ノー スピーキング
短編二連
小柄な男子生徒が廊下を掃いていた。同じクラスの木村好佑だ。梯九が割り当てられている清掃場所は、位置を選べば好佑の姿がよく見えた。だからといっていつも見ている訳じゃない。梯九もこの場所を担当している他の生徒も常に観察することはなく、視界に入れば数十秒、そのうちに何か起こっても三分程度しか眺めたりしない。
ただ、確かに誰も彼もいい視線で見ている訳ではないのだから、質が悪いのには変わりないのかもしれない。
同じくクラスメイトである数人の男子が好佑の横を通る。一人が、わざとか偶然かは判らないが彼の使う箒に足をひっかけ、何か文句を言っている。「もっと道あけてよ」というのは聞こえた。
「……I can't」
小さく好佑が返したのは、英語だった。
男子達はそれに笑ってその場を去っていくが、梯九はとくに面白く感じることもなく、ただ「まただ」と思っただけだった。
「なー、幸也」
「何」
清掃終了の音楽が流れていた。生徒たちがそれぞれ教室に戻るために、廊下に川を作って流れていく。その流れから来た一人に、梯九は声を掛けた。
なんでかは知らないが、彼、飯代幸也は髪の色が薄い。二重でミルクのような肌の色をしていて、好佑よりよっぽど外国人っぽい、とよく考える。今日も同じことを思いながら梯九は続けた。
「なんで好佑は返事がイングリッシュ?」
「知ってるだろ、梯九。あいつ帰国子女なんだって」
「帰国子女ってなんで帰国子“女”なんだろーねなんていうのはこの際どうでもいい。俺はそういうことを言ってるんじゃねーの」
幸也は「子女の子が男って意味なんじゃないの」と流した話題を手繰り寄せつつ教室へ向かって歩きだす。その背中が若干話を打ち切ろうとしている空気を纏っていて、梯九は眉を寄せる。
小走りで追いつき、横にならんでさらに続けた。
「あいつ日本語分かるんだろ? それに、小一までは日本だったらしいじゃん」
「低学年程度の日本語じゃ、忘れもするよ」
「だからそーじゃねぇー」
自分の席までたどり着いた幸也は帰り支度を始めた。梯九は幸也の前の席から椅子を引き、逆向きに腰を下ろして背もたれを抱く。すぐそこまで来ていたその席の女子は、性格が大人しいために場を離れるしかなくなった。その様子を幸也は横目で見、しかし何も言わずに教科書を鞄に仕舞った。
「日本語聞けてるじゃん、好佑。なのになんで英語で返事する訳」
納得のいかない様子が顔にも言葉にも載る。幸也も幸也で、今度はあからさまに嫌な顔をした。
好佑は寡黙で、必要以上には口を開かないし、口を開いても流暢な英語しか出てこない。
が、先ほどのクラスメイトとのやりとりと同じ様に、日本語で言われたことを理解した上で、それでも英語で返すことが度々あった。それに気付いているのは梯九だけではないだろうし、幸也だって知っているはずだった。
クラスで一番好佑と話しているのは幸也だから。
幸也は梯九を不機嫌な表情で見ていた。やがて折れたように溜息を吐いたとき、ホームルーム開始の鐘が鳴った。梯九は間の悪さに舌打ちし席を立ったが、幸也は小さく「後で話す」と呟いた。
好佑は日本語をわかっている。それなりに読むし、書く。筆記と読みが解らなくても、聞けるし喋ることもある。
けれど中学二年の冬に日本に帰ってきてから——正確にはその翌年、三年生になってからはほとんど日本語は、自己表現に使っていない。「なんでだと思う」幸也が言った。
幸也はホームルームが終わり好佑が教室から出ていくのを確認すると、真っ直ぐ梯九のところへ来て、空いている椅子を引っ張ってきて座った。教室に残っているのは二人と、あと二組くらいの女子だった。気にすると思っていたが、そんな素振りは見せなかったので梯九も気にしないことにする。
「さあ、」
知らない、という意を含めて答えると、初めから正答を期待していなかった様子で幸也は話を続けた。
「あいつもはじめは日本語思いだそうって努力してたんだよ。出来るだけ自分で文章考えて、片言でも喋って。でも、あんまりよくない奴らがいてさ」
「どうよくないの」
「片言なのを笑って、茶化すんだよ」
自分達だって英語、ろくに喋れないくせに。付け加えられた言葉は明らかに蛇足だった。冗談以外で文句を言わない幸也だから、その言葉にはありったけの毒が含まれているように感じられた。もしその通りであるなら、恐らく致死量だ。
幸也は「だからやめたんだ、好佑は」と話を括り、長い息を吐いた。夜中に押しかけてきたセールスの無礼を忘れるように目をつむる母親に似ている。
不機嫌なのは問うまでもなかった。しかし梯九は
「好佑は意気地なしだったわけ」
そう、敢えて言った。間違っているとは思わなかったからだ。
当然、幸也は梯九を睨む。
「好佑を馬鹿にした奴らが悪いんだよ」
「諦めたんだろ、好佑は」
「諦めてない。好佑はちゃんと日本語覚えてる」
「庇うんだ」
「幼なじみだから、当たり前だろ」
当たり前なものだろうか。梯九にも幼なじみはいるが、こういう場合庇ったりすることはないように思う。そもそも家が近かったってだけで、助け助けられる関係になる必要性を感じない。
だからこそ「当たり前」という言葉に気分が悪くなる。疎外感かもしれない。一応、今現在よくつるむのは自分のはずで、幸也も嫌々付き合っている訳ではないと梯九は感じていた。実際、その通りだった。
だが幸也の中で、それとこれとは話が違う。
「元彼だからなのね」と梯九は揶揄した。
「…なにそれ」
話が飛躍したように感じたのか、幸也の雰囲気から敵意が消え去り虚を突かれたような表情になる。返事をしなかったためにどうでもいいことだと思ったようで、それ以上彼は何も言わなかった。
しばらく二人とも何も言わなかった。教室にいた他の二組のうち、片方は梯九と幸也の険悪なやりとりから逃げて、彼らが話している間に出て行ったが、もう片方は気まずそうにしながらも依然残っている。ある程度沈黙を守り、時折思い出したように一言二言交わしていた。ただ、梯九達が口を開かなくなってからは、つられてか同じように口をつぐんでいる。
——帰ろ、と唐突に言ったのは女子のひとりで、あとも流れるように教室から出て行った。廊下に出てから彼女達はぽつぽつと降り始めの雨の様に会話を始め、その声と軽い足音が遠退いていく。それからしばらくして、幸也が呟くくらいの声で言った。
「好佑も、こっちが英語で話しかければ日本語で返してくれる」
聞いても、捻くれてるな、という感想しか思い浮かばなかった。英語で話し掛けてみるのなら、梯九は既にやっている。けれど日本語どころか英語の返事すら返ってこなかった。
その話を幸也にすると、幸也は「梯九の発音は明らかカタカナだから、好佑には呪文言ってるようにしか聞こえなかったんだ、きっと」と笑った。
「アイキャンスピークイングリッシュ、ア・リトル」
「言えてない言えてない」
「幸也は通じるのかよ」
「まあね」
「アイウォントトゥーユースピーク」
「I want you to speak、だろ」
幸也の発音は日本語寄りの不恰好さはあまりない。多分、英語で言えば日本語を返す、というのは幸也限定の話だった。中学の頃から幼なじみを庇いつづけた彼の特権かもしれない。
好佑のために英語を勉強していたなら、現在幸也の英語の成績がいいのも納得がいく。一年の頃「なんで英語できんの」と聞いたとき「勉強してますから」と返ってきたのを思い出した。
20101213




