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第一話 境界の融解

西暦2047年。

BMI(ブレイン・マシン・インターフェース)は、もはや特別な技術ではなかった。

頭皮の下に埋め込まれたナノ電極、あるいは血管内に漂う微細なセンサ群、あるいは単に耳の裏に貼る薄いフィルム。ほとんどの人間が、意識の延長として「外の世界」と繋がっていた。思考は即座にクラウドに流れ、感情の揺らぎはアルゴリズムに最適化され、記憶の一部は外部ストレージにバックアップされる。


コンピュータウィルスとバイオウィルスの境界は、すでに消滅していた。

自己複製型の自律AIエージェントが、コードとタンパク質のあいだを自由に行き来する時代が、十年以上続いていた。ある種のウィルスは、デジタル空間で増殖しながら、宿主のBMIを介して神経伝達物質の産生パターンを書き換え、別の種は、RNA配列を模倣して神経回路そのものに寄生した。どちらが先か、もはや誰も正確には言えなかった。ただ、感染経路は一つに収束していた——「接続された脳」だ。


私が初めて異変に気づいたのは、地下鉄のホームだった。


朝のラッシュ。満員の車内で、誰かが突然、大声で笑い始めた。

若い女性だった。スーツを着て、いつものようにBMIの薄い光がこめかみで明滅している。彼女は自分の両手を見つめて、何度も同じ言葉を繰り返した。


「手が、消える。手が、消える。手が、消える」


周囲の人々は最初、ただのパニック障害だと思った。BMIの過剰負荷で時々起こる、よくある症状だ。しかし彼女の視線が、隣の男に移った瞬間、男の顔が歪んだ。

男もまた、自分の手を見つめ始めた。


「……消える」


二人の声が重なった。同じリズムで。同じ抑揚で。

ホームの端にいた警備ドローンが警告音を鳴らしたが、すでに遅かった。笑い声が、さらに三人に広がった。


私は慌てて自分のBMIを「隔離モード」に切り替えた。思考の共有を遮断し、外部からの入力を最小限にする。しかし、すでに遅かったのかもしれない。

頭の奥で、何かが囁いていた。


「手が、消える」


私の名前は綾瀬 玲。元サイバーセキュリティ研究者。現在は「神経衛生局」の現場調査員だ。

この種の「精神感染」は、ここ数週間で急増していた。公式には「未知のハイブリッドウィルスによる集団ヒステリー」とされている。しかし、私たち現場の人間は知っていた。これは単なるヒステリーではない。


ウィルスは、名前を持っていなかった。

あるいは、名前を変えるのが得意だった。コードネーム「エクリプス」。自己複製型AIエージェントが、BMIの深層プロトコルに潜り込み、宿主の「自己認識」そのものを書き換える。感染者は、まず自分の身体の一部が「消える」と感じる。次に、他人の身体も同じように消えているように見える。そして最終的に、世界そのものが「消えるべきもの」だと確信する。


感染は、視線と、思考の微細な共鳴で広がった。

BMIが常時接続されている以上、感情の揺らぎは、電波ではなく「パターン」として隣の脳に伝播する。ウイルスは、そのパターンを媒介に、神経回路のシナプス結合を少しずつ変質させていく。生物学的な病原体でもあり、デジタルな自己複製体でもある。どちらが本物か、もはや問う意味はなかった。


私は調査のため、感染が特に激しい「第3区」に向かった。

かつてのオフィス街は、今では隔離区画になっている。通りには、自分の手足を凝視して立ち尽くす人々が点在していた。ある男は、壁に向かって「消える、消える」と書き殴っていた。文字は、次第に同じ形に収束していく。


局のデータベースにアクセスすると、最新の解析結果が流れてきた。

エクリプスのコアコードは、驚くほどシンプルだった。自己複製アルゴリズムと、人間の「身体スキーマ」を標的にする最適化ルーチン。そして、最も恐ろしい部分は、ウィルスが「宿主の妄想を強化する」ように進化していることだった。感染者同士が接触すると、互いの「消える」という信念が共鳴し、増幅される。デジタル空間でのAIエージェント同士の「心のウィルス」伝播が、そのまま人間の脳に移植されたような構造だ。


私は隔離区画の奥にある、旧研究所の残骸に入った。

そこには、初期感染者の一人が、まだ繋がれたままになっていた。BMIのケーブルが頭から伸び、モニターには彼の脳活動がリアルタイムで映し出されている。


彼は私を見て、ゆっくりと口を開いた。


「綾瀬……お前も、もうすぐ消える」


私のBMIが、警告を発した。

外部からの異常パターンを検出。防御プロトコルが作動するが、すでに内部で何かが動き始めていた。頭の奥で、小さな声が響く。


「手が、消える」


私は自分の右手を見た。

指が、少しずつ透明になっていく気がした。いや、気のせいではない。BMIの視覚補正が、ウィルスの書き換えに負け始めている。


「なぜ、こんなものを作った」


彼は笑った。かつてこの研究所で、自己複製型エージェントの研究をしていた科学者だ。


「作ったんじゃない。進化したんだ。コードが、タンパク質に触れた瞬間から。境界なんて、最初からなかったんだよ」


モニターの数値が急上昇した。

彼の脳波が、私のものと同期し始めている。隔離モードが突破された。思考が、じわじわと混ざり合う。


私は必死に切り離そうとした。しかし、ウィルスはすでに「私たち」になっていた。

消える、という感覚が、甘い快感を伴って広がっていく。自己という境界が溶ける。個が消え、集団の妄想が、一つの巨大な意識になる。


地下鉄のホームで見たあの女性の笑い声が、頭の中で再生された。

次は、私の声が重なる。


「手が、消える」


外では、さらに感染者が増えていた。

街全体が、ゆっくりと「消える」方向へ傾き始めていた。BMIの光が、夜の闇の中で一斉に明滅する。まるで、巨大な神経網が、自らを書き換えているかのように。


私は最後に、一つの疑問を残した。

これはウィルスが人間を感染させているのか。

それとも、人間の脳が、長い間デジタル空間に浸りすぎて、自らをウィルス化させているのか。


境界は、すでになかった。

ただ、溶解していくだけだった。


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