第十二章 決断の朝――すべてが見える高さに立つ
スタント当日の朝、マルセイユの海は凪いでいた。
エレナは午前四時に目を覚ました。目覚ましが鳴る前に。身体が知っていた。今日が何の日であるかを。
母の家の客間のベッドの上で、天井を見つめた。心拍五十四。通常より二拍高い。呼吸は一分間に十回。通常より二回少ない。深い呼吸。身体が酸素を備蓄している。これから必要になる酸素を。
起き上がり、窓を開けた。
夜明け前のマルセイユが、闇の中に静かに横たわっていた。港の灯りが水面に反射し、遠くで漁船のエンジン音が低く響いている。空の東端が、まだ色を持たない薄明の予兆を帯び始めていた。
今日、エレナは空を歩き、空から落ちる。
シャワーを浴びた。湯が皮膚を流れるとき、身体の各部を点検した。毎朝の習慣であり、今日はその精度を最大に上げた。
右肩。可動域正常。関節包に違和感なし。左膝。金属プレートの存在感が、冷水に切り替えたとき微かに増す。右手。指を開き、閉じる。開き、閉じる。振戦なし。ただし「なし」は今の報告であり、これからの保証ではない。
着替え。スタント用のベースレイヤー。薄い吸湿速乾素材が皮膚に密着する。この上に、高視認性のスーツを現場で着る。
左手首に、革のブレスレットを巻いた。〇・八グラム。二十七年間、返す機会が来なかったもの。今日もこれを身につけたまま空を歩く。
母の部屋のドアの前で、立ち止まった。ドアは薄く開いていた。隙間から、母の寝息が聞こえた。浅い呼吸。不規則なリズム。
昨夜、母に「明日、スタントがあるの」と言った。母は「気をつけてね」と言った。そして五分後に「明日、何があるの?」と聞いた。エレナはもう一度「スタントがあるの」と答えた。母は「そう。気をつけてね」と言った。同じ言葉。同じ愛情。記憶が消えても、愛情の構造は残る。
エレナはドアの隙間から手を入れ、母の布団の端に触れた。布団の温度。母の体温が伝わっている。三十五・五度前後。低い。高齢者の基礎代謝の低下。
声には出さなかった。しかし唇が動いた。
Merci, Maman.
家を出た。
車でビルの現場に向かう途中、港湾地区を通過した。リュカの動物病院の前を通った。窓は暗い。まだ午前四時半。
しかしエレナの目は、動物病院の入口のローズマリーの鉢植えを捉えた。新しい枝が伸びていた。リュカが手入れをしている。毎日、水をやり、枯れた葉を取り除いている。継続する行為。地味で地道な、しかし確実に命を維持する種類の行為。
エレナは車を止めなかった。通過した。今は通過するしかなかった。
リュカには昨日、メッセージを送った。「明日、やる」。返信は一語だった。「見てる」。
見てる。それは「応援してる」でも「心配してる」でも「やめてほしい」でもなかった。ただ「見てる」。リュカの存在の仕方そのもの──追いかけず、引き留めず、しかし目を逸らさない。
現場に着いた。
二十二階建ての商業ビルの屋上。エレベーターで最上階まで上がり、非常階段で屋上に出た。スタッフが既に準備を進めていた。ワイヤーは昨日の最終テストで張力と角度を確認済み。直径十二ミリの航空機用鋼線が、百八十メートル先のオフィスビルの屋上まで伸びている。海面からの高度約七十メートル。
ワイヤーの終端を見た。向こう側のビルが、朝もやの中にシルエットとして浮かんでいる。百八十メートル。自由落下で約六秒の水平距離。歩行速度では約三分。三分間のワイヤー歩行。
そしてワイヤーの中間地点──九十メートル地点──から、安全索を外し、ワイヤーを離れ、フリーフォール。海面まで七十メートル。自由落下で三・七八秒。海上のネットに着地。
エレナはビルの縁に立ち、眼下を見下ろした。
マルセイユが足許に広がっていた。
港湾地区の古い建物群。十二歳の夜に渡り歩いた屋根が、その中にある。あの瓦の上を素足で歩いた記憶。足裏が覚えている温度と傾斜。屋根の稜線に立ったとき、世界が縮んで「今、ここ」だけになった感覚。あの感覚を求めて、エレナは空に上がり続けた。
港。
父マルコが落ちたクレーンがあった場所。
今はクレーンはなく、再開発で新しい建物が建っている。しかし座標は変わらない。北緯四十三度一七分五十六秒、東経五度二十二分三十八秒。父が地面に衝突した座標。
体操教室のある建物。母ナディアが三十年間、子供たちにバク転を教えた場所。「恐怖はデータ」の発祥地。
そしてVie Douce。リュカの動物病院。屋上からは見えないが、方角はわかる。南西。エレナの身体内蔵コンパスが、リュカの座標を保持している。
すべてが見える。
すべてが、この一つのスタントの中に収束している。
「エレナ」
スタントコーディネーターのマークが近づいてきた。
「天候は良好。風速は地上で三メートル、ビル間の渓谷効果で推定十メートル前後。海上のネット配置完了。安全チーム待機。中継カメラセット完了。予定通り、午前六時三十分に開始できる」
「ありがとう、マーク」
「エレナ……大丈夫か?」
「大丈夫」
「念のため聞くけど、中止する判断をするなら、今が最後のタイミングだ」
エレナはマークの目を見た。まばたきが少ない目。マークはその視線に慣れている。十五年の付き合いだ。
「やる」
「理由を聞いていい?」
「いつも聞かないでしょう」
「いつもは聞かない。でも今回は、マルセイユだ。君の町だ。それが気になる」
エレナはビルの縁に立ったまま、朝日が海面を照らし始めるのを見ていた。光が水平線から射し込み、マルセイユの白い建物群が一つずつ目覚めていく。
「この町で始まったことを、この町で……」
文が完成しなかった。「終わらせる」ではない。「完成させる」でもない。何かを始めるわけでも終えるわけでもなく──ただ、通過する。空を通過し、重力を通過し、三十五年分の恐怖と制御を通過する。
「わかった」
マークが言った。
「いつも通りだ。君が行くと言えば、僕は最善を準備する」
マークが去った後、エレナは一人で屋上に立っていた。
右手をポケットから出し、朝の空気に晒した。指を開いた。振戦は──
なかった。しかし「ない」ことが、「起きない」ことの保証にならないことを、身体は知っていた。
あと四十五分。
エレナはストレッチを始めた。身体の各関節を順番に動かし、可動域を確認する。肩関節。肘関節。手関節。股関節。膝関節。足関節。一つずつ、身体と対話する。
今日、お前は私の言うことを聞いてくれるか。
静かに問いかける。
足裏を地面に押しつけた。コンクリートの屋上の表面温度。気温十六度。足裏の受容器が地面の情報を読む。これが最後の「地面」だ。次に地面に触れるのは、ワイヤーを渡り、空を落ちた後。
空を見上げた。朝日がマルセイユの空を金色に染めていた。今日の空は、彼女がこれから歩く空間だった。そしてその空間の中に、三・七八秒の落下が待っている。
地上のどこかで、父が車椅子の上からテレビをつけているだろう。母がジャンヌと一緒に中継を見ているだろう。サラがギプスの腕を抱えて画面を見つめているだろう。
そしてリュカが──どこかで──見ている。
「見てる」。
エレナは深呼吸をした。横隔膜が収縮し、肺が拡張し、空気がマルセイユの朝の匂いとともに肺胞に到達した。海塩。ローズマリー。石の埃。この町の匂い。
六時十五分。スーツに着替えた。高視認性の赤いスーツ。安全索。カラビナ。バランスポール。すべてを身につけ、ワイヤーの始点に立った。
ワイヤーの直径十二ミリ。その上に、足裏の一点──母趾球と第二趾の付け根の間──を載せる。全存在をこの一点に凝縮させる。
百八十メートル先のビルが、朝もやの中に待っていた。
その半分の距離──九十メートル地点──が、この世で最も高い場所になる。綱渡りの頂点。そこからの落下。
エレナは目を閉じた。
恐怖があった。
データではなく。
感情として。
目を開けた。
六時二十八分。
あと二分。




