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部分接着

短編

※怪我の表現が含まれます

 

 部屋には使いかけで蓋がどこかへ行った接着剤が落ちていた。

 それを拾い上げて、カトウはずっと、出しては指に付け乾かないうちに伸ばしてみたり中途半端に乾かして弾力性のある物質を生成したり乾かして自分の指紋を見つめていたりした。

 私はそれを横目で見ながら学級日誌を書きあげることに時間を費やしていた。カトウは一向に接着剤との戯れを終わろうとしない。

 時計を見ると六時三十六分四十四秒だ。今、六秒を通り過ぎる。

 私は席を立ち、座り込んで周りに見向きもしないカトウのブレザーの首根っこのあたりを引っ張り上げた。無論それで彼が宙に浮くことはなかったが、無様に両肩だけ高くなる。


「下校時刻」


 私が言うと、カトウは何も言わずに振り返って私を見上げた。

 指には乾き切っていない接着剤、彼の足元には役目をまともに果たすことが出来なかった無残なかす達が山のように転がっている。

 部室には私とカトウしかいなくて、向こうの教室棟にももう人影は見えず、最終下校時刻を知らせる音楽などとうに鳴り終わった。

 けれどカトウは私を見上げるばかりで帰り仕度などまるでする様子がない。試しに服から手を離してみたが、姿勢も視線もなにも変わらなかった。

 半開きになったカトウの口から言葉が漏れる、「ユーカリ」


「ゆかり。」

「ユーカリ」

「ゆかり」

「ゆーかり」


 呼び方を変えてくれる気は全くないらしい。不毛な訂正請求はやめにして溜め息をついてみる。カトウは何も言わない。何も言わないで、さっきと同じように私を見ている。

 真上の蛍光灯がぱちぱちと瞬きした。鬱陶しいから早く帰りたい。


「ユーカリ、手だして」

「なんで。なんかやだ」

「手だして」

「やだってば」


 カトウは話を聞かないで、体をこちらに向けたかと思うと私の左手を引っ張った。カトウの手のひらは私の体温と殆ど変わらなかった。空気みたい、と私は思った。

 嫌な予感通り、カトウは私の手のひらに接着剤のチューブを向けたかと思うと指の根元あたりに出してきた。黒ずんだ指で私の指を撫でて接着剤を広げる。

 どこか面白いのかカトウはそれから私の手のひらを至近距離でずっと見つめていた。立ったままで手を引っ張られている私は凄く疲れた。

 十分くらい経過して、接着剤なんてとっくに乾いたのにまだ私の手を観察していたカトウがようやく動いた。それまでマネキンが座っているみたいに本当に微動だにしなかった。そういうふうに出来ているのだ。

 カトウは元々近い距離にある手のひらをさらに引っ張り、何故か舌を出して指の間を舐めた。舌は手と違って凄く温かく、一瞬何か熱いものに触れたようにさえ感じた。

 私はすぐさまぱちんと右手でカトウの頭を殴る。


「食べちゃだめだから」

「乾いた」

「乾いたんなら剥がせばいいでしょ」

「くっついた」

「だからって舐めちゃだめ」


 カトウは不服そうに私の手を三回上下に振ってから、その勢いのまま放った。私の手はカトウの唾液の気化熱ですうっとしていた。

 カトウは立ち上がり、手を洗うのでも鞄を持ち上げるのでもなく棚に何かを探しに行く。見つけ出してきたその蓋を開けると自分の手のひらに乗せて握って開いてを二回繰り返し、私のところまで帰って来て風通しのよくなっていた左手を握った。

「帰ろう」とカトウが言う。手を繋いだままで離そうとはしないで、自分の鞄を持ち上げた。

 私は鞄を持つ直前に机に置いたものを顎で指す。「あれ何?」


「瞬間接着剤」

「ふざけんなよお前」


 薄々は気付いていたけど。手のひらはもうあんまり開きたくない状況になっている。

 悪びれた様子はなく、カトウは鞄を肩にかけて私がさっきまで書いていた日誌を机から取り上げて、器用にも部室の鍵も指に掛けて部屋を出て行こうとした。手を繋いでる状況だから当然、私も引っ張られる。もう帰ることしか考えていないカトウの速さについて行きながら、なんとか部室の電気を消した。

 部室から出た私とカトウは扉に鍵を掛け、日誌を職員室に届けるために一階へ向かう。


「どうするのこれ」


 繋いでいる手を見ながら私が言った。

 カトウは一度私の顔をみると、もう一度前を向いた。


「どうもしない」

「取る時どうするの」

「普通にする」

「皮膚剥がれるから」

「どっちのが剥がれて、どっちのにくっつくの?」

「知らん」


 ふーんという言葉とは裏腹にカトウは興味津々に手を見つめている。


「ていうか剥がれるのやだから」

「じゃあ俺の皮膚、ユーカリが貰って」

「いらない」

「じゃあユーカリの皮膚、俺に頂戴」

「あげない」


 なんか知らないけどカトウはスキップを始めた。すれ違った別の学年の教員が訝しげな顔で私たちを見る。

 スキップで上下するカトウの所為で、手のひらは痛くなってきた。「手が痛いからやめて」とお願いすると、「俺の皮膚が剥がれる」などと返ってくる。不毛。

 手を繋いだまま職員室に入って、人がまばらな中を通って担任の机に日誌を置く。私達が出て行くまで教員達は何も言わなかった。聞きたいことが山ほどあったのか、そのどれにも気付いていないかのどちらかみたいだった。


「手、痛い」


 昇降口でもう一度訴えると、カトウは何故か満面の笑みを見せた。それからポケットからカッターナイフを出して、何をするかと思ったら何もしないで刃だけ出して戻して仕舞った。相手に何を言っても意味がないことをようやく悟ったけれど、自分で手の状況を確かめようと思っても暗くてよくわからない。カトウはせわしなく動いている。


「溶けて融合する」

「しないよ」

「手が一つになる」

「どう考えてもそれはない」

「ユーカリとカトウはひとつになる」


 物騒なことを言い出したからいよいよ私はこの手と目の前の男をどうにかしないとなと思う。

 私は鞄を置いて、カトウを引っ張ってもとの道を戻ろうと歩み出した。カトウは素直についてきた。

 職員室前まで来ると、弾んだカトウの声が廊下に響いた。


「ね、ね、ユーカリ。きいてくれる?」

「何」

「俺は寒いから接着した」

「寒いのは分かるけど瞬間接着剤は使わないでよ」

「今はあったかい」

「しらんわ」


 吐き捨てて扉を叩く。出てきた教員が事情を聞いて「何バカなことやってるんだ」と言ってきた。カトウが馬鹿なのはいつものことだ。

 化学と体育の教師がやってきて、私達の手を見て、お湯と洗剤を使って無理矢理はがした。そうしている間カトウはずっと無言で微動だにしなかった。

 皮膚は結果的に、私もカトウも剥がれた。大人を頼った自分が馬鹿だった。真面目に、信じたくない程ものすごく痛い。

 カトウは多分剥がすのに不満を持っていたけれど、自分の指に付いた私の皮膚と、皮膚がはがれたところから滲んだ血を見て元気になっていた。死ねばいいのに。


 私もカトウもバス通学だったから、手のひらが大惨事でも普通に下校に出された。私は北方向のバスでカトウは南方向だから、バス停は道路を挟んであちらとこちらだ。

 私は手の痛みに耐えながら、あと十五分先に来るバスを全身全霊で恨んだ。事故ればいいとすら思った。私が降りるところまで普通に走って、事故れ。

 退屈凌ぎとか言っていられる状態じゃなかったけれど、気がまぎれるかと思って反対側にいるカトウを眺めていたら、カトウは赤い手を舐めていた。舐めていたというよりしゃぶっていた。むしろ食べそうだった。本気で消えろって思った。

 でも痛みがなかったら私もああしているだろうと思う。


 おなかすいた、と急にカトウがこちらを向いて言った。ここが夢の中だったら、私は私を食べていいよっていうかもしれない。ここは現実だから、今来た南行きのバスは南じゃなくて地獄に行けって言うけど。

2010

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