大きな幼児
――話は再び、白夜の山中にて波人と愛美が対峙した後にまで進む。
人が地面に打ち倒される音が、山中にこだました。すでに三度目のことである。
全身が、打撲傷に疼く。どれほどの猛稽古を積み重ねた日よりも、激しく愛美の体力を削り取っていた。
「もうやめろ」
そんな愛美の頭上に、哀れみの籠もった声がかけられる。先刻の怒りや悲しみといった感情の渦は、霧散しているようだった。
だが、その言葉を受け入れられるほど、愛美の心は素直な作りにはなっていないらしい。「波人さんは間違っています……!」
取り落とした竹刀を握り直すと、泥だらけの服と擦り傷だらけの身体を、ゆっくりと起き上がらせる。それはまるで、壊れた機械仕掛けの人形のように、遅く、ぎこちなくしか少女の思いどおりに動かなかった。
「手術を受ければ助かるかも知れない貴方が、どうして黙って死ななければならないんですか!?」
「死にたいからさ」
そんな愛美の姿に、波人は寂しそうに微笑み、よどみなく言い切った。愛美としては、絶句するより他にない。
「……どうして? どうして死にたいなんて……」
「この世に、もう自分を愛してくれた人がいないから」
「……もしかして、それが……あの、剣道道具の……」
「来宮、幸枝。――俺の、幼なじみだった人だ」
「だからって……!」
愛美は顔を激しく左右に振った。そうすることで、まるでこの悪夢を振り払えおうとでもするかのように。
そして、そうしたところでこれが現実であることを思い知る。そしてそのことを思い知ることで、愛美は新たに口を開こうとした。
まだ、敗北ではない。まだ、自分の心は波人を好きで、波人の心臓が動いている。その間は、まだ自分は敗北していないと信じて。
――未だ、惚れたその男の本名すら、愛美は知らなかったけれど。
「だからって、自分も死ぬんですか!? そんなのは違う、絶対に違う!」
「なら、君が俺なら、どうする」
そんな、愛美の喉も詰まるような必死の説得に、波人は場違いなほど冷静だった。
「ど、どうするって……」
「心から好きだった人に死なれたら、君はどうする?」
相手の言わんとすることを理解する愛美。
「歯を……食いしばって……生きて……」
感情が高ぶり、身体がわななき、それでも愛美は、喉に力を込めて喋る。
「その人の分まで、生きてみせます!」
「できもしないことを、言うんだな」
冷ややかな波人の視線が、愛美に注がれる。目をそらさずに仁王立ちする愛美としては、その目に気づかない訳にはいかなかった。
その目線に、愛美は心がくじけそうになる。
恐怖に、ではない。波人のあまりの頑固さと、自分を見下しているとしか思えないその態度に、諦めが冷水となって恋の情熱を急速に冷却していく。
だが、愛美は冷えゆく情熱に、必死に薪をくべた。
「できます! 少なくとも、私ならそうやって生きて見せます!」
だから、あなたもそうやって生きてください――とまでは、愛美は言えなかった。言う必要はない筈だった。だが、波人が返した答えは、愛美の期待したものではなかった。
「じゃあ、俺が死んだら、君はどうする」
「え……」
呆気に取られる愛美。波人の故人への想いを理解しようとはしたが、自分自身の身に置き換えて想像するということはしていなかったので、意表を突かれた思いだった。
「平然としていられるようなら、それは本当の恋じゃない」
愛美の葛藤をよそに、波人は言葉を続けた。
「自分も死にたいと思うなら、君はいま言った言葉を守れない。君は……」
一呼吸の間を置いて、愛美を見る波人。
「君は、自分の知らないものを、想像だけで無責任に論じているだけだ」
言い返せなかった。
何故なら、確かに眼前の剽悍な若者の言う通り、彼女自身に最愛の異性を失うという経験をしたことはなかったのだから。
だが、だからといって、彼は死ぬというのか。
だからといって彼は、こうやって自分を見下すというのか。
(……違う)
そんなものは違う。断じて違う。
ゆっくりと、口を開いて言葉を紡ぐ。剣士が、戦うために鞘から刀を抜くがごとく。
「……苦しくても、それを耐えようとすることはできます」
愛しかった人との思い出が大切なことなど、言われなくても分かっている。
「死にたくても、歯を食いしばって約束を守ろうとすることはできます」
だが、だからといって後を追って死ぬなど、断じて違う。
「知っててそれから逃げようとしている人に、軽蔑されるいわれはありません」
そんなことを、きっと来宮さんという人は望んでいない――などと、この際言うまい。
「波人さんは臆病者です」
生きていれば良いこともある、などとも、口にはすまい。
「お医者様をいやがった理由も、案外最初に感じた注射がイヤとか、そんなところじゃないですか」
ましてや、生命を粗末にしてはいけない、などという綺麗事は、口が裂けても。
「私の想いを見ないふりするあなたに、私を非難する資格はありません」
だが、そんなに。――残され、死なれることがそれだけ辛いと、分かっているなら。
「助かる見込みが、少しでもあるというのに」
どうして、死のうとする。
「愛する人に残される悲しみを、誰より知っていながら……」
どうして、生きようとしてくれない。
「今、私に同じ思いをさせようとしている」
どうして、今――自分の目の前で、死のうとすることなどできる!?
「そんな……波人さんに、私を……」
心に宿る、そんな気持ち。
「非難……なんて……」
心に宿る、そんな想いを、白銀の刃に変えて。
「非難なんて、させませんっ」
波人に打ち下ろすように、波人を睨みつける。
「させてたまるものですかっ」
ひとつだけ。
どうしても、愛美は我慢しきれなかったものがある。破ってしまったものが。
恋人を失った日、母が死んだ日にすら破らなかったもの。
――どれほどの苦難にも泣くことなかれという、父の言葉。その、教えを。
……それから、どれほどの刺突と打撃が愛美の身体に刻み込まれたことだろう。
波人は、もはや容赦はしなかった。手加減のない重みのある一撃が、愛美のありとあらゆる部分を打ちのめす。
せめてもの情けか。唯一、女の生命である顔にだけは、打ち込んでいなかったけれど。
全身これくまなく晴れ上がり、熱を帯び、意識が朦朧としている。何のためにここにいるのか、何のために竹刀を握っているのか。自分が今、青年を見ているのか桜を見ているのか、闇夜の黒を見ているのかも、愛美は分からなくなっていた。
そして――もう、何度目かも分からない、愛美が地面に倒れる音が、桜の樹木の間に響き渡る。そして、今度こそ愛美は立ち上がれないように見受けられた。
それを見て、肩で息をしていた波人が、倒れそうになる己の身体を杖代わりに竹刀を使って支えた。愛美とて素人ではなく、それを打ちのめすとなれば、打ちのめす方も無傷では済まないし体力も使う。まして波人は健康体ではなく、しかも先刻、柳沢孝治と死闘といって差し支えない試合を行い、頭部に並ならぬ怪我を負っている。その身体に大きな負担が掛かっていた。実際、いま波人は顔面蒼白で全身から汗が噴き出ていた。
ふらつく身体をなんとか整え、倒れた愛美に背を向ける。白夜山の高所を目指して、波人は足を動かそうとした。
だが、それはかなわなかった。自分の後ろで、愛美が立ち上がる音を聞いたために。
「……もう立つな」
振り返ることなく、しかし無視することもできず波人は、もう何度言ったかも覚えていない、同じ言葉を愛美に掛けた。
「勝てないことはもう分かったろう」
だが波人は、そう言っても愛美が後ろで竹刀を構え直す竹の音が聞こえた。
「……まだ……です……」
細い、切れ切れの声が波人の耳に届く。
「私は……ま……だ……」
そんな愛美の声に、倒れる音が後に続く。
そして白夜の山中に、その日何度目かの静寂が訪れた。
言い知れない虚無感が、波人の心に飛来した。意地の、限界だった。
――俺は、何をしているんだ。
今、自分を気にかけ生命掛けで止めてくれる人を打ち倒して。
もう、いなくなってしまった人の幻にすがって、投身自殺を図ろうとする。
現実に心折られ、泣いてダダをこね周囲に迷惑しか掛けられない自分に、死ぬ勇気などないということすら、認められずに。
(どうして俺は、生きている)
孤児という境遇に、受け入れてくれる人の少なさに、受け入れてくれた人の喪失に。耐える強さを持つことができないくらいなら、そんな自分はいらない。
なのに今、自分はこうして生きている。最初の時から、それはあったのだ。自分の中に、確かに。
(死ぬことなんかできない弱さが……)
確実に死ぬのなら、他に方法はいくらでもあった。なのに自分は、投身を選んだ。それは、万が一にも、生き残る可能性があったからではなかったか。首に、頭に、心臓に刃物を突き立てなかったのは、それが生存することの望みが皆無だったからではなかったか。
確実に死ぬのではなく、せめて死のうとすることで、この世ならぬどこかで見ている来宮幸枝に、当てつけようとしたのではなかったか。
自分が死のうとしているのは、全て君の責任だ、と。
死んでほしくないなら、今すぐ自分の前に現れろ、と。
そう思い、崖の前に立って、――飛び降りた。
二度と少女の姿を見ることができないという現実を。迫りくる病の現実から目をそらすために死のうという、愚かしい矛盾をすら、認めることができずに。
そんなに弱い自分が、どうして。
どうして、本当に死ぬ勇気など、持っているだろう――
(周囲に迷惑をかけ、スネて自分でそれを改善しようとすらしない……そういう行いは、大人ではありません。幼児のすることです)
愛美の言葉が、脳裏に還る。――彼女の言うとおりだ。
(幼児だ……母親に、父親に……周りの大人にダダをこねる、俺は幼児だ)
波人の目頭が、燃えるように熱くなった。
桜の吹雪く山の中で。
自分の弱さが、自分の愚かさが。
自分を想ってくれる人の倒れた姿を眺めながら。
兵藤波人は、どうしようもないくらい、自分がイヤになった。




