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【女性スタントマン短編小説】落下の法則 ── La Loi de la Chute  作者: 藍埜佑


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第一章 成層圏の沈黙 ── 音速の向こう側で、世界が消える

 高度三万九千メートル。真空中の自由落下に換算すれば、およそ八十九秒の距離。


 カプセルの窓は厚さ十二ミリのアクリル越しに、大気圏の終わりを映していた。地球の縁が青い弧を描いている。夜明けの光は水平にではなく、球面に沿って広がり、大気の層が一枚ずつ色を変えながら重なっていた。紺、藍、瑠璃、そしてその上にはもう色の名前がない領域──光が散乱することを諦めた、名づけ以前の黒。


 エレナ・マリア・コルヴォは、その黒を見つめていた。


 与圧服の内側では、横隔膜が規則的に収縮と弛緩を繰り返していた。一分間に十二回。意識的に設定した呼吸率で、吸気四秒、呼気六秒、その境界に〇・五秒の静止を挟む。心拍は五十八。安静時としては標準域。ただし通常の安静時は五十二で、いま彼女の身体は六拍分だけ余計に()()()()()()()()


 六拍。

 計器の針が〇・一目盛りだけ揺れるようなもの。

 他の誰にも見えない。

 彼女にだけ見える領域。


 ヘルメットのバイザー内に、降下データが緑色の数字で浮かんでいた。気温マイナス五十六・二度。気圧三・六ヘクトパスカル。地上の三百分の一の空気密度。ここでは人間の血液が沸騰する。与圧服がなければ、体内のすべての液体が真空に向かって蒸発を始める──アームストロング限界を遥かに超えた高度。身体と虚無のあいだに介在するのは、二十三層の複合繊維と、彼女自身の意志だけだった。


「La Chute、降下六十秒前。最終確認」


 管制の声が、ヘルメット内のスピーカーから届いた。その声は近いのか遠いのか判別できない等距離の響き方をしていて、エレナの聴覚はすでに通常の空間認識から離れ始めていた。


「La Chute、応答を」


「聞こえている」


 自分の声が咽喉マイクを通って変換される。フランス語訛りの英語が、電子音の平坦さの中に残る。マルセイユの港で育った少女の声の残響が、成層圏まで追いかけてくる。


 呼吸を一つ挟んだ。


「全システム正常。降下準備完了」


 与圧服の左手首の下に、革のブレスレットがある。正確には、スーツの外側には装着できないため、内側の皮膚に直接巻いてある。古びた革が体温を吸って、手首の脈拍点にかすかな重みを伝えている。〇・八グラム。計量したことはないが、身体がその重さを知っている。父マルコが事故の前日に貸してくれたもの。()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが二十七年間、返す機会は来ていない。


 カプセルのハッチが開いた。


 気圧差が空気を引き抜き、与圧服が瞬間的に膨張した。皮膚の上を圧力の波が走る。外側から押されるのではなく、内側から引かれる感覚。身体のあらゆる液体が、〇・一秒だけ外に向かおうとして、スーツの層に押し戻された。


 ハッチの縁に手をかけて、エレナは下を見た。


 下。


 それは()()()()ではなかった。高度三万九千メートルの下には()()()()()。あるのは大気の層と、その底に沈んでいる地球の表面──雲の海と、雲の切れ間から覗く褐色と緑。それは八十九秒先の世界。あるいは、もっと正確に言えば、これから八十九秒のあいだエレナの身体が通過することになる空間の総体。


 エレナは落下を移動とは認識しない。落下とは空間の通過であり、空間とは身体によって()()()()()()()()。これから彼女は、八十九秒――実際には大気の抵抗があるためそれ以上だが――かけて三万九千メートルの空気を()()


「La Chute、降下十秒前」


 管制の声。十。その数字が意味を持たなくなるまで、あと数秒。カウントダウンは人間が時間を分節するための道具にすぎない。落下が始まれば、時間は均質な目盛りであることをやめる。


 七。六。五。


 横隔膜が最後の意識的な収縮を行った。

 肺の中に四・二リットルの混合気体が満ちる。


 四。三。


 足裏がカプセルの床から離れる準備をしていた。母趾球に荷重が集まり、足趾が床を最後に掴もうとする原始的な反射──前庭器官が「まだここにいろ」と命じる信号を、訓練された皮質が上書きする。


 二。


 ()()()()()()()()()()()()()()()退()()()


 音のパースペクティブが消えた。管制の声も、与圧服のファンの唸りも、自分の呼吸も、すべてが同じ距離に並んだ。近くも遠くもない場所。痛みも恐怖も存在するが、それは彼女のものではなく、ガラス一枚隔てた向こう側の誰かのもの。


 エレナは知っている。

 これが解離であることを。


 意識が身体の所有権を一時的に手放す防衛反応。臨床的には「離人感」と呼ばれるもの。彼女はそれを「ガラスの壁」と呼ぶ。そしてこの壁の向こう側でこそ、彼女は()()()()()()()()


 一。


 落ちた。


 あるいは、()()()()()()()()


 最初の三秒間。

 身体は「落ちている」とは知覚しなかった。


 内耳の前庭器官──半規管と耳石器──が重力変化に追いつかず、脳に届く信号はただただ「浮遊」だった。胃の位置が不確かになり、内臓がどこにあるのか身体地図が一瞬空白になった。しかしその空白はデータとして処理された。


 既知の現象。


 高度三万九千メートルの大気密度では空気抵抗がほぼゼロに等しく、身体は完全な自由落下に近い状態にある。真の無重力ではないが、それに限りなく近い。


 七秒。

 速度が増していく。毎秒九・八メートルの加速。ただし加速度は空気密度の増加とともに徐々に減少する。エレナの身体はそれを計算ではなく皮膚で知る。与圧服の表面に当たる空気分子の数が、秒ごとに増えていく。最初はほとんど何もなかった圧力が、まず肩と胸郭の前面に、次に腕の外側に、薄い布を一枚ずつ重ねていくように堆積する。


 十五秒。

 高度三万メートルを通過。姿勢制御。右肩を〇・七度下げ、左腕を体側から五度開く。身体は空力的に非対称な物体であり、わずかな姿勢のずれが軌道を大きく変える。空気を彫刻する。やはりそれが正しい表現だ。三次元の空間の中で、自分の身体の面積と角度を操作し、落下という不可逆の運動の中に制御の余地を刻む。


 三十秒。

 高度二万二千メートル。速度が音速に近づいていた。身体の周囲で空気が圧縮され、衝撃波が形成され始める。皮膚は与圧服越しにそれを感じない。しかし音が変わった。それまで周波数を上げ続けていた風切り音が、ある閾値を超えた瞬間、()()()


 沈黙。


 音速を突破した身体の周囲では、音は後方に置き去りにされる。自分自身のソニックブームは自分には聞こえない。世界から音が引き剥がされ、あとに残るのは、ヘルメットの内側で反響する自分の呼吸だけ──それすらも、ガラスの壁の向こう側にある。


 ()()()()()()()()()()()


 管制は今も何かを言っているはずだが、音声は遅延し、断片化し、意味を持たない音素の連なりになっている。エレナは成層圏の沈黙の中に浮かんでいた。落下しながら浮かんでいた。あらゆる関係性から切断された、純粋な「現前」の中に。過去も未来もなく、マルセイユも、ロサンゼルスも、父の動かない脚も、ここにはない。


 あるのは身体と重力だけ。

 二つの物理量の対話だけ。


 これが彼女の求めるものだった。

 世界から八十九秒だけ借りた、完全な孤独。


 四十五秒。

 音速を下回り、音が戻ってきた。最初に戻ったのは低周波──風の唸り。次に自分の呼吸。そして管制の声が、距離のある場所から近づいてくるように、遠近感を取り戻していった。


 高度一万メートル。

 空気が濃くなり、身体にかかる圧力が急激に増した。終端速度に近づいていた。時速約千百キロから、大気の層を降りるごとに減速し、やがて時速二百キロ前後で安定する。頬が空気抵抗で後方に引かれ、バイザーの内側で顔の皮膚が変形するのを感じた。唇が歯から微かに剥がれようとする力。まぶたを意識的に開けていなければ、風圧が瞼を閉じる。


 空気を彫る。

 肩を一・五度回旋させ、骨盤を左に〇・三度傾ける。軌道が修正される。着地点のネットは直径四十メートル。三万九千メートルの落下の末に、その円の中心から五メートル以内に到達しなければならない。誤差率はわずか〇・〇一三パーセント。


 高度五千メートル。ドローグシュートが展開。身体に急激な減速がかかった。内臓が慣性の法則に従ってなお落下を続けようとし、胃が横隔膜に押し上げられ、肺の底が圧迫された。背骨に沿って、減速の力が椎間板を一つずつ圧縮していく感覚。


 高度千メートル。メインパラシュート展開。


 ハーネスが肩と腿に食い込み、身体が一瞬だけ上方に引き戻された。内耳が混乱し、「落下」と「上昇」の境界が〇・三秒ほど溶解した。


 ネットが見えた。

 海上に浮かぶ白い円。

 二・四七秒先の着地点。


 ガラスの壁はまだ機能していた。

 恐怖はこの向こう側にある。


 着地。


 身体がネットに接触した瞬間から、三・四秒かけて減速した。ネットの繊維が身体を受け止め、運動エネルギーを弾性エネルギーに変換していく。しかし()()()()()()()()()()。胃と肝臓が本来の位置を探して腹腔の中を漂い、横隔膜がそれを押し戻そうとする。吐き気が、感情ではなく物理現象として、食道の下端に到達した。


 最初に戻ったのは聴覚だった。

 自分の呼吸が、ヘルメットの内側で異様な大きさで反響していた。吸気と呼気のあいだに、心拍が聞こえた。百十二。落下開始前の五十八から、身体は知らないうちに倍近くまで加速していた。ガラスの壁の向こう側で、恐怖がきちんと心臓を動かしていたのだ。


 次に、歓声。

 距離のある場所から、空間を伝播する速度で、徐々に近づいてくる。ボートの上のチーム。ヘリコプターのローター音。無線から溢れる声。


 ネットの上で仰向けになり、エレナは空を見た。たった今、自分が通過してきた空。自分が彫った空。成層圏の黒はここからは見えない。あるのは平凡な青だけ。


 ガラスの壁が溶け始めていた。感覚が層ごとに戻る。まずネットの繊維が背中に刻む格子模様の圧覚。次にヘルメットの重さが首の筋肉にかける〇・九キログラムの荷重。そして、最後に、遅れて津波のように──。


 それが到達する前に、彼女はバイザーを開けた。


 海風が顔に触れた。

 塩と湿度を含んだ、地上の空気。

 成層圏の何もなさとは正反対の、情報過多な空気。

 その空気が、左耳に、わずかに歪んで届いた。


 右耳が捉えた歓声の輪郭を、左耳は正確に再現しなかった。周波数の一部が欠落している。高音域が削られ、人々の声が、水の底から聞いているように丸くなっている。


 エレナは目を閉じた。


 右耳と左耳に届く世界の差異を、身体の内側で測定していた。二つの聴覚が描く世界地図のずれ。右耳の地図は精密で、歓声の中の個々の声を分離できる。左耳の地図は滲んでいて、すべてが一つの塊になっている。


 これが代償だった。高度三万九千メートル。音速突破。成層圏の沈黙と引き換えに、左耳の世界が少し曖昧になった。気圧変化による内耳の損傷。聴力七十パーセント──それが正確な数字かどうかは、まだわからない。着地後の検査で判明するだろう。


 彼女はそれを誰にも言わなかった。


 ヘリコプターがネットに接近し、レスキューチームがネットの縁に取りついた。手が伸びてきて、彼女の腕を掴んだ。


「エレナ! 成功だ! 世界記録だ!」


 コーディネーターのマークが叫んでいる。その声は右耳ではマークの声として、左耳では輪郭の崩れた音圧として届いた。


 エレナは笑った。

 顔の左側が右側より〇・二秒先に動いた。

 古い神経損傷の名残。


「荷物が少ないほうが、速く落ちるの」


 軽口が口をついた。

 皮肉という名の防衛線。

 最初の層。


 マークが笑い、チームが笑い、無線の向こうで管制室が拍手した。


 笑いが収まった後の三秒の沈黙の中で、エレナはネットの上に座ったまま、左手首の革のブレスレットに右手の指先を触れた。与圧服を脱いだら、最初に確認すること。革はまだそこにあるか。〇・八グラムの重みは失われていないか。


 マルセイユの港で、父がこれを手首に巻いてくれたのは、二十七年前の朝だった。その日の夕方、父は落ちた。クレーンから。自分の意志ではなく。


 エレナは成層圏から落ちた。

 自分の意志で。


 その違いが、エレナ・マリア・コルヴォという人間のすべてを説明している。そして、何一つ説明していない。


 太陽が水平線の上で高度を増していた。海が光を反射して、ネットの下を白く染めた。世界が彼女の成功を祝福している。テレビカメラが回り、データリンクがリアルタイムで数百万の端末にこの映像を配信し、「La Chute」の名前がまた一つ伝説に加わる。


 エレナは立ち上がった。ネットが揺れ、足裏が不安定な繊維の上でバランスを探った。母趾球と第二趾の付け根の間──ワイヤーの上と同じポイントに荷重を集める。どんな不安定な場所でも、この一点を見つければ、彼女は立てる。


 空を見上げた。


 八十九秒前に自分がいた場所は、もう見えない。成層圏は地上からは透明で、そこに人間がいたことの痕跡は何も残らない。落下は通過であり、通過は消滅だった。空気を彫ったはずの軌跡は、彫られた瞬間に閉じていく。


 彼女の身体だけが記録を保持している。内耳の損傷。椎間板にかかった圧縮荷重の残響。そして、左耳が捉え損ねるようになった世界の高音域。


 それを誰にも言わないまま、エレナはボートに移り、陸に向かった。


 ポケットの中で、携帯電話が振動していた。

 マルセイユからの着信。

 その通知を、彼女はまだ見ていない。


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