第9話 丸の内のトップエリートと、地方中小の平社員(後編)
静まり返った応接室に、アルバートの乾いた溜息だけが落ちた。
「……参ったな。よもや異世界に来てまで、労務管理の壁にぶち当たるとは思わなかったよ」
「当たり前でしょ。大義名分で現場の胃袋は満たされないの」
私が冷ややかに言い放つと、アルバートは両手を軽く挙げて降参のポーズを取った。
「分かった。条件を再提示する。僕のポケットマネー――いや、グラフェイル侯爵家の特命交際費および宰相機密費から、君個人への『外部監査コンサルタント料』を満額支給しよう」
「金額は?」
「金貨で月三十枚。危険手当としてさらに二割上乗せ。もちろん非課税、足のつかない別口座で管理させる」
(……き、金貨三十枚!?)
地方平社員の金銭感覚が激しく動揺した。
エミリアの記憶によれば、金貨三十枚といえば下町の一般家庭が半年は贅沢に暮らせる大金だ。手取り十七万のワンルーム生活からすれば、目玉が飛び出るような超高額報酬である。
だが、ここで即座に飛びついては足元を見られる。私はポーカーフェイスを崩さず、スッと人差し指を立てた。
「金の話は分かった。でも、現場の人間が本当に求めてるのは『金』だけじゃないのよ」
「……まだ何かあるのかい?」
警戒を強めるアルバートに、私は真顔で要求を突きつけた。
「第一に、完全週休二日制と定時退社の死守。夜間調査や休日出勤が発生した場合は、翌週に必ず代休を付与すること」
「……合意だ。僕も無駄な残業は生産性を下げるだけだと考えている」
「第二に、調査現場での安全確保。私は魔力の扱いも護身術もド素人よ。あんたが責任を持って最強の護衛をつけるか、あんた自身の魔法で私の生命を百パーセント保証しなさい」
「了解した。僕の身体強化魔法と結界で君の安全は保証する。……これで契約成立でいいかい?」
「まだよ。最後にもうひとつ、最も重要な福利厚生」
私は身を乗り出し、机の上の空になったティーカップを指差した。
「王都の一流パティスリーの新作スイーツ、および公爵家厨房への最高級茶葉の現物支給。頭脳労働で消費された糖分は、その日のうちに最高品質のもので補填されなければなりません」
「……は?」
「聞こえなかった? 現場のモチベーション管理よ。これがないと監査の精度が著しく低下します」
大真面目に言い切る私を、アルバートは狐につままれたような顔で見つめていた。
だが、やがて呆れたように口元を緩め、ふっと吹き出した。
「……最高だな、中道さん。金貨数十枚の予算はあっさり通すのに、最後の決め手が定時退社とケーキとはね」
「平社員の生活防衛を舐めるな」
「いいだろう。王宮御用達の菓子職人に、毎週焼きたてのタルトとスコーンを届けさせよう。……これで全ての条件はクリアだね?」
アルバートが右手を差し出してくる。
私は少し間を置いたあと、その手をしっかりと握り返した。
「ええ、契約成立。腐った貴族どもの裏帳簿、一枚残らず洗ってやるわ」
握手を交わした瞬間、アルバートはどこか満足そうに、独り言のようにぽつりと呟いた。
「――まあ、ねだるな、勝ち取れ。さすれば与えられん……ってね」
「…………」
私の思考が、一瞬だけピキリと静止した。
ねだるな。
勝ち取れ。
さすれば、与えられん。
……は?
「……ちょっと待ちなさい」
私は握ったままの手をギュッと力任せに握り潰した。
「痛っ……! 何だい突然、エミリア嬢!?」
「あんた今、何つった? 『ねだるな、勝ち取れ』って言ったわよね? それ、エウレカセブンじゃねーか!!」
応接室に、元・平社員の濁りのない魂のツッコミが響き渡った。
「……え」
アルバートが、今日一番の間抜けな顔で目を丸くした。
「気付いたのかい……?」
「気付くわボケ! 日曜の朝七時に起きてリアタイしてただろうが! なにレントンの父親の遺言をビジネスの格言みたいにドヤ顔で引用してんだよ! 恥ずかしくないの!?」
「な、何を言うんだ! あれは人生とビジネスの本質を突いた普遍的な真理じゃないか! 自分の足で立ってリスクを取る者だけが果実を得るという――」
「オタクの早口で誤魔化すなァァァ!!」
さっきまでのビジネスの緊張感は、綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
「……まったく」
私は脱力して手を離し、額を押さえた。
「国家転覆テロの首謀者を叩き落とす作戦名、まさか『アクペリエンス』とか言わないでしょうね?」
「……いや、さすがにそこまで悪趣味じゃないよ」
アルバートは視線を泳がせながら、小さく咳払いをひとつした。
図星だったらしい。こいつ、放っておいたら作戦書にレントンとかコーラリアンとか書き殴りかねない危険人物だ。
「コホン。……とにかく、契約は交わされた。今夜未明、宮廷の中央書架庫に潜入する。敵が隠蔽工作を図る前に、過去五年分の物流台帳の原本を押さえるよ」
アルバートは懐中時計をパチンと閉じ、ふてぶてしい笑みを浮かべた。
「現場の腕の見せ所だ、中道さん。ジェガン叩き上げの意地、見せてもらうよ」
「……誰が量産型だコラ。こっちは現場のサバイバル生き残ってんだよ」
私は冷え切った紅茶を一息に煽り、空になったカップをコトンと机に戻した。
「じゃ、私は定時なんで。出勤は深夜二時でいいのね? 深夜割増手当の計算、一分単位で付けておくから」
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