第5話 遠い遠い昔
「澪様」
「なに?」
「そちらではございません」
「……分かってた」
「左です」
「分かってたって」
アルヴェリア王国へ向かい始めて、三時間。
私はすでに二回、道を間違えていた。
正確には道を間違えたというより、アルバに乗るのが下手だった。
「止まって。アルバ、止まって」
アルバは止まらない。
「なんで?」
「澪様が右へ引いておられますので」
「左に行きたいのに?」
「はい」
「馬って難しい」
「アルバはかなり合わせてくれております」
「これで?」
アルバの耳がぴくりと動いた。
「ごめんって」
首筋を撫でると、アルバが小さく鼻を鳴らした。
イリスは私の少し前を歩いている。
「イリスは乗らないの?」
「私は歩く方が速いので」
「馬より?」
「はい」
「……そう」
もう驚かないことにした。
黒炎の魔女。
三年前に一つの王国を滅ぼした女。
千年間、私を探していた女。
分からないことばかりだ。
「アルヴェリアまでどれくらい?」
「この速度でしたら六日ほど」
「遠いなあ」
「急げば二日で到着できます」
「どうやって?」
「私が澪様を抱えて飛びます」
「六日でいい」
「左様ですか」
少し残念そうなのが怖い。
「そういえば」
私はイリスの背中を見る。
「昨日聞きそびれたんだけど」
「何でしょう」
「イリスって何歳なの?」
足が止まった。
「……正確には覚えておりません」
「千歳以上?」
「はい」
「人間じゃないの?」
しばらく返事がなかった。
「元は、人間でした」
「元は?」
「はい」
「じゃあ今は?」
イリスが振り返る。
少し困ったような顔。
「それも、今日ご覧になると思います」
「今日?」
「アルヴェリアへ向かう前に、一か所だけ寄らせてくださいませ」
「どこ?」
「《追憶湖》です」
初めて聞く名前だった。
「そこに何があるの?」
「あなた様が遺されたものがございます」
「私が?」
「はい」
「千年前に?」
イリスは答えない。
でも。
その沈黙だけで十分だった。
◇
昼過ぎ。
森を抜けた先に、巨大な湖が現れた。
風もないのに、水面だけが細かく揺れている。
「ここ?」
「はい」
イリスが湖畔へ立つ。
右手を伸ばした。
黒炎が現れる。
何度見ても変な炎だ。
赤くない。
熱そうにも見えない。
光を放つどころか、周囲の光を吸い込んでいるようにすら見える。
黒炎が水面へ落ちる。
消えなかった。
炎は一本の線となって湖を走り、巨大な円を描く。
ゴゴゴゴゴ――。
水面が割れた。
「……すご」
左右へ水が押し退けられる。
湖底へ続く石階段が現れた。
「行きましょう」
「ねえ」
私は黒炎を見る。
「それって魔法?」
イリスの表情が僅かに変わった。
「いいえ」
「じゃあ何?」
「……私にも、正確には分かりません」
意外だった。
「自分の力なのに?」
「この力は、生まれつきのものではございませんので」
「いつから?」
イリスは湖底へ続く階段を見る。
「千年前です」
また。
千年前。
「今日分かる?」
「はい」
私はアルバから降りた。
「じゃあ行く」
◇
水の壁の間を歩く。
魚がすぐ横を泳いでいる。
「すごい」
私はスマホを取り出した。
写真を撮る。
一枚。
二枚。
イリスがこちらを見る。
「それは?」
「スマホ」
「昨日もお持ちでしたね」
「写真撮れるの」
画面を見せる。
イリスが覗き込む。
「今の湖が……」
「残るんだよ」
「記憶を保存する魔道具ですか」
「まあ、そんな感じ」
「地球には便利なものがあるのですね」
「イリスも撮る?」
「私を?」
「うん」
イリスが少し戸惑った。
「必要でしょうか」
「別に必要だから撮るものじゃないよ」
「では、なぜ?」
「思い出」
イリスが黙った。
ほんの一瞬。
悲しそうな顔をした気がした。
「嫌?」
「いいえ」
私はスマホを向ける。
「笑って」
イリスが笑う。
怖い。
「それ作り笑いでしょ」
「笑っております」
「もっと普通に」
「普通とは」
「もういいや」
困った顔のまま撮った。
画面を見せる。
イリスが自分の写真を見る。
「……不思議です」
「何が?」
「過ぎ去った瞬間が、そのまま残るのですね」
「消さなければね」
イリスの指先が画面へ近づく。
でも、触れる直前で止まった。
「では」
「うん?」
「消さないでくださいませ」
「いいよ」
そう答えると、イリスは小さく笑った。
◇
湖底の最深部。
巨大な石扉があった。
九輪の花が彫られている。
私が花瓶を近づけると、白い《慈悲》と青い《追憶》が光った。
扉が開く。
中には小さな石室。
中央の台座。
その上に、一枚の古い鏡が置かれていた。
「これ?」
「《追憶鏡》」
イリスが答える。
「失われた記憶を映す神器です」
「私の記憶?」
「はい」
私は鏡へ近づく。
何も映っていない。
真っ黒だった。
「何が見えるの?」
「遠い昔のあなた様です」
「……怖いやつ?」
イリスはすぐには答えなかった。
「私にとっては」
静かな声。
「とても大切で、とても悲しい記憶です」
急に触るのが怖くなった。
「イリス」
「はい」
「ここにいて」
目が僅かに見開かれる。
「一人で見るの嫌だから」
「……はい」
私は鏡へ手を伸ばした。
指先が触れる。
世界が消えた。
◇
花畑だった。
白。
青。
赤。
黄色。
見渡す限りの花。
その中を、一人の少女が走っている。
黒い髪。
十歳くらい。
「ミオ様!」
少女が誰かへ飛びついた。
白い服。
長い白髪。
金色の瞳。
女性。
顔を見た瞬間。
胸が止まりそうになった。
私だった。
いや。
私じゃない。
でも。
間違いなく。
私だった。
「危ないよ、イリス」
白髪の女性が少女を受け止める。
「転びません」
「昨日転んでたじゃん」
「昨日は昨日です」
「じゃあ今日は?」
少女が走り出す。
三歩。
転んだ。
「……」
「ほら」
「笑わないでください!」
ミオが笑う。
幼いイリスが頬を膨らませる。
「イリス……」
私の声は届かない。
景色が変わる。
◇
十五、六歳くらいになったイリス。
剣を振っている。
何度も。
何度も。
手から血が出ていた。
「もうやめたら?」
木陰でミオが寝転んでいる。
「嫌です」
「なんでそんなに頑張るの」
「ミオ様をお守りするためです」
「私、神様だよ?」
「存じております」
「多分イリスより強い」
「存じております」
「じゃあ意味なくない?」
剣を止める。
「あります」
「どんな?」
イリスは当たり前のように答えた。
「あなた様が戦わなくて済みます」
ミオの笑顔が消えた。
「……そっか」
少しして。
ミオは笑った。
「じゃあ期待してる」
イリスが嬉しそうに頷いた。
「はい!」
景色が変わる。
◇
炎。
街。
悲鳴。
空には巨大な人影。
神々。
『生命神ミオ』
声だけで大地が震える。
『人への過度な肩入れをやめよ』
ミオが空を見上げる。
「肩入れ?」
『人は我らが創造物』
「だから?」
『我らが管理することに何の問題がある』
ミオの顔から表情が消えた。
「人間は物じゃない」
『神へ逆らうつもりか』
「うん」
九色の花がミオの周囲に咲く。
「だって私」
花が空を埋め尽くす。
「あなたたちより、人間の方が好きだから」
光が弾けた。
◇
戦争が始まった。
一日ではない。
一年でもない。
長い。
長い戦争。
街が滅び。
神々が傷つき。
人間も死んでいく。
その間。
イリスはずっとミオの隣にいた。
もう今と同じ姿。
ただ。
黒炎はない。
普通の人間だった。
剣を持った、ただの人間。
「ミオ様」
戦場を見下ろしながら、イリスが聞く。
「勝てますか」
ミオは答えなかった。
「ミオ様」
「……無理」
イリスの表情が強張る。
「このまま戦えば、最後は人間が全部死ぬ」
「では」
「世界を分ける」
ミオが手を伸ばした。
空間に二つの球体が浮かぶ。
一つはアメン。
もう一つ。
青い星。
地球。
「神々がいる世界と」
地球を指す。
「神々が入れない世界」
「そこへ人間を?」
「行きたい人だけ」
「全員ではないのですか」
「残りたい人もいるから」
ミオは静かに笑った。
「私が勝手に決めたら、あいつらと同じでしょ」
「では」
イリスが地球を見る。
「ミオ様も、そちらへ?」
沈黙。
「ミオ様?」
「私は行かない」
イリスが固まった。
「……なぜですか」
「世界を裂くだけじゃ足りない」
ミオは地球を包む透明な壁を作る。
フラスコ。
私が東京で見たもの。
「境界も作る」
「それには、どれほどの力が」
「全部」
「……」
「私の神格を全部使う」
イリスの顔から血の気が引く。
「それだけでは足りない場合は?」
ミオは答えない。
「ミオ様」
「魂まで使う」
「おやめください」
「それしかない」
「別の方法を探します」
「もう探した」
「私が探します!」
「時間がない」
「では私も残ります」
「駄目」
「なぜですか」
「死ぬから」
「構いません」
即答だった。
ミオが怒った。
「私は構う!」
イリスが黙る。
「あなたまで死んだら」
ミオの声が震える。
「何のためにやるの」
「しかし」
「イリス」
ミオが彼女の頬に触れる。
「向こうで生きて」
「嫌です」
「お願い」
「嫌です」
「……ごめん」
ミオの指先が光った。
「え」
イリスの身体が動かなくなる。
「ミオ様?」
足元に光の門が開く。
「何を」
イリスの身体が地球側へ引かれていく。
「お待ちください」
「生きて」
「嫌です」
「幸せになって」
「ミオ様!」
「私のことは忘れていいから」
「嫌!」
イリスが光の中へ消える。
最後まで。
ミオは笑っていた。
門が閉じる。
その瞬間。
ミオの笑顔が崩れた。
一人になる。
「……ごめんね」
そして。
泣いた。
◇
世界と世界の狭間。
イリスが目を覚ました。
身体が光に包まれている。
遠くに地球。
多くの人間がそこへ運ばれている。
イリスは振り返った。
アメン。
遠くなっていく。
「……」
その中心。
ミオがいる。
一人で。
「嫌だ」
イリスが身体を動かそうとする。
動かない。
ミオの術。
「解除」
反応しない。
「解除してください!」
当然、声は届かない。
イリスが剣へ手を伸ばす。
指一本。
無理やり動かす。
皮膚が裂ける。
それでも。
剣を抜いた。
「私は」
光の束へ剣を振り下ろす。
「あなた様を一人で死なせるために」
一撃。
亀裂。
「強くなったんじゃない!」
二撃。
光が裂ける。
拘束が解けた。
イリスは地球へ向かう流れから飛び出した。
そして。
アメンへ向かって走った。
世界境界の中を。
人間の身体で。
一歩。
皮膚が焼ける。
二歩。
骨が軋む。
三歩。
血が蒸発する。
「ミオ様!」
それでも進む。
境界がイリスを拒絶する。
当然だった。
ここは世界と世界の狭間。
人間が存在していい場所ではない。
身体が崩れ始める。
それでも。
「待っていてください」
進む。
「今」
指先が光へ変わる。
「参ります」
その瞬間。
ミオが世界を裂いた。
膨大な神力が境界へ流れ込んだ。
イリスの身体を直撃する。
「――っ!」
声すら出なかった。
死ぬ。
そのはずだった。
ところが。
イリスの胸の奥。
何かが神力を取り込んだ。
人間の身体が壊れる。
壊れながら。
別のものへ作り替えられていく。
心臓が止まる。
再び動く。
血が燃える。
瞳が黒く染まる。
「……何」
右手から。
炎が出た。
黒。
赤でも青でもない。
光さえ飲み込む黒い炎。
境界が触れた。
燃えた。
「……」
イリス自身が一番驚いている。
でも。
すぐに前を見る。
「どうでもいい」
黒炎を纏う。
「今は」
世界境界を。
焼く。
「邪魔をするな!」
黒炎が爆発した。
道が開く。
イリスはアメンへ飛び込んだ。
人間だった少女が。
人ではない何かになった瞬間だった。
◇
地面へ叩きつけられる。
「……っ」
イリスが起き上がる。
身体は傷だらけ。
でも。
治っていく。
異常な速度で。
「ミオ様!」
走る。
遠くで。
世界を覆うほどの光。
「待って!」
黒炎を使う。
一瞬で距離を縮める。
「今行きます!」
光が強くなる。
「一人でやらないで!」
届かない。
「ミオ様!」
世界が。
二つに裂けた。
音が消えた。
光が消えた。
そして。
何もなくなった。
「……」
イリスが立ち止まる。
「ミオ……様?」
返事はない。
歩く。
「戻りました」
誰もいない。
「命令を破りました」
瓦礫だけ。
「怒ってください」
返事はない。
「ミオ様」
膝をつく。
「……どこですか」
黒炎が消える。
「私」
手を見る。
傷が治っている。
もう。
人間ではない。
「戻ってきましたよ」
声が震える。
「ですから」
涙が落ちた。
「出てきてください」
静寂。
間に合わなかった。
イリスは。
一人だった。
◇
時間が流れる。
一年。
十年。
イリスの姿は変わらない。
五十年。
変わらない。
百年。
変わらない。
イリス自身も気づいていく。
自分が老いないことに。
怪我をしても死なない。
毒も効かない。
病にもならない。
黒炎は年々強くなる。
「……私は」
鏡を見る。
百年前と変わらない顔。
「何になったのでしょう」
答える人はいない。
それでも。
探す。
ミオを。
神殿。
遺跡。
墓地。
魔術塔。
禁書庫。
世界の果て。
二百年。
三百年。
五百年。
「ミオ様」
六百年。
七百年。
「どこに」
八百年。
九百年。
何もない。
それでも。
神器だけは残っていた。
白い花瓶。
花は一輪もない。
力もない。
それでも。
壊れていない。
イリスはそれだけを信じた。
「あなた様が完全に消えたのなら」
花瓶を抱える。
「これも消えるはずです」
だから。
「どこかに」
探す。
「どこかで」
探す。
「生きている」
◇
そして三年前。
ベルディア王国。
地下深く。
鉄格子。
魔法陣。
異界研究施設。
檻の中に人間がいた。
男。
女。
老人。
子供。
「異界魂抽出実験、第二百七十三号」
白衣の男が記録する。
魔法陣が光る。
檻の中の少女が悲鳴を上げた。
やがて動かなくなる。
「失敗」
研究者が淡々と記録する。
その背後。
「……何を」
声。
研究者が振り返る。
イリスが立っていた。
「誰だ!」
「何をしている」
「侵入者だ!」
兵士が集まる。
剣。
魔法。
イリスは檻を見る。
死んだ少女。
ほんの少し。
幼い頃の自分と重なった。
「なるほど」
黒炎が現れる。
「千年前から」
炎が広がる。
「何も変わっていない」
その夜。
ベルディア王国は滅びた。
◇
地下研究所。
黒炎の中。
イリスが資料を漁る。
目的は最初から一つだった。
異界。
魂。
境界。
何百枚。
何千枚。
そして。
一枚。
手が止まる。
《異界魂観測記録》
《世界境界外・第二世界》
《神格反応――なし》
《魔力反応――なし》
《魂魄波形照合》
その下。
《生命神ミオ》
《一致率――99.997%》
紙が震えた。
「……」
イリスが何度も読む。
一度。
二度。
三度。
「いる」
声が掠れる。
「……いる」
涙が落ちた。
千年近く。
初めて。
証拠を見つけた。
「生きてる」
床へ座り込む。
紙を胸に抱く。
笑う。
泣く。
「ミオ様」
千年間。
一度も返ってこなかった名前。
「やっと」
涙が止まらない。
「やっと、見つけました」
◇
私は鏡から手を離した。
息ができなかった。
「……っ」
膝から力が抜ける。
倒れる前に。
イリスが抱き止めた。
「澪様!」
顔を見る。
今のイリス。
黒い髪。
赤黒い瞳。
そして。
千年前。
ただの人間だったイリス。
「黒炎……」
「……はい」
「私を追いかけて」
声が震える。
「戻ってきたから?」
イリスは答えない。
それが答えだった。
「人間じゃなくなったの?」
「正確には、私にも分かりません」
「でも」
「老いません」
静かに言う。
「人間であった頃より遥かに頑丈になりました。魔力とも神力とも異なる力を持ち、黒炎を扱えるようになりました」
「それって」
私は思わず言う。
「半分、神様みたいな……」
「違います」
即答。
「でも」
「私は神ではございません」
妙に強い声だった。
「では何なの?」
少しだけ。
イリスが笑った。
「死に損なった人間です」
胸が痛んだ。
「私のせいじゃん」
「違います」
「だって私があなたを地球へ送ったから」
「戻ると決めたのは私です」
「でも」
「命令を破ったのも私」
私を見る。
「境界へ飛び込んだのも私」
少し笑う。
「全部、私が勝手にしたことです」
何も言えなかった。
「それに」
イリスが続ける。
「後悔はしておりません」
「間に合わなかったのに?」
一瞬。
表情が止まる。
しまった。
言ってから思った。
でも。
イリスは怒らなかった。
「はい」
静かな声。
「間に合いませんでした」
その言葉だけは。
千年経っても痛いらしい。
「それでも」
私の手を握る。
「戻ってよかったと思っております」
「どうして?」
「戻らなければ」
少し笑う。
「あなた様を探す者が、誰もいなくなっていたでしょうから」
涙が出た。
「……馬鹿」
「よく言われました」
「誰に?」
イリスの笑顔が少しだけ変わる。
「あなた様に」
その瞬間。
何かが頭をよぎった。
花畑。
笑っているミオ。
――変なの。
――変ではありません。
遠い。
遠い昔。
私の記憶。
「イリス」
「はい」
「私」
頭が痛い。
「生命神ミオだったんだ」
沈黙。
イリスの目から。
一滴。
涙が落ちた。
「はい」
花瓶が光った。
――生命神ミオ。
――世界分断に全神格を投入。
――神格消失。
――神体消失。
――魂魄崩壊率、九十九・九七パーセント。
――残存魂魄、世界境界を通過。
――第二世界へ落着。
――神格を有さないため、人間種として再構築。
《天城澪》
私はそれを見る。
「……死ななかった」
「はい」
「死ぬつもりだったのに」
「はい」
「たった〇・〇三パーセント?」
「それでも」
イリスが笑う。
「残ってくださった」
私は自分の手を見る。
神の手じゃない。
普通の。
人間の手。
「じゃあ」
怖かった。
「天城澪って何?」
「澪様です」
「そうじゃなくて」
「同じです」
イリスは迷わなかった。
「生命神ミオが死に」
私の手を握る。
「その魂の僅かな欠片が、人間として生まれ直した」
「……」
「あなた様はミオ様の偽物でも、残り物でもございません」
静かに。
「あなた様は、天城澪です」
涙が落ちた。
「私、あなたのことほとんど覚えてない」
イリスの瞳が揺れる。
「構いません」
「千年も探したのに?」
「はい」
「なんで」
「私は」
少しだけ。
声が震える。
「もう一度お仕えするために探したのではございません」
「じゃあ何で?」
「知りたかったのです」
イリスが笑った。
「あなた様が、本当に死んでしまったのか」
「……」
「それとも」
涙が落ちる。
「どこかで、生きておられるのか」
私は。
イリスを抱きしめた。
身体が硬直する。
「澪様?」
「ごめん」
「謝らないでください」
「でも」
「生きていてくださった」
ゆっくり。
イリスの腕が背中へ回る。
「それだけで」
強く。
「千年など、どうでもよくなりました」
◇
花瓶が光った。
二輪の花の隣。
新しい芽。
茎。
蕾。
淡い金色の花が咲く。
――第三花、開花条件達成。
――己の終焉を知覚。
――己の誕生を知覚。
――神としての死。
――人としての生。
――双方を自己として受容。
――第三花。
――《誕生》。
《三/九》
そして。
《第三門――王都アルヴェリア》
私は涙を拭った。
「行かなきゃね」
「はい」
立ち上がる。
その前に。
「イリス」
「はい?」
「こっち来て」
スマホを取り出す。
「またですか?」
「また」
インカメラ。
二人が映る。
泣いたせいで目が赤い。
「ひどい顔」
「申し訳ございません」
「だから何で謝るの」
私は少し笑う。
「撮るよ」
「今ですか?」
「今だから」
シャッターを押した。
一枚。
泣いた後の私。
泣いた後のイリス。
それでも。
二人とも少し笑っている。
「これも」
イリスが画面を見る。
「消さないでくださいませ」
「うん」
スマホをしまう。
私たちは湖底を出た。
アルヴェリアへ向かう。
しばらく歩いてから思い出した。
「そういえば」
「はい」
「アルヴェリアって、何の神を信仰してるの?」
イリスの口元が僅かに上がった。
「九柱すべてを祀っております」
「九柱?」
「千年前、この世界を支配していた神々です」
「私も?」
「もちろん」
嫌な予感。
「王都の大神殿には、生命神ミオの神像がございます」
「……」
「王族も毎朝祈りを捧げております」
「……」
「そのご本人を」
「言わなくていい」
「魔力ゼロの役立たずと断じ」
「イリス」
「銀貨三枚で」
「楽しんでるでしょ」
「国外へ追放したわけですが」
「絶対楽しんでるよね?」
「滅相もございません」
黒炎が出ている。
「燃やすの禁止だからね」
「何をでしょう」
「王城」
「……」
「神殿も」
「……」
「返事」
「承知いたしました」
怪しい。
ものすごく怪しい。
私はため息をついた。
ただ。
少しだけ。
本当に少しだけ。
アルヴェリアへ戻るのが楽しみになっていた。




