ラッキースケベ審議会、開廷。
コンプライアンスという言葉がある。
法令遵守を意味する言葉である。ただし単に法令を守ればよい、というだけでなく、社会規範を守り、公平かつ公正な行動をとることも含まれる。
それゆえに厳格にコンプライアンスを守ることのハードルは相当に高く、同時に高度な判断が求められる。
そしてコンプライアンス違反は甚大な不利益をもたらす。社会的信用の失墜、巨額の損害賠償、個人の場合には懲戒解雇や刑事罰の対象ともなりうる。
重要なことだが、コンプライアンスに例外はないことを忘れてはならぬ。たとえそれがどんなに甘く蠱惑的なラブコメの局面においても、である。
僕は鳳来利修。
この春から鳳凰高校に入学する高校一年生である。鳳凰高校は県内でも人気のある高校である。ただし愛知県でも指折りの田舎にある高校でもある。そのため交通公共機関での通勤は絶望的である。
生徒たちがどうやって通っているかって?この高校は一部の通学が可能な生徒を除き、原則全寮制なのである。
そんな田舎の高校だが県内有数の進学校ということもあって、家族は僕が鳳凰高校に進学することについてことさらに反対しなかった。ずっと以前から実家を出たかった僕にとって全寮制ということがこの高校を選択した理由のひとつになった。
実はもう一つ鳳凰高校に進学したかった理由があるのだがそれはまたいずれ説明するとしよう。
今日、2030年4月3日。僕の目の前には鳳凰高校の寮舎があった。
3日後の入学式に備えてトウキョウを出たのが今朝の7時。現在の時刻は12時を少し過ぎたところ。新幹線から在来線を乗り継ぎ、最後はタクシーに揺られておよそ5時間もかかったことになる。
「失礼します。」
学生寮の管理人さんに案内されて寮の一室に入るがそこには誰もいない。事前に聞いた話では2名で一部屋を利用することになるそうなので、同居人がいるはずなのだが。
部屋の様子からすると寮の同居人はすでに引っ越し作業を終えているようである。どこかに出かけているのだろうか。
管理人さんは僕に一言「じゃぁ」と言い残してまた管理室へ戻っていってしまった。
事前に送った荷物の量は大したものではない。着替えと何冊かの本。与えられた荷物のスペースへの収納作業には大した時間もかからないだろう。僕は荷物の片づけを後回しにして寮の外へ散歩に出かけることにした。
鳳凰高校にやってきたのは2カ月前の受験の時以来である。周りを山に囲まれ、わずかに民家が点在している。学校に隣接する寮の入り口から校外にでると車が2台すれ違えるかどうかの細い道が目の前を横切っている。これが鳳凰高校周辺の主要道路のようである。
僕は学校の寮を出てあてもなく10分ほど歩いたところで、道路わきにレトロな喫茶店があるのを見つけた。これまでなら喫茶店があったからといって気に留めることも無かっただろう。だが、この日は間もなく高校生になるのだという気分もあった。高校生にもなったからには喫茶店くらい入れるようになっておくべきだろう、という気持ちから入店を決意する。
築年数の古い平屋の喫茶店である。店舗の前に据え付けられた看板の上ではオレンジ色の回転灯がせわしなくまわり続けている。看板には喫茶傘すぎと書かれている。
道路に面した古いドアを勇気と共に押して店内に入る。
時刻はお昼時を少し回ったくらいなのだが、僕のほかにお客はいないようである。店内に入ってしばらくすると店の奥から人が出てくる気配がした。
「いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。」
店の奥から出てきたのは形容しがたいほど素敵なお姉さんだった。気のせいでなければ背中から後光が差している。こんな田舎の小さな喫茶店にこんな素敵な女性がいるとは誰が想像し得ただろうか。
果たしてここは本当に喫茶店だったのだろうか、高校生がぶらりと入って良いお店だったのだろうか。珈琲一杯で恐ろしい値段を吹っ掛けられるのではないだろうか。僕はいろんな想像にまとわりつかれながら、恐る恐るカウンター席に座る。
席につくかつかないかのうちにお姉さんから声を掛けられる。
「ねぇ、君、新入生?」
自分が声をかけられていると分かるまでに数秒かかった。
「えっ、なんでわかったんですか?」
我ながらまの抜けた反応である。
「そんなのすぐわかるよ。この時期1人で出歩いてるのはだいたい鳳凰高校の新入生だからね。私も鳳凰高校卒業だし。」
弾けるような笑顔でお水とおしぼりを渡してくれるお姉さんの顔からなぜか目が離せない。
・・・僕はこの人に恋をしてしまったかもしれない。理由なんてない。
え、これまでにも恋をしたことがあるのかって?愚問である。無論そんな経験はない。陰キャだとか容姿の問題だとか色々な理由はあるがもっと大きな理由があり、僕には未だ年齢=彼女いない歴である。その大きな理由とは・・・
その時、カウンターの奥からドアが勢いよく閉まる音が聞こえ、同時に元気な声が店内に響いた。お店の裏口からの来訪者であろうか?
「お姉ちゃん、何か食べるものない?ピザトースト作ってくれない?」
「杏那!お店に入ってくる時は静かにっていつも言ってるでしょ?」
「ごめん、でもお客なんていつもいないじゃん。」
声と同時にお店のカウンター奥から現れたのは綺麗な髪色とお姉さんにも負けないスタイルと美貌とちょっとだけ幼さを残した元気いっぱいの少女である。
杏那と呼ばれた元気な女の子はそのまま店内に入り込むと、僕のすぐ隣のカウンターに腰掛ける。なぜこんなに席が空いているのにすぐ隣に座るのであろうか?
それになんというか距離感が近い、近すぎる。ほとんど体が接触せんばかりの距離感である。これはいささかの問題があると言わざるをえない。
「お姉ちゃん、ピザトーストはピーマン多めね。」
「まだ作るともなんとも言ってないでしょ。それより手を洗ってきたんでしょうね。」
「そんなの当たり前じゃん。飲食店の娘を侮らないでよね。」
僕の目の前で繰り広げられる自然なコミュニケーション。元気少女がお姉さんのことをお姉ちゃんと呼んでいることからすれば2人は姉妹ということになる。
「うわっ!君だれ?お姉ちゃん!不審者がいる!警察呼ばないと!」
しっかりカウンターに座り込んでからたっぷり1分は経った頃、突然指を刺され、不審者扱いされる。理不尽である。
「お客さんだよ!」
「でも突然現れるなんておかしくない?」
「さっきからずっとそこにいたってば!」
「え~、本当?ところで君も高校生?ひょっとして鳳凰高校生?」
二人のやり取りにあっけに取られていると質問の矛先が突如こちらに向けられた。
「そういえばまだ名前も聞いてなかったね、君の名前は?」
カウンターの中からお姉さんが僕に問いかける。
「あ、鳳来利修です。どうも。」
どうにか名前だけは応えられたが唐突な対応でまだ心臓の動悸が収まらない。
「へぇ!利修くんっていうのか。いい名前じゃん。私は幸子。赤城幸子。こっちは妹の杏那。杏那も君と同じ鳳凰高校の一年生なんだよ。同じクラスになるかもしれないね。」
「え~、本当に鳳凰高校生なんだ!偶然だね。」
幸子さんに杏那さん、素敵なお姉さんの名前は幸子さんというのか。運命的な一目惚れの相手と自然な会話。なんという幸せだろう。じんわりと心が幸せに満ちていくのを感じる。
そうこうしているうちに幸子さんが僕の目の前にホットコーヒーを差し出す。立ち上るコーヒーの香りが鼻腔を刺激し、視覚からも嗅覚からも多幸感が僕の心を満たしていく。
トンッ、トンッ
しかし同時に先ほどから大きな問題が起きている。杏那さんと呼ばれる女性の距離感である。さっきから何度も肩が触れ合っているのだ。喫茶店のカウンター席にはもともと十分な席どうしの距離が保たれていたはずである。しかしこのわずかな会話の間にこの女子生徒は徐々にこちらににじり寄って来ているのである。
別に何か明確な用事があるわけでもなく、大した会話をしているわけでもない。しかしなぜか肩が触れるほどの距離感。わずかに女子生徒の肩が触れるその度に僕の脳みそは緊急停止信号を発信しっぱなしである。
可愛い女の子と肩が触れ合ってなんの問題があるのかって?賢明なる読者諸兄はそう思われるかもしれない。
大有りである。コンプライアンス的によろしくない。18歳未満の男女がみだりに身体的接触を行うことは社会通念的に適切ではない。みだりにコンプライアンスに違反したものは手厳しい社会的な制裁をその身を持って受けることになるであろう。
「ねぇ、りっくん?」
杏那さんという女性が誰かに向かって呼びかけている。りっくん?誰のことだ?少なくとも僕のことではあるまいが、見渡す限り店内には誰もいない。いささか不可解である。
「ねぇ、りっくんってば。」
ん?まさかりっくんって僕のことか?
自分のことを呼ばれていることに気が付くまでに数十秒を要した。
「そうだよ。利修くんでしょ?だからりっくん。」
そう言って杏那さんは僕の肩を指先でつついてくる。
「はひっ。何か?」
「ねえ、さっきから何を真剣な顔して考えてるの?」
「はひっ。いや、あの、その。」
お分かりだろうか。先にも述べたが僕はこれまでの人生において女性との接点がほとんどなかった。そのため女性と会話するだけでもひどく緊張するのである。まして外見的に見目麗しき女子生徒に、つんつんなどされた日には心臓がいくつあっても持たない。
しかしこの杏那さんという少女、初対面でいきなりのあだ名呼びとか、むやみな身体的接触とか先ほどから社会通念に照らしていささか問題の多い行動が目立つようである。率直に表現すれば他人との距離感がバグっている。
「ねえってば。」
「はひっ。いや、あの、その。理由のない身体的接触はコンプライアンス的にちょっと。」
「へ?コンピューター?なんのこと?」
「いえ、コンプライアンスと言いますか。ゴニョゴニョ。」
「コンプライアンスだかコンピュータだか知らないけどもっと美味しそうにコーヒー飲んだらどうですか?せっかくお姉ちゃんが入れた自慢のコーヒーなんだから!」
僕の脳みそ内ではすでに情報処理量の限界を迎えつつあったが、脳内の心象風景はとある厳かな会議室の情景を投影していた。
ラッキースケベ審議会。通称LSC(Lucky Sukebe Council)である。
脳内の審議場には漆黒のスーツに身を包んだ壮年の男性が11名。そして対照的な純白のローブをまとった議長と思しき老人が1名。
本日のLSCの議論のテーマは見知らぬ女子高生からツンツンされながら楽しげにあだ名で呼ばれることは有罪たるラッキースケベに該当するか、無罪か、というものである。
重々しい円卓を囲んだ男たちの中から一人の審議官が不機嫌そうにいう。
審議官ユウザイ氏
「ギルティ。青少年保護条例に照らして、美少女と都合よく仲良くなるなど現実にはありえない。」
その発言を受け、別の審議官が信じられないものを見るような目つきでいう。
審議官ムザイ氏
「ノットギルティ。現実に起きていることを否定しても何も始まらない。」
審議官ユウザイ氏
「倫理に照らして起こりうるべからざる事態であるかどうかが問題だ。身の丈というものを考えるべきだ。」
審議官ムザイ氏
「現実に起きているのは他人と会話しているという事実だけだ。身体的接触にそれ以外の意図が無いのは明確だ!」
審議官ユウザイ氏
「ラッキースケベは人生を崩壊させる!」
審議官ムザイ氏
「女性に指先で触れられることの何がラッキースケベか。どんな性癖だ!」
LSCの議論は白熱しとてもすぐに結論をみそうにもない。
「ねぇ、りっくん?本当に大丈夫なの?」
杏那さんが再び僕の肩を細く白い美しい指でつんつんする。
「はひっ!これ以上の接触はコンプライアンス、条例的に問題が!」
「はぁ?接触?接触なんてしてないじゃん。」
「ゆ、指が先ほどから僕の体に!」
「へ、指?」
「そうです。理由のない身体的接触は倫理的にも問題がっ!」
「何言ってるの?接触って言ったらこういうことを言うんじゃないの?」
「ほら、こんなふうに。」
そういうと杏那さんは僕の腕をおもむろに掴むとぐいっと体に引きつけ、そのいやがおうにも目立つ二つの膨らみに挟み込んだ。
何が起きたかわからずしばし呆然としていると、カウンターの中から絶叫。
「杏那!あんたお客さんに何してるの?すぐにやめなさい!」
幸子さんの声を聞いて今目の前で起きている現実に引き戻される。だが、その事象は僕の脳内情報処理量をはるかに凌駕していたようである。僕にできたのは瞬きしながら一つの言葉を繰り返す事だけだった。
「社会的死を確認しました。」
「利修くん、停止してるよ?」
幸子さんに言われて杏那さんもやりすぎに気がついたのかもしれない。そそくさと僕の腕を掴んだ両手を離すと、席を一つ開けて隣のカウンター席に座り直した。
「あの、ごめん。」
「いや、大丈夫というか、大丈夫すぎと言うか。色々終わっちゃったというか。」
「何それ。大丈夫なのか大丈夫じゃないのか分かんないんだけど。」
その頃、僕の脳内ではLSCの審議が一層激しく行われていた。あれほど紛糾していた議論が嘘のように議論は急速に一つの結論に向かおうとしていた。
審議官ユウザイ氏&ムザイ氏
「有罪。ラッキースケベは現実に起きたら確実に罪である。異論は認めない。」
脳内審議官たちから呵責のない宣告を受けた僕は、次に交番を見つけたら謹んで自首しようと想いながら目の前の2人の女性を見つめた。
改めて、二人ともとんでもない美人である。スタイルもいい。今日の出会いは運命の出会いと言っても過言ではないだろう。
しかしそのうち1名は僕の社会的生命を無造作に停止させた女性でもある。女性は恐ろしい。だが、なんと言ったらいいのか複雑な気持ちが蠢いている。
くそ、可愛いな。
しかし明らかに危険だ。
こうして僕の高校生活が始まる。
本日のコンプライアンスレポート
20xx年4月3日(金)
【事案名】
喫茶店における初対面女子生徒からの過度な距離接近、身体接触および無許可親密呼称付与事案
【事案の発生に至るまでの概要】
当方が喫茶店カウンター席に着席中、女子生徒が隣席に着座。その後、複数回にわたり肩部接触が発生。加えて、当方の同意なく「りっくん」という親密呼称が付与された。さらに最終的に、腕部を把持されたうえで胸部に接触する事態に至った。
【問題点】
・初対面にもかかわらず適切な対人距離が確保されていなかった
・本人の同意を得ない親密呼称の使用
・当方が状況に対し有効な回避行動を取れていない
・動揺により思考停止状態に陥った
【発生原因】
・相手方の距離感および呼称選択に関する認識不足
・当方の経験不足および耐性不足
・想定外の接触事象への準備不足
【再発防止策】
・着席時に安全距離の確保を徹底
・接触兆候を検知次第、速やかな離脱を実施
・親密呼称を受けた場合、速やかに正式名称への是正を要請
・精神的動揺時の呼吸法および思考整理訓練の導入
【総合判断】
限りなくアウトに近いグレー
【処分】
・本件は継続的な観察が必要な事案と判断
・関係者全員を監査対象として指定
・今後の接触状況については逐次記録・評価を行うものとする。
【備考】
対象となった女子生徒は極めて魅力的な女性であり、当方の判断に大きなバイアスがかかっている可能性がある点に留意されたい。
以上




