たまには大人の言う事もききなさい……ね?
そのキスは、あの晩みたいな自然さが全然なくて、だからこそ逆に、私はガイドブックで目隠しされたまま、身じろぎできずに綸子の唇を受け止めているしかなかった。
「……こ、これでいいかな?」
何秒後か、それとも何十秒後だったのか。
ずいぶんとぎこちない感じで、綸子はようやく唇を離してくれた。
すごく長い時間だったような気がしたけど、そんな事はないんだろう。
その証拠に、向こうの席の女子高生らしき子達は、まだクラスの誰かの話で盛り上がっている最中だ。
「いいかな、って何が?」
私は心臓がバクバクしているのを悟られないように、ガイドブックをテーブルに戻した綸子に努めて冷静な声を出した。
唇に、微かにガラナの甘みが残っているのを感じて、あ、味のするキスって人生で初めてかもしれないなどと的外れな事をふと考えたり。
「えーと、だからさ……これで私の気持ち、ふーこにちゃんと伝えられたかな……って」
「は?」
思わず出した大声が響いたのか、女子高生達がお喋りを止めてチラッとこっちを見る。
うわごめんなさい何でもないです!
私が反射的に彼女達に向け、片手でスミマセンポーズを取ると、女子高生達はまたクラスの噂話の続きに戻った。
私は胸を撫で下ろす。
(……良かった)
彼女達は、話したい事がありすぎて時間が勿体ない----そんな感じの、友人同士なんだろう。
そしてまた、その姿に鴨島さんと綾子さんを重ねてしまったり----。
(って、ホッとしてる場合じゃないし!)
「ええと、それってどういう意味……?」
私は声を潜めて聞く。
「今度はお酒飲んでないよ?」
「それは分かってます」
聞いてるのはそういう事じゃない。
もちろん綸子もそれは分かっているのだろう。
さっきまでとは違って、妙にもじもじしている。
「だから……今のはお酒の勢いとかじゃなくて、本気だった……って事、です……うん」
「……それって、つまり……その、そういう意味で私に、したった話?」
私の問いに、綸子は無言でコクコクと頷く。
「……な、なんで?」
「多分……今思えば、一目惚れだったのかな、って」
それは、鴨島さんの話にあった動画の件なんだろうか。
「私、ふーこが自分のマンションが燃えてるのを見上げてる動画を見て、鴨島さんにふーこの事を調べてもらったの」
ちょっと上目遣いになってお嬢様は私の反応を確かめる。
あざとい----しかし可愛い。
許す。
「そしたらシェアハウスにいるって分かって、それで私……鴨島さんに頼んでそのシェアハウスに『家出』
したの」
なるほど、綸子ほどのお嬢様がどうしてあんな脱法スレスレな怪しいシェアハウスに来たのか不思議だったのだが、やっと謎が解けた。
(黒幕は鴨島さんだったのか……)
私は黙って先を促した。
「その間にふーこと仲良くなろうと思って……そこまではバッチリな計画だった訳よ」
「いやいや……そう言う割には、まともに話したのは夜中のキッチンでの一回きりだし……しかもその後はいつの間にかいなくなってたと思うんだけど……」
つい口を出したら、「だって、ふーこ昼は仕事で夜は自分の部屋で寝てたじゃん」と反論されてしまった。
いや、それが普通の人間の生活ですよ?
「私、昼は寝てて、夜しか起きられなかったから……なんていうか、こう、すれ違い? 的な」
「……そこはもう少し頑張って欲しかった気もする」
ニートあるあるかよと思いながらも、この子は嘘をつけないんだなとちょっぴり微笑ましい気持ちになったり。
「で、期限付きの『家出』だったから鴨島さんに連れ戻されて、結局あの晩しかふーこには会えなかったって事……まぁ、ふーこは忘れてるかもしれないけど」
「……覚えてるわよ」
私の脳裏には、カップ麺の湯切りに失敗して茫然としているお嬢様に目玉焼きをあげた時の、狭いキッチンでずっと鳴ってる冷蔵庫の音とか、切れそうな蛍光灯の光とか、そういうのも全部ひっくるめて甦っていた。
「あの時、私……本当にふーこの事、好きになったんだと思う」
「目玉焼きをもらって?」
へへッとお嬢様は照れたような笑い方をした。
「あれ、美味しかった」
そうか。
それで私を選んだのか。
何回尋ねても答えなかった理由がやっと分かった。
「私ね、家を出たいからふーこを選んだんじゃなくて、ふーこを選んだから、家を出たの」
「……そっかぁ」
何て答えたらいいのか分からなくて、後が続かないままでいる私に、綸子はニッコリ笑う。
「ふーこ、今までありがとう」
「え?」
綸子はチラリと腕時計に目をやり、立ち上がる。
「まだこうしていたいけど、そろそろ行かなきゃ」
「ちょっと待って! 何の話してるの!?」
気が付けば、私は綸子の腕を掴んでいた。
「行くって……どういう事!?」
声がまた大きくなっていたけど、もうそんな事はどうでも良かった。
普段の私なら、ここで人目がどうのとかお店の迷惑がとか色々考えて綸子の腕から手を離し、ごめん何でもないと言って彼女が店から出るまで黙って見ていたのかもしれない----大人だから。
だけど、今の私には1ミリの余裕もなかった。
ただ、漠然と胸にあった嫌な予感が的中してしまったという悲しみと、言うだけ言って居なくなろうとする綸子に対しての、怒りめいた感情が爆発しそうだった。
「……私、持病があるって前に言ったじゃない? その主治医の先生が今度札幌から東京の大学に移る事になって……それを聞いたお父様がね、東京で一緒に暮らそうって連絡くれたの」
そうだ。
このお店から函館空港までは、タクシーで10分もかからない距離なはずだ。
「お兄ちゃんももうすぐ帰国するから、いいタイミングじゃないかって……」
「なんで……?」
問いながら私は自分が泣きそうになっている事にやっと気が付く。
初めから、このお嬢様は決めていたのだ。
何もかも全部----。
頭の奥が、熱くなった。
視界が滲む。
胸が、張り裂けそうになる。
(そうか、私、怒ってるんじゃないんだ……)
「……ねえ、好きな事言うだけ言ってあとはサヨナラなんて、ちょっと虫が良過ぎない?」
「ふーこ?」
綸子の目が丸くなる。
「でも、もうチケットも買っちゃったし……」
「行くのは勝手だけど、私の答えを聞いてからにして……!」
さっきの女子高生達が立ち上がる。
お揃いのリュックを背負い、まだ喋りながらトレーを手にカウンターへと向かうその間も、私達二人は互いに見詰めあったままだった。
「……答えなんて、聞きたくない」
「いいから聞いて!」
私は半ば強引に綸子を座らせる。
「まだ、夏になってない!」
「え?」
我ながらもう何を言っているのかよく分からない。
でも、今ここで言わなきゃもう、この子は本当に行ってしまう。
そんなの、絶対に嫌だ。
「前にジンギスカンを食べに行った時、黄色い蝶々を見たんでしょ?」
「う、うん……」
何を言い出すのかと訝しむ顔になった少女に構わず、私は続ける。
「その年の一番最初に見た蝶々が黄色だったら、その年の夏は最高の夏になるんでしょ?」
「確かにそう書いてあったけど……」
じゃあ、決まりだ。
「だったら、私が綸子の夏を最高の夏にしてあげる」
「な、なんで……?」
本気で分からないという顔で綸子が私を見る。
気が付けば、その声は震えていた。
「まだまだ色んな美味しい物があるんだから、行きたいトコ行って食べたいモノ全部食べよう……二人で一緒に」
「ふーこ……」
食べ物で釣るとか、子供だましか。
我ながらもう少し言い方があるだろうと思ったけど、でもそれが私の精一杯だった。
「……だから、これからも私の隣にいなさい」
ソファの上で、膝の上で握ったままの綸子の両手に右手をそっと乗せた。
大きく息を吸って、そのままギュッと握る。
「たまには、大人の言う事を聞くのもいいもんだと思うのよ」
びっくりするくらいに固まってるお嬢様の目の前にガイドブックを掲げて、私は囁く。
「ほら、こっち向いて」
カウンターの喧騒が、スッと遠退く気がした。
「私の答え……まだ聞いてないでしょ?」
見開いた瞳に私が映っている。
「目、閉じてよ」
そう言うと、コクンと頷き綸子は目を閉じた。
私はまだしっとりとしている唇に口付けする。
ガラナ味のキス。
二回目。
「……昨日鴨島さんに契約破棄の話しておいたから」
「え、あのマンションにはいていいんだよ!? チャンプ号だっているんだから!」
キスの余韻を吹き飛ばす勢いで綸子が叫ぶ。
少しは空気を読んでくれてもいいんだけどな----あ、先にそんな話を振った私が悪いのか。
「鴨島さんにも同じ事言われたわよ……だけど、互いの事を詮索しないっていう条件を破ったのは確かなんだし、それを分かってて貴女の事を色々聞いたのは私なんだから覚悟はして……」
「それはダメ!」
そう言うなり、綸子はバッグからスマホを取り出しどこかにかけ始める。
(ふぇー、他にお客さんがいなくて良かった……)
今更ながらに自分の大胆さに驚きながら、私は背凭れにぐったりと身を預けた。
何か変な汗がどっと出て来た。
「あ、ムギさん? チケットだけどキャンセルして……うん、ごめん……荷物も出さないでいいから……うん、そう……それは後でこっちからちゃんと話しておく……うん……怒られた……うん……」
(ムギさん……って、もしかして鴨島さん……?)
テーブルに潜るようにして一生懸命に通話中のお嬢様を横目で眺めながら、私は咽喉がカラカラになっている事に気付いた。
(……帰りにソフト買って食べて行くか)
何でもメニューが揃っているハンバーガーショップって、こういう時に便利だ。
さすがはGLAYのメンバーが通い詰めたというだけの事はある。
ありがとうラッキーピ〇ロ。
「来年、さっきの川の所の桜見に来ようか? ここでお昼買って桜見ながら食べよう?」
「えーそんな先? 私、植物園も行きたいし、トラピスト修道院も函館山の夜景も見たいんだけどなぁ」
それを日帰りでやると、私が死ぬんだけど。
それぞれの手にソフトクリームを持ちながら、私達はチャンプ号に戻る。
「じゃあ……温泉入りがてらの一泊かな……?」
「えっ、ふーこって……実は肉食系?」
綸子が顔を赤くした。
それを見て、何気なく言ってしまった自分もドキドキしてるのは、内緒だ。
「いきなりそういう事はしません……! まずはお友達から、でしょ?」
「えー、さっきキスしたのに? 順番おかしくない?」
最初にキスしてきたのは自分なのに、さも意外ですみたいな顔をされる。
そういう所だぞ。
「だいたい、今どき友達同士でもキスくらいするでしょ」
「なにそれ!?」
実にからかい甲斐のある反応が返って来た。
「さっきのラッピの女子高生が言ってたのよ」
「言ってないし! それ、マックだし!」
チャンプ号に乗り込みながら、いつも通りの、でもちょっとだけ照れくさい気分が混ざったやり取り。
「……ふーこ、私達さぁ……普通の人生向きじゃないのかな?」
窓を開けて私達はソフトクリームを食べた。
函館で一番美味しいと謳うだけあって、牛乳の風味が濃い冷たいクリームが、乾いた咽喉を優しく潤してくれる。
「普通が私達に向いてないだけよ」
私がそう言うと、綸子は「そっか」と言って助手席から上半身を乗り出した。
ふわりと綸子の匂いが鼻先に近付く。
「……んッ」
三回目のキスは、ソフトクリームの味。
きっと、今日の事は私は死ぬまで覚えているんだろう。
「……別に、今更普通じゃなくてもいいし」
「そうね、私も同感」
強気でも負け惜しみでも何でもいい。
私達は、私達のドライブを続けるだけだ。
「って、お兄ちゃん戻って来るんでしょ? 会わなくていいの?」
「うん……大丈夫」
綸子は髪を掻き上げた。
「もう、子供じゃないんだからさ」
「……そっか」
隣に大好きな人がいる。
それだけでもう、この夏も来年の夏もその先もずっと、幸せでいられるなら----どんな道だって私は走る。
「……で、次はどこ行きたいの?」
「んー、まだ教えなーい」
もう、夏はすぐそこだ。
「シートベルトした?」
「した」
なら出発だ。
私達の家に帰ろう。
「じゃ、左から車来てないか見て」
「りょーかい」
ガソリンは満タン。
隣には、ちょっと眠そうなお嬢様。
この日常がずっと続きますように。
ルームミラーの横の銀色のカプセルを、私はちょんと指で突く。
(チャンプ、今年の夏はいっぱい走ってもらうからね)
小さなカプセルは祈りに応えるみたいに小さく光って、ゆらゆら揺れた----。