白花
畳の上に並べられた二つの布団に横たわりながら、久雄は一度も瞼を閉じることができずにいた。
頭上からは、古びた木造建築特有の軋みと、遠くで響く夜の風音だけが聞こえてくる。隣からは妻・由香の浅い息遣いが漂っていたが、彼女もまた眠っていないことは、肌に刺さるような空気の緊張感で痛いほど分かった。
四十四歳。IT関連企業の役員として、久雄の人生は順風満帆そのものだった。
都内の閑静な住宅街に建てたマイホーム、献身的な妻、そして何より誇りだった息子、陸。素直で成績も良く、部活動にも熱心に取り組む、絵に描いたような「自慢の息子」だった。
その世界が根底から覆ったのは、わずか数週間前のことだ。
——いじめ。
警察署の取調室で久雄たちが突きつけられたのは、そんな生ぬるい言葉では到底表しきらない同級生に対する凄惨な暴力と蹂躙の記録だった。写真に収められた怖気を催す事実と、被害者の親からの激しい怒号。目の前で俯く息子は、まるで感情の抜け落ちた能面のような顔をしていた。
長年愛し、慈しんできた我が子は、自分たちの知らない場所で化け物になっていたのか。
忙しい仕事の合間をぬって、精一杯の愛情を注いできたつもりだった。間違ったことをすれば心を鬼にして叱り、人間としての良識を教えてきた自負があった。自分たちは悪魔を産み落としてしまったのか。それとも、無垢だったはずの赤子を、自分たちの何かが化け物へと変えてしまったのか。思考は無限の暗闇をぐるぐると回り続け、答えには永遠に辿りつかない。
世間の目と、突きつけられた現実の重圧から逃れるようにして、二人は吸い寄せられるようにこの山奥の宿へ辿り着いた。
一階の広間で供された夕食は、まるで砂を噛むような心地がした。
山菜の天ぷらも、香ばしい魚の塩焼きも、舌のうえで何の味も結ばない。二人の間に流れる静寂はあまりに重く、まるで通夜の席のようだった。
しかし、給仕をする小柄な女将は、そんな異様な雰囲気を帯びた夫婦を訝しむこともなく、ただ座敷童のように可愛らしい顔に静かな微笑みを湛えていた。その一切の踏み込みをしない眼差しだけが、絶望の渦中にいる久雄にとって、ほんのわずかな救いだった。
「……陸は、今どう過ごしているんだろうな」
並んだ布団の中で、久雄の口から意図せず呟きが漏れた。
考えてみても、拘留されている息子の現状などまるで想像がつかない。暗闇の底で思い浮かぶのは、自分たちの手を握っていた幼い頃の、あの愛おしい笑顔ばかりだ。
『鑑別所から家庭裁判所へ送致されても、少年院へ行くなら一年ほど。送致されなければ数ヶ月で戻ってきます』
淡々と事実だけを告げていた弁護士の機械的な声が、耳の奥で何度もこだまする。
「戻ってきたら……どう迎えればいいんだろうな」
答えのない問いを暗闇に投げかけた、その時だった。
ガバッと、隣で妻が身を起こす気配がした。
事件の発覚以来、魂が抜けたようにただ呆然と彷徨うだけだった由香の瞳が、街灯の光すら届かない暗い部屋の中で、恐ろしいほど爛々と光っていた。
「……私を責めているんでしょう?!」
闇を切り裂くような、破裂しそうな声だった。
「私が……私の育て方が悪かったって、そう思っているんだわ! あなたは仕事にかこつけて家にいなかったから! 私が一人で育てたから、あの子があんな風になったって言いたいんでしょう!?」
頭を掻きむしり、自らの髪を引っ張りながら床にうずくまる妻。壊れた人形のように激しく肩を揺らし、破滅的な嗚咽を漏らし始めた。
久雄は、何も言えなかった。
かけるべき言葉すら見つからず、ただ闇の中で、溢れ出す涙で頬を濡らすことしかできなかった。咎めることも、慰めることもできないまま、二人は朝を迎えた。
翌朝。
部屋の中に立ち込める重苦しい沈黙と、壊れてしまいそうな空気感に耐えかね、久雄は一人で外へ散策に向かうことにした。
廊下を通り、土間の大きな引き戸を潜ろうとした背中に、ぽんと穏やかな声がかけられた。
「お出かけですか」
振り返ると、白髪を小さな丸髷に結った女将が、小さな手で掃除用具を持ちながら立っていた。昨夜、二階から響いていたであろう妻の狂乱や泣き声について、尋ねることも、咎めることも一切しない。ただ、いつも通りの柔らかな微笑みを浮かべている。
「……ええ、少し」
「それなら、宿を出て左手にある沢を越えてごらんなさい。今ちょうど、綺麗な花が見頃を迎えておりますよ」
花など眺める気分では到底なかった。けれど、行く当てもない久雄は、ただ頭を下げて教えられた道へと足を向けた。
冷涼な山の空気が、徹夜で火照った頭を冷やしていく。
沢のせせらぎを聞きながら木々をかき分けて進むと、少し視界が開けた場所に出た。久雄はそこに横たわる大きな倒木に腰掛け、ぼんやりと葉の隙間からこぼれる光を眺めていた。
どのくらい、そうしていただろうか。
ふと足元に視線を落とすと、周囲に白い小さな花が群生しているのが目についた。
(これのことか……)
女将が言っていたのは、この花だろう。見るともなしに、その真っ白な花弁を眺めていた久雄の脳裏に、唐突にある古い記憶が蘇ってきた。
十四年前。
妻から妊娠を告げられた日のことだ。
青々と芝生が敷き詰められた河川敷の堤防に、二人で並んで座っていた。
「お父さんになるんだよ」と言われた一瞬の驚きのあと、胸の奥から静かに、けれど圧倒的な熱量で湧き上がってきた言葉にならないほどの喜び。照れたように見つめ合った妻の目には、うっすらと光る感動の涙があった。
あの時、並んで座っていた自分たちの足元に、たった一輪だけ咲いていたのが——この、真っ白な花だった。
久雄は息をのんだ。
そうだ。自分たちは、あの時、心から救われるような思いで新しい命の誕生を喜んだのだ。
どんな子に育つかなど分からないまま、ただ生み出された存在そのものを愛おしく思い、二人で手を携えて歩んでいこうと誓い合ったのだ。
あの子が化け物になったのではない。自分たちが化け物にしたのでもない。
ただ、自分たちは父親であり、母親なのだ。たとえこの先、どれほど茨の道が待っていようと、どれほど世間から石を投げられようと、あの子の罪を背負い、手を握り直して泥を拭ってやれるのは、世界で自分たちしかいないのだ。
久雄はひざまずき、足元に咲く白い花を一輪、そっと手折った。
宿へ戻ると、部屋の隅で丸くなり、膝を抱えて怯えるように座り込んでいる妻の姿があった。
久雄は静かに歩み寄ると、その前にかがみ込み、手に持っていた真っ白な花をそっと妻の視界へと差し出した。
由香が、ゆっくりと顔を上げる。
その掌の上の小さな白を見つめた瞬間、彼女の瞳に鮮明な記憶の光が宿った。十四年前の、あの温かい河川敷の風と、二人で流した涙の記憶が。
「……久雄、さん……」
由香の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。昨夜の狂乱した涙とは違う、痛みを分かち合うための涙だった。
久雄は差し出した手を伸ばし、妻の細い肩を強く、壊さぬように抱きしめた。
妻の体から溢れる震えを受け止めながら、しっかりと力を込める。すると、妻の細い腕もまた、救いを求めるように久雄の背中に回され、力強く抱き返してきた。
言葉は何もいらなかった。
これから始まる途方もない苦難の道のりを、二人で逃げずに歩んでいく覚悟が、静かに二人の間に通い合っていた。
部屋の外では、静かな山の風が吹き抜け、軒先で小さな女将が静かに微笑んでいるかのような、不思議な平穏が漂っていた。




