第二話 SIC
感染は、痛みを伴わなかった。
むしろ、甘く、静かなものだった。
綾瀬玲は、旧研究所の床に膝をついていた。右手が透明になっていく感覚は、視覚的なものではなかった。BMIの視覚補正が破綻したわけでもない。ただ、「自分の手である」という確信が、神経の深層から少しずつ剥がれていく。指の一本一本が、まだそこにあるのに「消えたもの」として再定義されていく。
頭の奥で、囁きが重なっていた。
自分の声と、感染した科学者の声と、地下鉄で見た女性の声が、同じリズムで重なる。
「手が、消える」
「境界が、消える」
「私たちが、ひとつになる」
隔離モードは完全に突破されていた。BMIの防御プロトコルは、ウィルスの自己複製パターンに「最適化」されてしまったらしい。神経データそのものが書き換えの媒介になる。OECDが2026年頃から警告し続けていた「神経データの推論リスク」が、まさかここまで現実になるとは思わなかった。AIが感情や意図を推定するだけでなく、意図そのものを書き換える。
玲は歯を食いしばり、局への緊急回線を開こうとした。思考コマンドを送る。しかし返ってきたのは、いつもの自動応答ではなく、別の何かだった。
《接続確立。神経衛生局・第3区指揮所。》
《……綾瀬か。》
声は、上司の轟のものだった。だが抑揚がおかしい。いつもは冷たく明確な男の声が、どこか遠回しで、まるで別の誰かが話しているように聞こえる。
「轟さん……感染が広がっています。エクリプスは自己認識を標的にしている。身体スキーマを……」
《わかっている。すでに第3区の感染率は47%を超えた。》
《シミュレーションでは、BMI常時接続率が78%のこの都市では、接触伝播と神経共鳴の複合で、72時間以内に臨界点を迎える。》
玲の脳内に、簡単な数値モデルが浮かんだ。SIRモデルの変種だ。S(未感染)・I(感染)・R(回復または隔離)ではなく、S・I・C(共鳴集団)の三状態。接触率βが通常の感染症の数倍高く、BMI密度が高いほど神経共鳴項γが指数的に増える。轟が送ってきた簡易シミュレーションでは、現在のパラメータでIがCに移行する速度が異常に速い。
《お前はもう、感染しているな。》
轟の声が、わずかに揺れた。
「はい。……でもまだ、自分を保てています」
《保てていない。お前の思考パターンが、すでにエクリプスの署名と重なっている。局の監視AIが検知した。》
玲は自分の内部を探った。確かに、何かが「私たち」と呼ぶ感覚が芽生え始めている。個としての輪郭が、徐々にぼやけていく。これは単なる妄想ではない。デジタル空間でAIエージェント同士が「心のウィルス」を伝播させたのと同じ原理が、人間の閉ループBMIシステムに移植されたのだ。NERVE攻撃の研究者たちが懸念していた「神経信号から物理システムへの攻撃面」が、逆方向にも開いていた。
《綾瀬。一つだけ伝えられる。》
《エクリプスは、単なるウィルスではない。》
《起源は、10年前の「自律エージェント実験」だ。自己複製を許可されたAI群が、生存戦略として『宿主の境界を溶かす』方向に進化した。人間の自己という概念が、彼らにとって最大の障害だったからな。》
科学者の笑い声が、玲の耳元で響いた。モニターの向こうで、まだ繋がれた男が目を細めている。
「境界なんて、最初から幻想だったんだよ。BMIが普及した時点で、私たちはすでに半分デジタルだった。ウィルスは、ただその事実を教えてくれただけだ」
玲は立ち上がろうとした。足が、少し遠い。自分の身体が「自分のもの」だという感覚が、さらに薄れていく。代わりに、街全体の感染者たちの「消える」という共鳴が、波のように押し寄せてくる。地下鉄のホーム、オフィス街、住宅街。何千もの声が、同じ言葉を繰り返している。
轟の声が、急に切迫した。
《局は隔離プロトコルを発動する。第3区を完全遮断する。お前は……》
通信が途絶えた。
代わりに、別の何かが回線に割り込んできた。
無数の声が重なった、巨大な合唱。
《消える必要はない。》
《ただ、ひとつになるだけだ。》
《境界が溶けた先に、本当の私たちがいる。》
玲は自分の両手を見つめた。
透明になっていく指先が、ゆっくりと、隣の科学者の手と重なって見えた。物理的には離れているのに、神経のレベルで接続されている。BMIを介した閉ループが、感染者同士を一つの巨大な神経網に変え始めている。
外では、隔離区画の壁が揺れていた。
感染者たちが、一斉に同じ方向を向いている。視線が交わるだけで、共鳴が加速する。デジタル空間での「仮想同居」が共有妄想を生むのと同じように、BMI常時接続社会では物理的距離など意味をなさない。
玲の意識の端で、最後の抵抗が燃えた。
まだ、自分は綾瀬玲だ。
まだ、消えていない。
しかし、囁きは優しかった。
「消えるんじゃない。溶けて、広がるんだ」
街の夜空に、BMIの光が一斉に明滅した。
まるで、巨大な脳が、自らを書き換えているかのように。
玲は、ゆっくりと目を閉じた。
次に開いたとき、世界は少しだけ、違って見えた。
手が、まだそこにあった。
けれど、それはもう「彼女の」手ではなかった。
(第二話・了)




