第十一章 雨と涙――告白と崩壊
雨の日だった。
マルセイユの雨は稀だが、降るときは激しい。地中海性気候の雨は前触れなく始まり、短時間に大量の水を落とす。この日の降水量は一時間に二十五ミリ。石畳の路地が川になり、排水溝が処理しきれない水が建物の基部に溜まる。
エレナはリュカの動物病院にいた。
雨を避けて、ではなく──雨が降る前から、そこにいた。
午前中のトレーニングを終え、母がジャンヌと買い物に出かけた隙に、足がVie Douceに向かった。もはや口実を探す必要はなかった。足が知っている道。身体が選んだ目的地。
リュカは休憩中だった。午前の診察と午後の診察のあいだの二時間。待合室のソファに座り、獣医学の専門誌を読んでいた。エレナが入ってきたとき、顔を上げて微笑んだ。いつものデュシェンヌ・スマイル。眼輪筋が完全に収縮する、嘘のない笑顔。
「コーヒー?」
「お願い」
リュカがコーヒーを淹れるあいだ、エレナは壁の写真を見ていた。防波堤の二人。この写真を見るのは何度目だろう。見るたびに、写真の中の二人の距離感が変わって見える。最初に見たときは遠く感じた。今は──近くも遠くもない。正確な距離として見えた。
コーヒーが来た。二人で待合室のソファに座った。距離は二十センチ。防波堤の夜の五十センチから、接近と後退の日の三十センチを経て、二十センチに縮まっていた。
雨が窓を叩いていた。マルセイユの雨は音が大きい。右耳には個々の雨粒がガラスに衝突する高周波の破裂音が聞こえ、左耳にはそれが融合した連続的な低音として届く。二つの耳が異なるバージョンの雨を聞いている。
「話があるの」
エレナが言った。準備していなかった。朝起きたとき、リュカに右手の震えを打ち明けるつもりはなかった。しかし今、ここで、雨の音の中で、言葉が喉の中で形成されていた。身体が先に決めたのだ。
「うん」
「右手のこと」
リュカは頷いた。待っていた、というわけではない。しかし、この話がいつか来ることを知っていた、という種類の静けさがあった。
「医者に行った話は、したわね。末梢神経の損傷」
「うん」
「もう少し詳しく言うと──」
エレナは右手をポケットから出した。掌を上にして、膝の上に置いた。手は安静状態で、振戦は起きていない。しかし、「いつでも震えうる手」として、そこにあった。
「動作時振戦。精密動作のときだけ現れる。カラビナの操作、ワイヤーの把持、細い物を掴む動作。周波数は八から十二ヘルツ。振幅はまだ小さい。コーヒーカップの水面が揺れる程度」
数値で語った。身体について語るとき精密になる、エレナの話法。
「でも、スタントの世界では、コーヒーカップの水面の揺れは──」
「致命的」
リュカが補完した。
声に判断はなかった。
ただ事実の確認だけ。
「究極のスタントのワイヤー上で、カラビナの付け替えに失敗すれば、安全索なしの状態が一・二秒ではなく二秒、三秒に延びる。高度七十メートルのワイヤーの上での三秒は──」
「エレナ」
リュカの声が、数値の連鎖を断ち切った。
「数字はいい。数字じゃなくて」
エレナは止まった。数値が遮断され、その向こう側に、裸の感情が待っていた。
「……怖い」
「うん」
「でも、怖いの種類が違う。高所の恐怖は知ってる。制御できる。この恐怖は制御できない。自分の身体が、自分の許可なく変化していく。衰えていく。右手が私の言うことを聞かなくなり始めている。パパと同じだ。パパの身体は、あの日から、パパの言うことを聞かなくなった」
言葉が加速していた。メタファーではなく、生の言葉が流出していた。感情について語るときにメタファーが増えるはずのエレナが、メタファーを使えないほど直接的な場所に到達していた。
「スタントができなくなった私は、私なのか。La Chuteじゃなくなったエレナは、エレナなのか。私は──」
声が止まった。喉頭の筋肉が収縮し、声帯が閉鎖した。続きの言葉が気道の中で詰まった。
リュカが動いた。
彼の右手が、エレナの膝の上にある右手に向かって移動した。ゆっくりと。動物に近づくときの速度──急な動きで警戒させないための、訓練された緩慢さ。
リュカの手がエレナの右手に触れた。
そして、両手で包んだ。
獣医の手。傷ついた生き物を治す手。毎日、壊れたものを修復するために使われている手。その手が、壊れ始めたスタントパフォーマーの手を、包んでいた。
エレナの感覚系に、複数の信号が同時に流入した。
温度。
リュカの掌の温度が、エレナの手の甲と指を覆った。三十三度前後の安定した温度。手術直後のような高温ではなく、休息時の温度。穏やかな熱。
圧力。
リュカの指が、エレナの手を包む圧力は均一だった。強すぎず弱すぎない。動物の骨折部位をギプスで固定する前に、位置を確認するときの圧力に似ている。保持するための圧力。壊さないための圧力。
質感。
リュカの掌の皮膚は、手術用手袋の長時間着用で角質が薄くなっている部分と、日常の作業で厚くなっている部分が混在していた。不均一な質感。それは、生きて使われてきた手の質感だった。
エレナの視界が滲んだ。
涙だった。
今度は、認識するまでに時間がかからなかった。涙腺の分泌が始まり、液体が角膜を覆い、光の屈折が変わり、リュカの顔の輪郭が水の中のように揺れた。
そして、泣いた。
一人ではなく。リュカの前で。
彼の手の中で、エレナの右手が震えた。振戦ではなかった。嗚咽が横隔膜の痙攣として身体を揺さぶり、その振動が右手にまで到達したのだ。身体全体が泣いていた。
リュカは何も言わなかった。エレナの手を包んだまま、動かなかった。彼の手が、微かに温かくなったことをエレナの皮膚が検知した。リュカの心拍が上昇し、末梢血管が拡張し、手の温度が〇・五度上がった。彼もまた、何かを感じていた。しかしそれを言語化せず、身体の温度変化だけが、ガラスの壁を介さない対話を行っていた。
三分。あるいは五分。時間の知覚が変容していて、正確な計測ができなかった。スタントの最中には一秒を三十秒に引き伸ばせるエレナが、この数分間の長さを測れなかった。
涙が止まった。呼吸が規則性を取り戻した。横隔膜の痙攣が鎮まり、声帯の閉鎖が解除された。
エレナはリュカの手の中から、自分の手を引き抜かなかった。しかし身体の中で、別のものが動き始めていた。
「ガラスの壁」の再構築。
崩壊した壁の破片が、散らばった場所から集まり始めていた。泣くことで開いた裂け目を、身体が自動的に修復しようとしていた。免疫系が傷口を塞ぐように。壁は感情の免疫系であり、外部からの侵入──親密さ、脆弱さの露出、依存──に対する防御として進化したものだった。
エレナは手を引いた。
今度は暴力的ではなく、ゆっくりと。しかし確実に。
「ありがとう」
「エレナ」
「スタジオに戻る。シミュレーションの続きがある」
声が変わっていた。涙の直後の声から、プロジェクトマネージャーの声に切り替わっていた。「究極のスタント」の準備。数値と計画の世界。安全な世界。ガラスの壁の向こう側の世界。
リュカの表情が変わった。微笑みが消え、目の奥に何かが沈んだ。失望ではない。しかし、期待の後退に似た何か。彼はそれを表に出さなかった。出さないことが彼の選択だった。
「わかった」
「究極のスタントの準備、順調よ。候補ビルの使用許可も下りた。ワイヤーのテストは来月。ネットの配置は再来月。本番は三ヶ月後」
数値。
日程。
計画。
壁の材料。
「三ヶ月後」
リュカが繰り返した。
「うん」
「右手は」
「大丈夫。まだ大丈夫。震えは微小で、訓練で補償できる。左手の精度を上げて、右手への依存度を下げるプロトコルを組む」
「エレナ」
「なに」
「今の話は、スタントの話? それとも」
リュカの問いが、空中に残った。「それとも」の先に何があるのかを、彼は言わなかった。しかしエレナには聞こえていた。
(それとも、僕の手を離す話?)
エレナは答えなかった。ドアに向かった。ドアノブに手をかけたとき、リュカの声が背中に届いた。
「僕は待てるよ」
エレナは振り返らなかった。
「君が壁を立てても、僕はここにいる。壁の向こう側でも、こちら側でも」
ドアを開けた。雨はまだ降っていた。マルセイユの路地が水に浸され、石畳の上を薄い水流が走っていた。
エレナは雨の中に出た。傘を持っていなかった。数歩で全身が濡れた。雨水が髪から額を伝い、目に入り、唇を伝い、顎から落ちた。涙と雨の区別がつかなくなった。
それは物理的には正確だった。涙も雨水も、組成はほぼ同じ──水、塩分、微量のタンパク質。しかし涙は内側から落ちる水であり、雨は外側から落ちる水だった。内側と外側の境界が、雨の中で溶けていた。
スタジオに向かって歩いた。雨の中を。右手はポケットに入れていた。左手は外に出して、雨粒を受けていた。掌に当たる雨粒の衝撃。一粒あたり約〇・〇五グラム。終端速度は毎秒約九メートル。運動エネルギーは微小だが、皮膚の受容器はそれを正確に検知する。
リュカの手の温度が、右手の甲からまだ消えていなかった。雨の冷たさの中で、その温度の残像だけが温かかった。
スタジオに着いた。濡れた服を脱ぎ、トレーニングウェアに着替えた。パソコンを開き、「究極のスタント」のシミュレーションデータを表示した。
風速パターン。
ワイヤーの張力曲線。
落下軌道の計算。
数値が画面を埋めていく。一つ一つの数値が、感情を覆い隠していく。壁の材料になっていく。
スタントへの没入が、感情と向き合うことからの逃避であること。
エレナはそれを知っていた。知った上で、逃避を選んでいた。リュカの手の温かさから。自分の涙から。「ガラスの壁」の崩壊がもたらす、制御不能な変化から。
画面の数字を見つめながら、右手が微かに震えた。
今度は振戦だった。精密動作ではない安静時にも、かすかに。あるいはそれは振戦ではなく、リュカの手の温度を求めて、身体が行った不随意の運動だったのかもしれない。
区別がつかなかった。
外では雨が上がり始めていた。雲の隙間から地中海の光が差し、マルセイユの石壁が濡れたまま輝いた。




