蛹
短編
今日の帰りにアゲハチョウの蛹を見た。青い生きているものではなく、枯れ葉のように茶色になって皺の寄ったものだった。
部屋の灯りを消して布団を被った今もそれを見た気持ち悪さが抜けない。その蝶は果たして蝶になり、あの閉塞的な繭の中から出たのだろうか。それとも翅を手にする前に死んでしまったのだろうか。
蛹という段階の生き物は、あの外装を破れば中は液状化しているのだと何かで聞いた。何で聞いたのかは思い出せないが、きっとテレビか本で目にしたのだ。
道端の茶色の蛹は潰れているように見えた。(中の液体はどうした?)体をつくっているはずの、高温のどろどろした若葉色の液体は——あれがただの抜け殻なら、蝶になっただろう。そうでなければ、アスファルト道路の凹凸に流れ出て、日を重ねるごとに干からびて原型を失ったに違いない。そもそも原型と呼べる原型などないのだけれど。
のこりの液体はきっとまだその茶色の中にある。そう思い至ったとき、急に脳裏にその蛹が潰れたシーンが鮮やかに浮かんだ。
同時に、硬質な表情に隠された本当の感情を持った彼女の顔が現れて死んでいくのを感じた。
瀬野依処。僕は彼女が苦手だ。
蛹を見た日から、彼女を目にするたびあの映像が頭の中で再生される。彼女は僕の前の席なので、再生は一日に何度も行われた。
彼女はおそらく、前世か何かが蛹なのだ。彼女の幼いときのことなど知らないが、今、この年齢はちょうど蛹の時期に違いない。
馬鹿馬鹿しいが、僕はそう思うようになっていた。彼女は蛹だ。確信していた。
「美和君」
風の音かと疑うような薄い声が前方から聞こえてくる。振り返った彼女の手がこちらに伸びている。その手には同じプリントが三枚あり、前から回ってきたものだと知ると僕は受け取らざるを得なくなる。
用が済むと何も無かったかのように戻っていく視線の先に感情がちらつく。彼女が何を考えているのかが分からない。でも間違いなく彼女は、その色の無い表情にそぐわない何かを感じている。
瀬野依処はいろいろな表情を持っていた。僕が偶然、休日に彼女を見たとき、彼女は歩道の端のブロックを数えるように歩いていた。歌すら歌っていた。口許が笑みをつくっていたのを見た。
また別の時には、醜悪な顔をしていた。喫茶店のテラスで向かい合って紅茶を飲むカップルに向かって、周囲を気にしない思い切った顔の顰め方をして、舌を突き出していた。
高校生がよく集まるショッピングモール内で、派手な化粧をして洒落た服を纏って目立つタイプの女子と歩いていたこともあった。若い女子、という感じの華やかでどこかきついイメージの笑い方をしていて、それは歩道のブロックを歩いていたときの笑みとは全然違ったものだった。
しかし彼女は、学校では一貫して無表情な大人しい模範生を演じている。
一体どれが本物かは僕には見当もつかない。もしかしたらどれも嘘で、誰も彼もが彼女にだまされているのかもしれない。
否、そうではなくて——(どろどろ、なら?)彼女の中身が蛹と同じように液状化していたなら、彼女は今はどこにもいないのだ。
僕は彼女の中にあるはずである、混濁した表情に触れてみたくなった。
「…瀬野は退屈そうだ」
「……そう?」
「そう。学校にいる間中ずっと」
「…結構、楽しいけど」
学校、と体言止めで返された言葉は僕の中で空虚に響く。ああ、違うだろう。液状化した表情の一滴だけでは嘘になる。君の感情は嘘になる。
直接触れるにはと思案して、僕はその背中を切り開いてみればいいのではないか、と考えた。
それが何の授業の時間だったかは覚えていない。
制服の白い襟。伸びた背中を柔く包む清潔な布地がうっすらと肌の色を透かしている。アンダーシャツは着ていないらしい。校則違反だ、と思考の一部が叫んだ。
力を込めて刃を入れれば、中から緑色の液体が出てくるはずだ。広げるともっとよく分かる。人間の器官など何一つ無い。瀬野依処は蛹なのだから。
五十分の間僕はずっと、自分の利き手に握られているカッターナイフをいつその背に当てるかタイミングを見計らっていた。
結局、刃を出すことすらしなかった。人間を切り開いたらまず出てくるのは緑ではなく赤い液体だと知っていたから。どうかしていた、とため息をついてやめたのだ。
けれど本当は、あふれ出した体液を形成する表情を目にしたとき、僕は自分を保っていられるかという点について自信を持てなかっただけなのかもしれない。
瀬野はただひたすら静かにノートをとっていた。
その週末の土曜日、僕はまた偶然彼女を見た。学校の近くにある人通りのない寂しい場所の、橋の縁に立っていた。
僕はそれを見たとき、直感的に、羽化するのだと思った。彼女は今までで一番はっきり見えた。髪や制服が風に靡いて、翅を形成しようとしているふうに見えた。
羽化するとどうなるだろう。
今まで見た瀬野依処の全ての表情がぐるぐると僕の頭の中を回る。
いずれかに決ったのか、それともまったく違う彼女が出てくるのか。
そして繭を脱ぎ捨てたとき、彼女は手に入れた翅で何処へ行ってしまうのか。
(瀬野依処瀬野依処瀬野依処)
今まで僕の前に座っていた瀬野依処が蛹の外装だと思い出すと、僕は彼女が羽化するのが嫌だと思った。
僕が見たかったのは形の決まった瀬野ではない。ただいつもの様子の中で、少しでも違う色を見せて欲しいと、そう願っただけなのだ。
「瀬野!」
呼ぶと驚いて落ちはしなかったがふらつき、訝しげな表情をこちらに向けた。
それは間違いなく液体の一滴だと気付いて、もう決してこの地上から逃がしはしないと強く誓った。
蛹のままで乾いて萎れて塵になればいい。
混濁した表情だって固まってしまえば一つになるのだし、僕はそれを取りこぼし無く愛することができるだろうから。
20101020




