苦い珈琲
第一章 朝が来ない街
「まあ、そうだね。実際は、節制したからだよ。あのお馬鹿みたいに際限なく飲んでたワケじゃない。自分のペースを弁えるのも肝心なのだよ。肝臓なだけに」
「座布団一枚ですね。恋司さんにもその分別を少し分けて上げて下さい」
「無理だね。あれは、宵越しの金は持たない本能に従って生きる側の人間なの。失敗しようが関係ない。享楽に全力で溺れたい。酔狂な人間だよ」
若葉さんは、眉間に皺を寄せ、恋司さんの人となりを言い当てる。
残念ながらその正確な分析は、ほぼ正解と言っても過言では無い。
「はははっ—— 噂をすれば」
若葉さんと和やかな談笑をしていると又もや、食堂の扉が開かれる。
「朝から騒がしい……頭に響くから騒ぐな。二人共」
顔面蒼白でふらつく足取りを壁に手を突いて支えながら此方へ歩み寄って来る恋司さん。思った通り、昨日の酒は、まだ尾を引いている様だ。若葉さんの隣に座り、背凭れに全力で寄り掛かりながら両手で顔を覆う恋司さんに僕は、苦笑いを浮かべた。
「馬鹿馬鹿しい。杯に限界まで酒を注ぐしか能が無いからよ。恥を知りなさい」
「もっきりは、零れてからが本番だ……グラスの日本酒を味わい尽くし、升の香りが移った酒を嗜んでこそなんぼ。一度で二度旨いんだ。それが分からんとは、無粋だな」
若葉さんの説教に恋司さんは、掴み所の無い言い訳で対抗する。
目の前に酒がある訳でも無いのに酒の匂いを錯覚して僕は、目を回す。
「聞いているだけで頭痛が——」
「大丈夫。ネモ君には縁遠い話だから。気にしないで朝食をたんと召し上がれ」
「果たして朝食かどうかも怪しいもんだがな……」
「困りますよね。時間の感覚がさっぱり掴めません」
「恐らく、本来なら昼時何だろうけど。こうも暗いとね」
矢張り。感覚が狂っているのは、二人も同じ。
少しでも気を紛らわせる為に僕が食堂のシステムを二人に説明すると恋司さんと若葉さんは、思い思いの食事を持って来た。
「二人共、よくそんなに食えるな……俺には、無理だ」
若葉さんのご飯大盛秋刀魚定食と僕のド定番朝食を見た恋司さんは、鼻の頭に皺を寄せる。気持ちは、分からなくもない。けれどもそれを言うのなら自分の目の前にあるモノにも違和感を覚えて欲しい。明らかに朝食にはそぐわないものが供えられている。
「寧ろ……それが朝食の代わりですか?」
「エナジーなドリンクと珈琲があれば。大抵、片が付く。酒で乱れた脳をカフェインで刺激してアルコールの分解で失われた糖分と水分も早急に補給も出来る。一石二鳥だろ?」
「いや、身体を酷使するにも程がある。間違いなく早死に確定だ」
大きなグラスに並々と注がれたアイスコーヒーと物々しいデザインの缶。恋司さんが缶のプルタブを引き上げると小気味の良い炭酸の抜ける音がした。喉を鳴らしながら一気に飲み干す恋司さんを見て僕と若葉さんは、顔を見合わせる。
「大丈夫だ—— 問題ない。例え、違いが分からなくなっても。翼を授けられなくても。最後には、ふあぃといっぱつで如何にかなる……」
「支離滅裂過ぎて何が何やら……」
「つまり鷲のマークな栄養ドリンクにまで頼ったら愈々だって事」
「はああ——」
「左様ですか……」
珈琲を片手に少し顔色が戻った恋司さんの豪儀な生き様に僕は、一歩引いてしまう。
「でだ、ネモ。早速、残りの話を聞かせてくれ」
「そんな状態で?」
「舐めるなよ? これが俺のやり方だ」
恋司さんはそう言うと鼻を鳴らし、僕をせっつく。しかしながら何に焦点を当てて話せば良いか分からない。昨日、全容は話したので此処からは、課題に纏わる話題が妥当なのだけど。恋司さんと若葉さんが何を求めているかが、分からないからだ。
「とは言ったものの……何処からお話をすれば」
「そうしたら先ずは、今回の課題の内容について。教えて貰えるかな?」
両手で湯呑を持ち、ゆっくりと緑茶と戯れる若葉さんが助け舟を出してくれた。
「これですか。要点を掻い摘んでなら説明が出来ます」
「それで良い。今、全容を把握するのは—— 効率的じゃない。流石に全部、朗読してたら日が暮れる。まあ、暮れる日なんて無いが」
恋司さんの言う通り。この二百ページにも及ぶ戯曲を一から説明するのは、得策では無い。僕の知る物語の概要を説明して少しでも理解を深めて貰う方が賢明だ。
「これには、二人の若い男女が悲劇に向かうまでの顛末が綴られています」
「ふむ……」
「つづき、つづき」
僕は、古都ヴェローナに思いを馳せながら言葉を紡ぐ。
「とある西洋の街が舞台。其処には、長年互いを憎み合う二つの名家がありました。その名家の跡取り。ロミオと言う少年とジュリエットと言う少女が禁じられた恋に陥った事で全てが動き出してしまいます——」
古くから続くモンタギュー家とキャピュレット家の因縁から始まり。二人の出会うきっかけとなった夜会。そしてバルコニーでの密会。修道士ロレンス立ち合いの婚姻。それからロミオとモンタギュー伯爵夫人の甥ティボルトとの死闘。ティボルトを殺したロミオの追放が決まり、ジュリエットもパリス伯爵との婚姻を父から命じられる。それを打開すべくジュリエットとロレンスが一計を案じるもすれ違いでロミオとパリス伯爵が始まり、パリス伯爵が命を落とす。生き残ったロミオは、ジュリエットの死に絶望し、服毒自殺を図り、目覚めたジュリエットもロミオの死を目の当たりにして己の胸を短剣で突き、死を選ぶ。多大な犠牲を払った末に目を覚ました二つの名家は、この悲劇が起こらぬよう互いに手を取り合い、物語は終わりを迎える。
「聞く限り、二人が全部悪いとは思えないけど……」
「まあ、夜会に乱入して敵対する名家の大事な一人娘をかどわかせば、そうもなる」
「結果的にそうなってしまったので致し方ありません。主義主張の違う人間の意思が交錯した結果、四人の命が奪われた。そして、その悲劇を二度と産まぬよう。二つの名家は手を取り合う。そして街は、平穏を得た」
最初から皆、物わかりが良ければ、それこそ平穏無事に終わった事。愚民が愚民である以上、致し方が無い。和解と革新を求めるならのならば、今直ぐ全ての人間に叡知を授けて見せろと偉い人に言われてしまうだろう。
「随分と激動な五日間だなあ——」
「しかも十六歳と十四歳だよ? 最初の段階で若気の至りで片付けて貰えてれば、済んだ話なのに。時代背景がエグいね——」
「死人が出た以上、仕方が無い」
「まあ、刃傷沙汰になってしまっては……誰もが感情を揺さぶられますから」
一度、人の命が奪われてしまえば。奪われた身内が必ず仇討ちを求める。それは、どれだけ時が経ても変わらない。感情が高ぶった者達に冷静さを取り戻させるには、言葉だけでは物足りない。それこそ、取り返しのつかない大きな悲劇をぶつけなければ。
それらの不条理を飲み込んで二人には、この『ロミオとジュリエット』と言う人の業を演じて貰わねばならない。僕は、大きく息を吸い込んで覚悟を決める。
「でも大体の事は、分かった。要は、この中で誰かがそのロミオとジュリエットをやれば良いんだろ? 簡単な話じゃねーか」
「この場合、誰がやれば良いのかな?」
聞かれると分かっていても臆してしまう。どんな反応をされるか。
それが怖くて仕方が無い。
「実は、お二人にお願いしたいです……基本的に僕は、進行と裏方の役割を担うので」
「それなら仕方が無い。恋司、私の足を引っ張らないでね?」
「ああん? 誰が足を引っ張るって? 若葉こそ、出来んのか?」
思わぬ肩透かしで僕は、拍子抜けした。




