第1話 退職祝いは、ひとり宴会
実話を元にしたホラーです。最後までおつきあい頂けるとうれしいです。
会社を辞めて、故郷に戻ることにした。
退職願を出してからの1週間は、思っていたほど劇的でも感傷的でもなかった。
引き継ぎのメモを作り、机の中を片付け、送別のお菓子を配り、
形式的な挨拶をして、いつものようにタイムカードを押して会社を出た。
そのどれもが、いつか見たドラマの中のワンシーンのように他人事めいていた。
けれど、実家のある町へ戻る日程を決めてしまった晩だけは、
ふと胸の奥がざわついた。
ここを離れるまでのあいだに、やり残したことはないだろうか。
そう考えたとき、真っ先に頭に浮かんだのが、Noteに誰かが投稿した、
「夜景が綺麗な高台の公園」の写真だった。
観光地でも、有名なデートスポットでもない。
「穴場」「おススメ」という言葉とともに掲載された写真の夜景は、
宝石箱みたいにきらきらと綺麗だった。
私はその記事をブックマークし、仕事帰りの電車の中で、
何度もその写真を眺めては、「いつか行ってみよう」とぼんやり思っていた。
だけど、忙しさと疲れを言い訳にしているうちに、
気がつけば「いつか」は「もうすぐここを離れる」に変わってしまっていた。
後悔だけは残したくない。
そう自分に言い聞かせて、私はエコバックを片手に、アパートを出た。
まだ空は明るく、夏の終わりらしい白っぽい夕暮れが広がっている。
スーパーで缶チューハイとチーズかまぼこ、それに明日の朝食用の牛乳と卵を買った。
たいそうなものを用意するのも違う気がしたし、
アルコール度数控えめの缶チューハイでほろ酔いで夜景を見るのが、
今日の気分だった。
店を出ると、少しだけ風が出ていた。
牛乳に卵など他の食材も買ったので、エコバックの持ち手が指に食い込む。私はスマホを取り出し、例のNoteの記事を開く。
「夜景が綺麗な高台の公園」への行き方は、ざっくりとしか書かれていなかった。最寄り駅からバスで十五分。「○○台団地入口」で下車して、あとは徒歩二十分。坂道を登った先の、住宅街の外れにある小さな公園。その一角に、簡素な展望台のような場所があるらしい。
地図アプリと、小さな写真を交互に見比べながら、私は歩いた。
団地の建物をいくつか通りすぎ、低い家と細い道。
電灯は少なく、道全体がひどく陰気に見える。
それでも私は、なぜか少し浮き立った気持ちで歩いていた。
これから見えるはずの「宝石箱のような夜景」を想像しながら、
エコバックの中の缶チューハイが、足取りに合わせてかすかに音を立てる。
やがて、視界がぱっと開けた。
住宅街の外れ、小さな空き地の先に、低い屋根のついた東屋のような建物がぽつんと立っている。
写真で見た「展望台」と、だいたい同じ形だ。
私は、ここで間違いないだろうと勝手に決めつけて、ほっと息をついた。
公道からは、この東屋がある場所はほとんど見えない。
道路側からは、ただの小さな森か藪のようにしか見えなかった。
きっと、あの東屋に行けば、Note記事の写真にあったような、
きらきらした町の灯りが一面に広がっているのだろう。
胸の中で、期待が少しだけふくらむ。
私は東屋に向かって、足場の悪い斜面を慎重に登った。
東屋の下まで来て、私は息を整えながらあたりを見回した。
石でできた四角いテーブルと、それを囲むように据え付けのベンチがあった。
ベンチは石の座面がひんやりとしていて、ところどころに小さなひびが
入っている。
テーブルも同じ素材で、落書きの名残のような細い線がうっすらと残っていた。誰かがここで時間を潰したり、待ち合わせをしたりしてきたのだろう。そう想像すると、少しだけ親しみのようなものが湧いた。
私はベンチに腰を下ろし、エコバックの口を開けた。
缶チューハイを取り出してプルタブを起こすと、ぱきんという乾いた音が静かな空気の中に響いた。
炭酸が立ちのぼるかすかな気配といっしょに、甘い柑橘の匂いが鼻先をかすめる。
ひと口ふくむと、弱いアルコールが喉の奥を通り過ぎて、からっぽだった胃のあたりが
じんわりと温かくなった。
チーズかまぼこの袋も開ける。
中から取り出した、半月形のチーズ色のかけらをかじると、
安っぽい塩気と油分が舌にまとわりついた。
決して上等な味ではないけれど、こういう場所で食べると、
なぜかそれなりのご馳走に思えてくるから不思議だ。
ふう、とひと息ついて、私は改めて正面を見た。
そこには、思っていたほどの夜景はなかった。
眼下に広がっているのは、まばらな住宅街の灯りが、ところどころ点々と浮かんでいるだけの、
地味な光の群れだった。
遠くに国道らしき線が一本、赤と白の粒をゆっくりと流している。
そのほかには、これといったきらびやかさも、高低差のドラマもない。
私は思わず、スマホを取り出してNoteの記事の写真をもう一度見直した。
そこには、画面いっぱいに広がる宝石箱のような光の海が写っている。
オレンジと白と赤の点がぎっしりと詰まって、手前の暗いシルエットとのコントラストが美しい。
同じ場所のはずなのに、目の前の景色は、どう頑張ってもその写真のようには見えなかった。
「……しょぼ」
自分でも驚くくらい率直な言葉が、口から漏れた。
よく考えてみれば当然だ。
Noteに投稿された写真は、おそらくもっと空気が澄んだ季節に、きちんとしたカメラで撮ったものなのだろう。
時間帯も違うかもしれないし、加工だってされているかもしれない。
こっちは、湿気の多い夏の終わりで、中途半端な時間帯で、しかも私の目は
仕事帰りの疲れでくもっている。
そう頭では理解しても、期待していた分だけ肩透かしを食らった気分は拭えなかった。
それでも、せっかくここまで来たのだ。
しょぼい夜景だろうとなんだろうと、「来た」という事実だけは変わらない。
私はそんなふうに気持ちを切り替えることにして、缶チューハイをもう一口飲んだ。
アルコールが少しずつ回ってきたのか、背中のあたりの力が抜けていく。
ベンチに体重をあずけながら、私は小さく乾杯のまねごとをした。
「退職おめでとう、私」
声に出してみると、思いのほか間の抜けた響きだった。
誰もいない東屋に、私の声だけが小さく跳ねて、すぐに夜気に吸い込まれていく。
恥ずかしくなって、私は慌ててチーズかまぼこをかじった。
スマホの画面だけが、ひときわはっきりとした光を放っている。
そろそろ戻ろうか、と立ち上がりかけて、私はふと「あ、写真」と思い出した。
たとえしょぼい夜景でも、「期待したけどこんなもんだった」というオチも含めて、
あとから見返せばそれなりに笑い話になるかもしれない。
そういう記録が、きっと未来の自分に必要だ。
私はベンチに座り直し、スマホのカメラアプリを立ち上げた。
しかし、画面は真っ暗に近かった。
肉眼でかろうじて見えている家々の灯りも、カメラ越しにするとほとんど存在感を失ってしまう。シャッターボタンの位置はわかるけれど、このまま撮っても、ただの黒い画像になるのは目に見えていた。
「えーと、夜景モード、夜景モード……」
私は画面の端にある小さなアイコンを、指先で探るように触った。
暗さに目が慣れてきたとはいえ、スマホの明かりで自分の指先が白く浮かび上がっているだけで、その向こう側のボタンの境界がうまくつかめない。
何度かスワイプしているうちに、誤ってシャッターボタンに触れてしまったらしい。
カシャ。
カシャ。




