朝凪
車一台がすれ違うのも困難な隘路を、ただひたすら奥へ奥へと進んだ先に、その宿はある。
携帯電話の電波は、二時間も手前に通過したトンネルのあたりで完全に潰えていた。カーナビの画面は道のない青緑色の背景のなかで自車位置のアイコンを虚しく点滅させるばかりで、やがて電源を落とすと黒い硝子板になった。
鬱蒼と茂る杉の木立が重なり合い、昼なお暗い山道を押し潰さんばかりに迫っている。雨上がりの湿った土と腐葉土の匂いがエアコンの吹き出し口から忍び込んでくる。フロントガラスを打つ小枝の音を聞きながら、美咲は握りしめたハンドルにじっと汗を滲ませていた。
なぜ、こんな場所に向かって車を走らせているのか。自分でも分からなかった。
ただ、東京を逃げ出したかった。あの整然としたオフィス、祝いの言葉が刷られた大量の披露宴招待状、そして——「会社を辞めて、牧場をやろうと思う」と、どこか遠い目をして告げた婚約者の姿から。
山の斜面にへばりつくようにして建つ一軒の木造家屋が見えたのは、夕闇が本格的に山肌を覆い尽くそうとしていた時刻だった。
軒先に灯る、薄ぼんやりとした朱色の紙提灯。看板すら出ていない。だが、旅の途中でふと立ち寄った小さなパーキングエリアの老婦人が、言葉の端々に漏らしていた「あそこ」の特徴と正確に一致していた。Webサイトにも、どの観光ガイドブックにも載っていない。ただ、ごく稀に、傷を負った者が導かれるようにして辿り着くという、噂とも都市伝説ともつかない場所。
美咲は掠れた息を吐き出し、エンジンのスイッチを切った。途端に、静寂が津波のように押し寄せてきた。
重い木製の引き戸を開けると、からん、と澄んだ鈴の音が響いた。
「いらっしゃい」
土間の奧から姿を現したのは、一瞬、小さな子供かと見紛うほどの小柄な老婦人だった。
着慣れた藍染めの絣の着物を纏い、白髪を小さな丸髷に結っている。歳の頃は八十を超えているだろうか。しかし、その肌には妙な艶があり、丸い瞳はまるで幼子のように爛々と輝いていた。座敷童がそのまま歳を重ねたら、きっとこのような姿になるのではないか——美咲は知らず知らず、息をのんだ。
「お一人ですか。……だいぶ、遠くからおいでになられたそうだねぇ」
女将は皺の寄った目元を和ませ、深々と頭を下げた。予約すらしていない不躾な客に対して、嫌な顔一つ見せない。
「あの……お部屋、空いていますでしょうか。飛び込みで、申し訳ないのですが」
「ええ、ええ。空いているも何も、今夜の客はあなたお一人ですよ。どうぞ、上がってくださいな」
案内された二階の客室は古いながらも清掃が行き届き、磨き上げられた廊下や柱が小澄んだ光を反射していた。
部屋に通され、文机の上にバッグを置いた美咲だったが、静まり返った部屋の中でただ一人畳を見つめていると、ぐるぐると同じ思考が頭を巡り始めた。
大手IT企業でのキャリア、二人が歩むはずだった将来、特注の招待状、そして突然「北海道で牧場をやる」と言い出した婚約者の将也の顔。世間体、両親への申し訳なさ、そして自分を置き去りにされた虚無感。
畳の目を数えながら悶々と葛藤し続けることに耐えかね、痛む頭を抱えるようにして美咲は立ち上がった。現実の重苦しさから逃れるように、着替えを持って風呂場へと向かう。
脱衣場を抜け、ギシギシと鳴る板張りのドアを開けた先にあったのは、小さな露天風呂だった。
大浴場などという立派なものではない。大人が一人、膝を折りたたんで入るのが精いっぱいの、足を伸ばすことすらできない丸い木造りの湯船がぽつんとひとつ、夜の山気に晒されて置かれているだけだった。
「……小さすぎる」
思わず口に出た言葉は、溜息となって夜気の中に消えた。
足を縮めるようにして湯船に身を沈める。湯は、驚くほどぬるかった。
身体の芯まで温まるでもなく、かといって冷たくもない。その曖昧な温もりが、今の自分の立ち位置——会社を辞める覚悟も持てず、かといって彼を責めきることもできず、ただ途方に暮れている自分そのもののように思えた。
ぬるま湯に浸かり、遠くで揺れる杉の木立を見上げていると、苛立ちにも悲しみにもなりきらない胸の奥の重苦しい靄が、じわじわと形を変えて目元へと集まってきた。
ポロポロと涙がこぼれ落ち、ぬるい湯面に波紋を作っていく。
どうして打ち明けてくれなかったのか。どうして一人で決めてしまったのか。私との時間は何だったのか。止まらない涙とともに、抑え込んでいた情けなさと悔しさが溢れ返っていった。
気がつけば、ずいぶんと長い時間が経っていた。すっかり湯冷めしそうなほど冷えてきた夜風に背中を押されるようにして湯から上がり、美咲は部屋へと戻った。
部屋の敷居を跨ぐと、ふわりと出汁の香ばしい匂いが漂ってきた。
文机の上には、いつの間にか夕食の膳がすっかり整えられていた。素朴だが温かい手料理の数々。
「お湯は、ぬるくなかったかい?」
膳の脇にチョコンと座っていた女将が、ゆっくりと顔を上げた。
美咲は慌てて目を伏せた。長湯と涙のせいで、目元は誰が見ても分かるほど真っ赤に腫れ上がっていたはずだ。惨めさから咄嗟に顔を背けようとした美咲に対し、女将は探るような視線を向けることも、理由を尋ねることも一切しなかった。
ただ静かに立ち上がると、おひつから湯気の立つ白いご飯をそっと茶碗によそい、両手で優しく美咲の手元へと手渡してくれた。
言葉のない、けれど全てを包み込むようなその指先の温もりと仕草に、美咲の緊張の糸がぷつりと切れた。
茶碗を抱えたまま、美咲の口からぼろぼろと言葉が溢れ出した。
挙式寸前での告白。婚約者が突然会社を辞めて牧場を始めると言ったこと。会社や親への世間体。そして何より、長年寄り添ってきたはずの彼の心がまったく分からなくなってしまった悲しみ。
女将は静かに頷き、「そうかい」「辛かったねぇ」と、幼子をあやすような温かい声で相槌を打ちながら耳を傾けていた。
「お嬢さん。男の人という生き物はね、時々、自分の命の使い道を探して途方に暮れてしまうことがあるものなのです。あなたを嫌いになったのではなく、一番大切な人の前だからこそ弱音を吐けず、自分でも整理がつかない衝動だったから相談できなかったのかもしれませんねぇ」
女将は丸い目を和ませ、続けた。
「大切なのは『なぜ言わなかったのか』を責めることではなく、あなたが『これからどうしたいか』ということだけですよ。世間体ではなく、ご自分の心にだけは嘘をついてはいけません」
その言葉に、美咲の胸の視界が開けていった。
世間体や他人の目のために悩んでいた自分に気づき、彼を一人で遠くへ行かせることのほうが何倍も恐ろしいのだと悟った。
「私……彼と一緒に生きたいです。泥だらけになっても、彼の隣にいたいです」
決意を口にした美咲に、女将は満足そうに微笑んだ。
翌朝、眩いばかりの光のなか、美咲はすっきりとした晴れやかな顔で宿をあとにした。
車を走らせ、携帯の電波が戻ったらすぐに彼に電話をかけよう——『牧場の手伝い、私も行くよ』と伝えるために。
バックミラー越しに見える小さな宿の軒先では、座敷童のような女将が、いつまでも温かく手を振り続けていた。




