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まあ色々と立て込んだ事情がありまして

 翌日。はじめと愛美は、朝食を済ませ一休みすると、はじめが倒れていた場所に赴いた。無論、先日その周辺を調べて何もなかった訳であるから、この日の捜索は目安を別のものにして行う。その目安とは、


「自分が、倒れる前に歩いてきたコースを逆さにたどってみる」


 というものであった。


 はじめも空腹で倒れる前、もはや意識が朦朧としていて前後はまったく記憶から抜け落ちているが、途中までなら覚えている。その、はじめが移動した記憶があるところまでと、愛美の地元人としての地理感を活用して、意識が朦朧としていた時のはじめが、白夜山中で倒れたところまでのコースを推測してみるのだ。


 はじめが覚えているのは、電車路線沿いの道なりに歩いていたということだ。だが、暁駅を見た記憶はない。


 はじめが記憶している最後の駅名を愛美に告げると、それは暁町に一本だけ通っている電車路線の、暁駅から二つ前の駅名だという返事が戻ってきた。つまり何駅か前から、すでに彼の意識は現実から幻夢へと旅立ちはじめていたということになる。


 とりあえず直線コースを想定して、愛美ははじめを率先して彼が最後に覚えている駅に向けて歩きだした。距離的には相当あるらしく、帰りの足を電車に変えて、ようやく今日一日で帰ってこれるというほどのものらしい。


 都心と違い、ここら一帯は一駅間の距離が長いのである。


「まあ、それで二、三駅分の距離なら仕方ないんだろうけど」


 丁寧な愛美の説明に、はじめはこれから歩く距離を想像し、ため息をついた。


「……じゃあ、諦めますか?」


 愛美が、遠慮がちながらはっきりとそう言った。驚いて、はじめが愛美の方に振り向く。そこには、いまだに見たことがない、思い詰めたような真摯な瞳が自分に向けられていた。 昨日、愛美の身の上話を聞いた後、愛美が言いかけたことが思い出される。


 スポーツバックが、見つかったら――


 その後、愛美は何を言おうとしたのか。推測はさして難しくない。このおさげ髪の少女は、多分、見つかった後どうするのかをはじめに聞きたかったのだ。


 愛美の家には、捜し物であるスポーツバックが見つかるまでということで、かたじけなくも居候させてもらっている。逆に言えば、スポーツバックが見つかってしまえば、居候させてもらう理由はなくなる。彼は、吉川家から去るのだ。


 まだお互い深く知り合った訳ではないが、一目惚れしたと何はばかることなく言ってのけられる相手に去られるのは、やはり寂しいものなのではないかと、はじめは思う。


 だが、それでも……


「諦める訳にはいかない」


 強く、はじめは断言する。


「あれは、俺の大切なものだと思うから……」


 その発言に、愛美の目は激しく、大きく見開かれる。「女らしく」を前提に、包み隠しているはずの剛性が、彼女の心を染め上げ、それが声となって愛美の口から発せられる。


「大切なのか、大切じゃないのか、はっきりしてください。だと思うって、何ですか。自分自身のことじゃないですかっ!」


 問われたはじめは、言葉を詰まらせる。なまじ整った顔立ちだけに、愛美の怒った表情には迫力があった。


「大切なもの、だよ」


 言葉を噛み締めるように、はじめはゆっくりと言った。


「俺の、ほとんど唯一の持ち物なんだから」


「……本当に、それが全てですか?」


 愛美の目が、鋭い光を帯びてはじめを射貫く。何をこんなに、敵愾心剥き出しにされねばならないのか、はじめには理解できなかった。


「中身は剣道道具だっておっしゃってましたけど……それは、はじめさんのものですか?」


「……どうしてそんなことを聞くんだ?」


 不思議に感じて、はじめは愛美の視線から目をそらさず、まっこうから受け止めた。


「答えてください、はじめさん」


 その愛美の視線は、直情的だった。心のゆとりがまるでない、だがだからこそ何の交じりっけもない純粋な問いだった。


 愛美の問いを、第三者に話す義務はない、と退けるには、これまで愛美から受けた恩は大きすぎた。ここまで力を貸してもらって、第三者扱いすることはできない。


「……俺のものじゃ、ない」


 はじめは真実を語った。スポーツバックに入れてあった、剣道道具一式ははじめのものではない。それは、別の者の名が刻まれたものであった。


「では、誰のものなんですか?」


「『来』る『宮』殿の、『幸』福の『枝』と書いてあったから、多分キノミヤ・ユキエでいいと思う。名の方は、あるいはサチエかも知れないけど」


 まるで見知らぬ他人のことを説明するようなはじめの口調は、愛美の神経を逆撫でた。大切に持っていた品物の、所持者のことを知らぬなどということがありえるだろうか。


「その、来宮さんというのは、はじめさんとどういったご関係ですか」


 思ったことの大半を省き、聞きたいことを直接問う愛美。


「………」


 はじめは無言だった。それは、答えたくなかったからだろうか。


 いや……


「分からないんだ」


「……っ」


 愛美の顔が、紅潮する。無論、羞恥によるものではない。怒りのためであった。


「私、バカみたいです」


 ともすれば大きくなる声色を必死で押さえて、愛美は言った。


「山の中に倒れていたはじめさんを見て、不思議な出会いだなって思いました。顔立ちのいいはじめさんに、憧れました。そんなはじめさんが、倒れた時に無くしたという所持品を見つけたいって言って、それに協力できればと思ったのも嘘ではありません。けど……」


 言っている間、愛美は辛かった。ただ単に、自分の今の心情が辛いというだけではない。常日頃であれば、このような愚痴にも似た批判など、口にしないからだ。それは、良い悪いはともかく、自分の辛さを他人に公言することが、自らの美学に反するからである。


「その所持品が、はじめさんの恋人のものである、というなら、話は別です」


 スポーツバックに入っている剣道道具が、はじめのものであると思えばこそ、それが一目惚れした相手と別れることがはやまると知りつつ、探すのに協力したのだ。


 だが。


「今までのことは、勝手に協力した私自身の責任です。責めるつもりはありません」


 目と口を堅く切り結び、再び開いた時には決意を露にした。


「ですけど今後の協力は、はじめさんの方から私にお願いしてください。恋人の剣道道具を探すのを手伝ってくれ、と」


 痛烈な言い方である。言外で、「一目惚れしたと言っている女に、自分の恋人の品物探しをさせるんじゃない」と非難されたようなものだった。


 そこまで言われて、はじめも腹を据えた。


「でははっきり言おう」


 その剽悍な顔に、決意を込めて愛美を見据えるはじめ。その視線から愛美は、自分のそれをそらさない。他にどんな欠点があろうとも、吉川愛美という少女は、傷つくことを恐れて物事に向き合わないという弱さとは無縁のように見えた。


「記憶喪失の男が、自分の過去につながると思える唯一の品物を探す。その手伝いをしてほしい」


 数瞬の間、二人の間には風にそよぐ草木のささやき以外の全てが沈黙した。愛美は、とっさに相手の言った言葉の意味を図りかねる。


「記憶……喪失?」


「そうだ」


 はじめは頷く。自分は記憶喪失なのだ、と。


 自分の氏素姓が分からない。親類縁者がいるのかどうかも分からない。気がつけば、そこは病院だった。持っていたのは、その時来ていた衣服とわずかばかりの金銭が入ったサイフ、そして「来宮幸枝」という名が刻まれた剣道道具のみだったのだ、と。


「……でも、じゃあ田中はじめ、という名前は?」


 氏素姓が分からないのなら、名前を名乗れたのはおかしい。


「その場で、適当にでっちあげたんだ。最初は、記憶喪失であることを知られたくなかったから……」


「では、本当の名前は……」


「分からないんだ。だから、今まで通りはじめでいい」


 よくある姓、ありがちな名。それらをくっつけて、田中はじめにしたのだという。


「どうして、名前を偽ったんですか?」


「俺は、病院から逃げ出してきたんだよ。記憶喪失の旅人なんて、ばれたら一発で病院に連れ戻される。そう思ったからさ」


 現実問題として、自分の治療費も払えぬ、親類縁者に連絡もできぬ逃亡者を、病院側が探すかどうかは分からない。だが、病院側がぜひにでも治療費を欲しがれば、警察などに連絡し、はじめの氏素姓を調べあげ、掛かった治療費を親類縁者の方に請求しようとするだろう。


「何故、病院から逃げ出したんです?」


 病院にい続ければ、自分の氏素姓も親類関係も、病院が調べてくれたかも知れない。そう思って、当然の質問を愛美はした。


「……何となく。病院にいても、自分の正体を知った時には、遅すぎることになっているような、そんな気がしたからさ」


「どうして、そう感じたんですか?」


「どうして、と言われても……直感、としか言いようがない」


 そのはじめの言い草に、愛美は眉をひそめた。


 だが、愛美は何も問わなかった。記憶喪失の話を聞き出せただけでも、前進だと思ったから。


 本当に記憶喪失なのかどうか、疑う余地は十分にある。だが、惚れた男の言うことを、今は何にもおいて信じよう。そう思い、愛美はそれ以上迷わなかった。


 もしそれが嘘であったとしても、再び問い正していけばいい。それだけのことでしか、愛美にはなかった。




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