください」
「我慢してください」
動かせない腕の代わりに声をあげると、即答で断られてしまった。
「貴女は、僕に……何度心配をさせれば気が済むのですか」
囁く声は少し涙ぐんでいて、なぜか、ものすごくひどいことをしてしまったような気にさせられてしまう。
「そう何度もかけた覚えはありません」
今回のことはかなり反省している。アカリを巻き込み、さらには、自分でどうすることもできなくなり、申し訳なさでいっぱいだ。
けれど、今回以外に、ラズファロウに心配をかけるようなことをした覚えがない。
「そうですか。無自覚でしたか」
ラズファロウは
「ちょ、ちょっと!」
わずかな隙間に腕を入れ、力を入れるとあっけなく身体は離れ、目の前に流れる涙を止めないで見下す、男の人がいた。
ぽたりとおちる涙がナヒロの頬を濡らす。
男の人の涙をナヒロははじめてみた。
ただ、静かに溢れる涙は二滴、三滴と、ベッドに横たわるナヒロの顔を濡らす。
ホロリと目尻から流れる一筋の涙に、魅せられ、胸がぎゅっと締め付けられる。流れる涙に手を伸ばした。涙は巻かれた包帯に染み込んでいった。
あまり寝ていないのか、綺麗な顔の目元にうっすらとクマがみえた。そのクマを指でなぞる。
自分の勝手な行動で、この人を心配させてしまったのかと思うと、罪悪感に胸が痛む。
「ごめんなさい」
拭った手がラズファロウに掴まれ、頬をすりよせられる。驚き手を引っ込めようとすると、それすら許さないとばかりに、手のひらにキスされた。
真剣な潤んだ瞳がナヒロを見上げてくる。止まったとはいえ、涙の後が残る瞳は、ナヒロを動揺させるのに十分な破壊力で、激しく高鳴る胸に、堪らずそっぽを向く。
「もう、しないわ」
「ええ、そうしてください。僕のためにも」
安堵と切なさのこもったラズファロウの小さな声が、胸をツキリと痛めた。
「本当に、ごめんなさい」
素直な言葉がするりと出た。
「素直ですね。怖いぐらいに」
すると、驚きの声がして、かっとなった。素直な時もある。ただ、なかなかそうなれないだけで。
「なっ、貴方が!」
恥ずかしさを隠すように、声をあげる。すると、かたりと、音が隣室から聞こえた。
誰かが部屋にいる。
ラズファロウは一度ナヒロを抱く力を緩める。ゆっくりとベッドへ寝かせると、隣室へ向かった。
「問題ないので、外で待っていてもらえますか?」
フェリーチェを退室させると、椅子に座った。
「あの女官は変えてもらわないとなりませんね」
「どうして」
「貴女を見下しているからですよ。貴女が目を覚ましたら報告を、と伝えおいたにもかかわらず、報告してきませんでしたから」
確かにナヒロを見る目はよくなかった。酷く、疲れる程に。ラズファロウが外すと言えば、そうなるのだろう。いずれナヒロを世話する女官が変わるならと受け入れる。
椅子に座したラズファロウの格好は薄青の羽織りに、白のスカーフ。ズボンと長靴は漆黒の色をしていた。腰に剣を帯びている。接客中に抜けてきたのだろうか。もしそうだとしたら、早々に戻ってもらわなければ来訪者に失礼だ。
「お仕事の途中のように見受けられますが?」
「ええ、その通りです」
瞬時にさっと血の気が失せた。一体誰を執務室に放って、こちらへ飛んできたのか。
「も、戻って下さい! 今すぐに!」
執務こそ王子の仕事。一平民のナヒロが目を覚ましたからといって、執務を疎かにしてはならない。来客中であれば余計に。
「いえ、戻りません」
慌てるナヒロのが面白いのか、微苦笑をして、きっぱりと断った。
「ナヒロの方が大切ですから」
ナヒロの包帯が巻かれた右手を手にとり、撫でた。
「迷惑です」
与えられるラズファロウからの愛情が、とても、とても苦しい。
理由はもうわかっている。気がつかされてしまった。
ナヒロはラズファロウに惹かれていて、ナヒロの立場ではとても、ラズファロウの隣に立てない。
だから、苦しい。
ジェバリア家はたしかに、地位ある家だけれど、王家にしてみれば、少し裕福な平民のようなものだ。
喉が乾燥してけほん、と咳が出た。
「喉、乾きませんか?」
「そうね、乾いてますけど、他の人に頼みます」
「遠慮なさらずとも、僕が差し上げますよ」
結構です、と断りたいところだったが、喉の渇きの方が限界だった。
「おねがい、します」
屈辱だと歯を食いしばりながらねだる。
サイドテーブルに用意された水差しからコップへ注がれていく透明な液体を眺めながら、それを入れてくれる人を盗み見る。
並々と注がれたコップが差し出され、手を伸ばす。ナヒロは身体が起こさず、寝たままだ。このままで水を飲むことができない。
なんとか重怠いが起き上がろうと苦戦をしていると、部屋の灯りが遮断され、顔をあげる。
目の前にラズファロウの顔があった。
首裏に腕が回り、少し持ち上げられる。コップから水が飲みやすいように手助けをしてくれるのだ。上半身が起き上がり、楽な体制になる。
水を求めて、ラズファロウが手にしているコップに手を伸ばした途端、それをラズファロウは飲んだ。
「な、に……!」
なんの意地悪なのだろうか。もらえると思った水が、目の前で減っていく。喉はからからで、くれると思っていた水は目の前でみるみる減っていき――。
抗議しようとしたナヒロの口を、ラズファロウは塞いだ。
「んー!」
無理やりこじ開けられた唇から生温かい水が流れ込んでくる。ゆっくりと流される水を少しずつ飲み下す。それがコップ一杯分続く。飲み終わった頃には、ナヒロの頬は真っ赤に染まっていた。
「なにするの!」
「お水が溢れない一番最良のやり方ですよ?」
にんまりと、いたずらが成功した少年のように笑う王子に、ナヒロの顔がさらにかっと熱くなる。
首裏に回された腕は、ナヒロをラズファロウに引き寄せた。
「ナヒロ……貴女にひとつ、提案があります」
「な、なんでしょう」
「僕と結婚して下さい」
絶句した。ナヒロにが望んではならないことを、ラズファロウは提案として、持ちかけてきた。
結婚を簡単なことのように、提案することではない。
「お断りします。陛下が、認めませんから」
将来ルディラスを支える一人となるの相手は慎重に選んでいる。現に妃は公爵出身で、前の陛下の妃も、侯爵出身。その前は確か戦争を終結させるために迎え入れた他国の姫君だった。
ナヒロの地位のような人が王族になる前例がない。当然ながら、アカリがルディラスと結婚できる前例もないのだが、ナヒロはアカリの相手はルディラス以外にいないと思っている。
アカリのためにも、自分はラズファロウと結婚してはならない。ナヒロがラズファロウを望めば、アカリがルディラスと将来一緒になる足枷となりかねない。
「その心配はいりませんよ。僕が陛下に10年も前からすでに伝えてありますから」
あっさりとナヒロの心配は必要ないと返された。
「ど、どういうこと」
「僕は貴女以外いりませんと」
「だから、どういう」
「わかりませんか? ナヒロと初めて会った日に」
恥じらうようにぽっと一瞬頬が染まった。
ナヒロの心配は自分よりもアカリ。そのアカリの怪我の具合が気になった。
「アカリ! アカリの怪我は」
話を変えなければ、ナヒロはラズファロウを望んでしまう。
ラズファロウはそれすらお見通しだったようで、ため息をついた。この状況で話の腰をおるのか、と。
「無事ですよ。怪我もさほど酷くありません。今はベッド上安静ですが、もうじき安静も解除され、歩けますよ」
ナヒロにとってどれだけアカリが大切かを知っているラズファロウは、包み隠さず教えてくれた。
「怪我したの!?」
「貴女のせいではありません。が、ルディを怒らせてしまったので、どうでしょうね?」
どきりとした。
アカリに怪我をさせたのは、後を追いかけてこさせてしまったナヒロだ。ということは、ルディラスが怒りを向ける相手はナヒロになる。
ルディラスにアカリと今後一切会うなと言われれば、従うしかなくなる。
「どう、とは」
掌が凍りつくような感覚に襲われながら、問うと笑いが返ってきた。
「ルディを怒らせたのは山賊の一派です。彼らはあらかた捕えました。ルディの頭は捕らえられませんでしたが、貴女の叔父とともにいるのでしょう」
意地が悪いにも程がある。
「ナヒロ、キミの希望を僕は全て叶える自信があります。……ナヒロ、待てません。結婚の承諾をしてください」
こちらが動けないことをいいことに、なされるがままなことが悔しい。彼から逃げられようもないことはわかっていた。頭の後ろと、腰に手が回っていて、逃げられない。
「お断り……」
「拒否は受け入れません」
きっぱりと断られ、口をつぐむ。
承諾以外受け入れない、と。
「……お受けいたします、殿下」
ナヒロの唇は塞がれた。深くなる口づけに、少し腕をあげて、ラズファロウの裾を掴んだ。




