歪曲した正義の残骸
放課後の、誰もいない教室。
黒板の端に書かれた『日直:高橋』という自分の字を見つめながら、
私は、自分の席で一人、息を殺して泣いていた。
「……最低だ」
誰も聞いていない教室に、掠れた声が落ちる。
今朝、五十嵐くんが赤星くんに頭を下げたという話は、
あっという間にクラス中に広まっていた。
赤星くんの隣には、あの白石くんがいて。
二人は、誰にも入り込めない確かな空気で繋がっていたらしい。
それを聞いた時、私の胸を占めたのは、
安堵でも、怒りでもなく。
吐き気がするほどの、真っ黒な自己嫌悪だった。
『あなたさぁ、自分が彼にとっての呪いだって気付かないの?』
昨日、旧校舎の裏で。
泥だらけのノートを踵で踏みつけながら、
私が白石くんに吐き捨てた言葉。
彼を傷つけるためなら、なんでもよかった。
彼が怯えて、壊れて、赤星くんの前から消えてくれればいいと、
本気で願っていた。
私は、赤星くんを救いたかったわけじゃない。
『かわいそうで、不気味な引きこもり』の世話を焼く彼を見て、
「なんで私じゃないの」と、ただ嫉妬していただけなのだ。
学級委員という立場や、『普通』という正論の皮を被って、
自分の醜い執着を正当化していただけの、最低な女。
ガラッ。
ふいに、教室の前のドアが開いた。
「……やっぱり、ここにいたか」
顔を上げると、入り口に五十嵐くんが立っていた。
彼の顔も、ひどく疲れて見えた。
私は慌てて目元を袖で乱暴に拭い、顔を背ける。
「……なによ。私を笑いに来たの?」
トゲのある声が出てしまう。
五十嵐くんは何も言わず、私の前の席の椅子を引き、
ドカッと腰を下ろした。
「笑わねぇよ。……俺も、同じだからな」
五十嵐くんは、窓の外のグラウンドを見つめながら、ポツリとこぼした。
「今朝、赤星と白石に謝ってきた。
……赤星は何も言わなかったけど、白石は、逃げずに俺の目を見たよ。
あいつら、俺たちが思ってるよりずっと……お互いのことしか見えてなかった」
その言葉が、私の胸に決定的なトドメを刺した。
赤星くんの太陽みたいな笑顔は、もう、絶対に私には向けられない。
「……私、ノート、踏んだんだよ」
堰を切ったように、声が震え出した。
「二人の、数学のノート。
わざと地面に落として、靴で踏み潰して……
赤星くんを不幸にしてるのはお前だって、最低なこと言った……。
謝って、許されるわけない……っ」
両手で顔を覆う。
涙が指の隙間から溢れて、制服のスカートにポタポタと染みを作っていく。
赤星くんに嫌われたくない。
でも、もう彼に顔を合わせる資格なんて、私にはない。
「……あいつらは、お前のことなんて許さねぇだろうな」
五十嵐くんの声は、残酷なほど冷静だった。
慰めの言葉なんて、一つもなかった。
「俺たちがやったことは、ただのいじめだ。
赤星のためだなんて言い訳、もう通用しねぇ。
……一生、嫌われたままだろうよ」
「……っ、う、あぁっ……!」
事実を突きつけられ、私はついに声を上げて泣き崩れた。
私の初恋は、誰かを無惨に傷つけ、
自分自身の手で泥だらけにして、終わってしまったのだ。
「でもさ」
五十嵐くんの、大きくて少し荒れた手が。
私の震える頭の上に、ポンと乗せられた。
「お前がこれから先、一生後悔して、
自分を最低な女だって責め続けるなら。
……俺が、一緒にいてやるよ」
「え……」
涙で滲んだ視界を上げると、
五十嵐くんは、どこか諦めたような、
でも酷く優しい顔で私を見ていた。
「俺も同罪だ。
だから、お前が一人で潰れないように、俺が見張っててやる。
……それくらいしか、できねぇけどな」
彼の不器用な優しさに触れて、
私の涙は、もうどうやっても止まらなくなってしまった。
赤星くんと白石くんは、傷を舐め合い、光の差す方へ歩いていった。
そして私たちもまた。
自分たちの犯した罪と、泥だらけの正義の残骸を抱えながら。
この教室で、痛みと共に生きていくしかないのだ。
それが、誰かを理不尽に傷つけた者に対する、
一番正しくて、当たり前の罰なのだから。




