幸福な思い出
短編
黒板の端に緑のチョークの落書きを見つけた。元々汚い字のそれは欠けていて、誰もいない教室には不釣り合いで不様にすら見えた。私は日直でもなんでもなかったけれど、気が向いたから黒板消しを拾ってきて擦ってみた。布の当たりにくい、縁の直ぐ横が残って、それを見ると消さなければよかったとなんとなく思った。
手の届く範囲にその色と同じ色のチョークを見つける。私は、それを右手でとって消し残しの線を繋げた。
「…何やってんの?」
「何って?」
問い返されて、困った私は彼の手元に視線を注いだ。彼は口だけ笑って、嫌がらせ、と答えた。
問答式の小テストをしていた歴史の時間。最後になって席を立った生徒たちはクラスの半数以上で、その列は教卓から「の」の字を描いて残りは窓際に這うようになっていた。やっと平仮名の端に入れるかなというあたりが丁度黒板と面していて、私の前に並ぶ清水という男子はつまんだ白チョークの先を黒板の際に執念深く塗り付けていて。私は、消すのが面倒臭そうだなという黒板担当者側の観点で、最初はちょっと諌めるつもりでさっきのように声を掛けた。
けれど、清水は多分そんな私の意図を分かった上でああいう返事をしていた。今週の黒板担当は牧原。陰湿なやつ、と思った。
「地味だね」
試しにこんなことを言ってみる。
「地味な嫌がらせこそ積み上がると苦しいもんだよ」
…なんてねー、と冗談めかして笑った清水は乱暴にチョークを置いた。それから近くの黒板消しを手繰り寄せて、塗り潰した白を綺麗に拭う。はい、ジョークでした。そう言うようだったけど、さっきの言葉は全くの地だと思った。勘だけど。
こんな人間にはなりたくないな。
でも、もし私が清水に声を掛けなければ、清水はそのチョークの色をそのままにしていただろうと思うと、おとなしく前を向いた彼の背中が特別に見えた。
それからしばらくして私は清水と付き合い始めたけど、性格の不一致が原因で二ヶ月で別れた。周囲にはよく続いたほうだと言われたけど、私はそうは思わなかった。だけど、後に清水が付き合ってきた女子の中では私が最長記録だったことを知ると、やっぱり長かったかな、とも思った。
黒板の端に出来た緑の線を見ると懐かしくなる。でも清水と付き合っていたときのことを思い出そうとしても、日を重ねるごとに記憶は消えて行く。私が今思い出せるのは、消えにくいこの線と、列に並んだときのあの背中くらい。
清水と過ごした中で一番鮮明で、もしかしたら私はあの瞬間が一番幸せだったのかもしれないと今思い付いた。
だけど過去は過去。
私は縁のチョークを、役立たずな黒板消しの代わりに指を使って消そうとした。伸びた緑色は、指も同じ色になってしまったためにこれ以上綺麗にならない。人差し指を止めて中指で擦り始めたとき、背後から声がした。
「何してんの、中村」
驚いて振り返った。でも、教室も廊下もがらりとしていて誰もいない。黒板に視線を戻すとチョークの色はまだ淡く残っていた。
20101026
改題
原題は素材サイト様よりお借りしていました




