伊太利
第一章 朝が来ない街
*
何事も驕りと焦りは、禁物。
僕は、今回の一件でそれを思い知らされた。
真っ白だったキャンパスにぽつんと描かれたものが愛おし過ぎて。
刻まれた記憶と思い出の心地良さが名残惜しくて。
耐え難い喪失感が胸を焦がし、鮮烈な成功体験が己の過信を呼ぶ。
自分でも知らない内に足元が疎かになってしまったんだ。
だけど。
物語と同じ結末にはならない。
幸いにもそんな詰まらない慢心と焦燥に。
ギリギリの所で気が付かせて貰えたからだ。
僕は、意外と恵まれているのかもしれない。
*
暗闇に飲まれて気が付いたら。ヨーロッパ風の古風な酒場で色白坊主の浮ついた色男と日焼けしたポニーテール美人に挟まれていたと言ったら。
誰が真面に取り合ってくれるだろうか。
先に言っておくと、僕が聞く側だったら確実に鼻で笑うだろう。
でもこれが現実なんだ。
「もう……何でもありだなあ」
弱弱しい蝋燭の灯りに照らされている年季の入った店内で。
僕は、木製の椅子の上で一冊の本を抱きしめながら大きな溜息を一つ吐いた。
「止めろよ。その世捨て人みたいな湿気たツラは。酒がマズくなるだろ」
「何があったのかは、知らないけど。そんなに気負っても仕方が無い」
「はあああ——」
猫背になって負のオーラを漂わせる僕。相も変わらず、先行きが不透明な状況。
また、見ず知らずの相手と右も左も分からない世界に閉じ込められた。
気落ちするなと言われても無理がある。
当然、僕の背景を知らない隣の二人には関係が無い話なのだが。
「駄目だな。こりゃあ、重症だ」
「まあ……分からなくもないかな」
木製の大きなジョッキを片手に肩を竦める男性とグラスに程良く注がれたワインをお洒落に軽く回しながらぼんやりと外の景色を眺める女性。僕が目を覚ます前から二人は、飲酒に興じていたらしい。酒の扱いが様になっている二人。
そんな二人を僕は、横目に見ながら呟く。
「普通なら……困惑するものでは?」
「まあ、記憶も全部とんで見知らぬ土地に連れて来られればな」
「そうだね。現在進行形で非常に困っているとこだよ?」
声色、表情、仕草。どれをとっても困っている人間には見えない。
八つ当たりだと分かっていても僕の口が勝手に言葉を紡ぐ。
「それにしては、かなり馴染んでいますよね? この状況に」
「だって——」
「酒場でやる事なんざ、一つしか無いだろ。しかもタダで飲めるんだぜ?」
「誘惑には、負けちゃうよ」
「左様ですか……」
ワインのボトルと空になったジョッキが三つ、それと酒のツマミが幾つか乗った食卓。
にやりと笑う二人は、明らかにこの状況を楽しんでいる。
「でだ、少年。名前は?」
酒を煽り、空になったジョッキを机に置きながら男は、僕に聞いて来た。
「いきなりの自己紹介?」
「まあ、お互い初対面だからなあ……話をしようにも名前を教えて貰わな」
「そうだね。大丈夫。私も君の後で名乗るよ」
戸惑う僕の前で二人は、揃ってサムズアップ。
僕は仕方なく、名乗る事にした。
「実は、記憶だけではなく……僕は、名前も覚えて無くて。今は、仮の名でネモと名乗っています。よろしくお願いします——」
「俺以上に難儀な事になってんなあ。言うても五十歩百歩。さっきも言ったが、一時的な記憶喪失ってヤツだ。過去の自分が何だったのかすら分からん。今、確実に覚えていると言えるのは、名前と歳だけ。久礼 恋司だ。年は、二十歳だ。よろしくな、ネモ」
黒いワイシャツとスラックスを身に纏った坊主頭の青年。久礼恋司は、名乗りながら僕に握手を求めて来る。求めに従い、僕も手を差し出すと力強く掴まれて振り回された。
「私も境遇は、彼とほぼ一緒。年も同じ。名前は、天王寺 若葉。よろしくね。ネモ君」
体を上下に揺らす僕の横でランニングウェアを着たポニーテールの女性、天王寺若葉からも僕は、自己紹介を受ける。
「それにしてもよ。随分と古風な店だよな……まるで本場のパブに迷い込んだみたいだ」
「どっちかって言うと中世ヨーロッパ当時の世界に迷い込んだってのが—— 正解かな? 明らかに現代の様相を呈していない。幾ら何でも古過ぎるよ」
「それな」
一頻り、僕を弄って満足した久礼さんは、辺りを見渡しながら店の内装に言及した。恋司さんの言及に若葉さんも冷静な分析を重ねる。二人の言う通り。この酒場は、歴史を感じさせる。調度品や雑貨、家具。どれをとっても無骨な手製のものばかり。温かみがあると言えば、聞こえは良い。でも流石に利便性を求めた工業品があっても良い筈だ。だが、そんなものは何処にも見当たらない。照明すらも頼りない蝋燭の灯りだけ。
無論、僕はその理由を知っている。
僕の太腿の上に鎮座した本が全ての辻褄合わせをしてくれたのだ。
「で、ネモ君? 君は、何かこの現象について何か知っているみたいだね?」
「多少の事は……としか。僕も詳細を語れるだけの情報は持ってません」
「なるほどな—— だから頭を抱えてたのか」
「僕の持っているこの本が。恐らく全ての鍵を握っているかと」
僕は、食卓の下から本を取り出し、机に置く。
『ロミオとジュリエット』。
心もとない蝋燭に照らされた文字だけの表紙。
そう。
僕の推測に間違いが無ければ。
この地は、かの戯曲の舞台であるイタリアの古都ヴェローナ。
しかも十四世紀当時の景色から生活様式に至るまで全てが再現されている。
「詳しく教えて貰っても良いかな?」
「実は、此処へ来る前に……同じ事をやって来ています」
「同じ事?」
「随分とワケが分からない事を言うね?」
困惑されるのも致し方が無い。久礼さんと若葉さんの追求に僕は、頭を悩ませる。
どう頑張っても二人が納得出来る説明が僕は、出来ないからだ。
茉白と玄香と同じく。二人にも実際に目と耳で情報を得て貰わないと。
「場所も出会った人も違います。だけど。状況は、全く同じなんです」
「頭の中が整理出来ていない事だけは、分かった」
「あまり急かすなよ。コイツは、コイツで精一杯なんだ」
「仕方が無いよ? だって彼以外役立たずなのが。現状、確定しているんだもの」
質問攻めにあっても仕方が無い。それが僕の役割なのだから。
先ずは、僕が体験した前回の出来事を有りの侭、説明するしかない。
「……起きた事を全部、お話します。もしかすると途中で分からない事があるかもしれません。それでも良いなら」
「構わない。寧ろ、そっちの方が手っ取り早いね」
「だな。全容を聞いてから質問する」
「はい。それで構いません」
僕を見つめる緑の瞳たち。大きく深呼吸をしてから僕は、話を始める。
「始まりは、大きな大木だけの広い草原でした。起きたら僕は、二人の女の子とその木の下で眠っていたんです——」
それぞれが記憶喪失に陥っており、その草原に何故、居るのかも分からず。二人と話をして行く内に僕達三人には課題が課されていたが判明し。自分達は、その課題を五日かけて紐解き、クリアした。その後、直ぐに二人とは離れ離れになって。
気が付けば、この酒場に居た所まで二人へ僕は話をした。
「なるほどね——」
「言わば、お前にとって場所と人間が変わっただけで同じ事をやらされていると」
「ええ。そして、今回の課題は—— この本に深く関わっています」
『ロミオとジュリエット』
机の上に置いた本を僕は、久礼さんに手渡す。
「そう気軽に渡されてもな……こりゃあ、何だ?」
「私も見た事が無い」
「やっぱり……」
やはり、二人も物語と言う存在そのものを記憶から抹消されている。
存在を知らない二人と。どう課題に向き合って行けば、良いか。




