四話「アネア・リッリード」
アネア・リッリード。
彼女は、愛されている。
別に、誰かに言われて始まったことではなかった。
午後の学科が終わる時間は、それぞれの教授等による。
騎士科の終わり時は他とさほど変わらないと思うが、訓練場の清掃等を含めるとどうしても夕暮れ時になってしまう。
俺は渡り廊下を曲がって別棟にある魔術科のクラスを覗くが、魔術科の教室には雑談で居残っている生徒だけで、アネアとアウローラの姿は見当たらない。
──なら。
俺は踵を返して、足を止めることなく図書室へと向かった。
図書室は、中央にある本館から西側に位置し、俺たちが午後に受ける騎士科や魔術科といった学科棟が立ち並ぶエリアとは反対側の渡り廊下を渡る必要性があった。
そのため、魔術科を軽く覗いて姿が見えなければ、本館を囲うように張り巡らされた渡り廊下を渡って、静謐に包まれた図書室へ足を運ぶのが俺の日課であった。
図書室の番人と化しつつあるアネアが、定位置としてよく座っているのは図書室の二階の奥である。
歴史を取り扱う書棚が並ぶ部屋の隅で、区切りのない大テーブルに本を複数冊並べて、白髪の彼女は本を見ながら書いている。
父親が考古学者。母親は魔術学者。そんな両親を持つ彼女もまた研究熱心である。
集中しているアネアはいつも俺が来たとしても気が付かない。
いつものように隣の席につき、先程までの訓練の癖が抜けない俺は、頬杖をつきながらアネアを観察していた。
俺と従姉妹である彼女では、顔の造形はもちろんのこと、髪色も瞳の色も違う。
ただ、髪色に関しては、内側だけが朱色であるあたり、染めている可能性もあるが。
整った横顔が見つめる先を釣られて見てみると、この世界を作った精霊王に仕えていたという龍の逸話の解説書のようだった。
「浄化を司る水の精霊王に仕えていた慈悲深い水龍は、主を失った怒りで大陸中に瘴気を振りまいた龍に慈悲を与えた」
本の内容を呟くと、彼女は一瞬固まり、そして左を、俺がいる方を向いた。
「お疲れさま」
「ルーク」
いつからいたの?と、彼女の表情が語る。
「ついさっきだ。そうだな……今書いているページの中段辺りを書き始めたくらいか」
アネアの右手に握られているペンは指したページの末で止まっている。
「声を掛けてくれたらよかったのに」
「声を掛けたところで、この題材を調べているお前に声を掛けたところで気が付かないだろう」
「それは……そうね」
アネアは困ったように笑った。その笑みは少し前の姿と重なった。
以前、入学してきたばかりの頃だったか。アネアは放っておくと図書室にこもって日が沈んでも帰宅しなかった。
流石に留学のために居候しにきた女子が暗い中一人で帰宅し、何かあってはオリスポリンの騎士見習いとして面子が立たない。
そう思い共に帰ることを提案した日の帰り道に、無言のまま帰るのが気まずく、ふと尋ねたことがあった。
国を問わず巡っていたアネアならば、もっと魔術に特化した学園や精霊について研究できる環境にも身をおけたはずなのに、わざわざこの学園に入学した意図はなんだ、と。
そんなことを聞かれると思っていなかった彼女は、ぽつりと話し始め、この街の歴史について研究するのに絶好な場所だから、といっていた。
「この街は、お前の興味を満たせそうか」
ふいに出したこの言葉にアネアは即答した。
「うん。むしろ、知れば知るほどに興味深いかな。ほら」
そう言ってアネアは前に広げていた一冊の本のページをパラパラと捲って、とある一文を指した。
「先程ルークが読み上げた一文は紀元前の話でね、当時は龍が振りまく瘴気で外では暮らせなかった。そう、外。つまり内側が存在していたわけで、その内が何を示しているかと言うと魔女が作り出す結界の中だったみたいなの」
「魔女?」
アネアは頷く。
「そう。今では私もルークも当たり前に使っている魔術だけど、紀元前では一部の人間しか扱えなかった。そんな不可思議な術を行使する存在を魔女と呼んでいたみたい。
そして、この土地は今でこそ大きな島だけど、当時は陸続きだった説も書いてある。そして、ここは瘴気が薄い地区だったとも」
「……つまり、魔女が張った結界に沿って出来た島ということか?」
「おそらくは。
ただ、なぜ魔女の結界の中に瘴気の原因たる闇の龍が入り込んでいて、水の龍によって封印されたのかまでは書いてなかったかな」
ペラペラと本を捲るアネアの手を見つめながら、再び疑問をぶつけた。
「そもそも、どうしてこの街の歴史を研究したいと思ったんだ」
アネアは、そうだねぇ、と一言置いて少し考える素振りを見せた。
「お母さんが生まれた土地ってのもあるけど、私の専攻は精霊についてでね。精霊の加護が強いこの土地に惹かれたんだ。ルークは精霊についてどこまで分かる?」
突然の質問に知る限りの内容を淡々と答えた。
「精霊とは高濃度の魔力体を持つ生物。また、世界を構築するもの」
「言い回しが何だか教科書通りだぁ。
でも、そのとおりで、精霊とは魔力そのものと言っても過言では無い唯一の生命体だよ。
彼らが居着く場所というのはね、あらゆる生き物が生きていくために必要な魔力源たる魔脈ができる場所なの。
ま、研究者によっては、精霊というのは生命体ではなく、魔力の塊そのものである、という説も提唱してるけど、彼らは精霊に対する適性がなかっただけに過ぎないからね。
精霊は確かに私たちの傍で生きていて、彼らはまた、私たちと同じように考えを持って生きているから」
俺はアネアの言い方に少しばかり引っ掛かりを覚えた。
「まるで、精霊と対話をしたことがあるような口ぶりだな」
「私は物心ついたことからあるよ。それが、本当に精霊だったと言う保証はどこにもないけれど、少なくてもお母さんは彼らを精霊だと言ってた。
精霊って聞くと厳格なイメージがあるけど、私が知る彼らはとても自由奔放だよ」
アネアは図書室の壁に向かって、ね、と同意を求めるように話す。勿論、壁には誰も何もいない。俺はアネアに視線を戻して、彼女の紫色の瞳を覗こうと見つめるが、そこに映るのは俺の姿だった。軽く咳払いして、気持ちを仕切り直すと、彼女への質問を続けた。
「精霊が自由だというならば、魔術は詠唱により精霊を使役し、成し遂げられる奇跡である。と言われるが、どうして応じてもらえるんだ」
「詠唱というのは冒頭の呼びかけに値する箇所は個々に委ねられるけど、必ずしも一定の文言が決まっているでしょう?
それはね、その文言に応じて彼らに奉納を──食事を与えているみたいなものなの。
この奇跡を起こしてください。その代わりに貴方たちに魔力を与えます、ってね。
彼らは精霊以外の生物はすべて同等に扱う。いいや、同列といった方が近いかな。
だから、魔力を奉納さえするのであれば生き物すべてに彼らは奇跡をもたらす。そこに人間にとっての善悪の基準は適用されない」
「では、騎士団が扱う拘束具の仕組みは魔力の流出、つまりは奉納を防いでいるということなのか」
「詠唱を阻害されていないなら、その認識で間違いないと思うよ」
「精霊は案外身近な存在なんだな」
ルークはかつての母の言葉を思い出す。この地は精霊と共に生き、精霊を崇めることで成り立つ土地だと。
母上はアネアの母──俺から見た叔母とは親友だと聞いていた。母もまた同じ話を聞いて育っていたのだろう。
「ふふっ」
アネアが笑う。
「どこに笑う要素があった」
「いや。ルークってば、いつも真顔でつまらなそうじゃない?」
「俺は貶されているのか?」
「いや、貶してはないよ。
ただ、そんな表情をしているのに、私の話を真剣に聞いて疑問までぶつけてくれるから、何だか嬉しいなって」
呆気にとられた。
俺は、彼女の知識の足しにならないどころか、素人同然で基本的な疑問を彼女に尋ねていたにすぎない。
それなのに、彼女は心から嬉しそうに笑っている。
そんな彼女の表情を前にして、俺は。
──どうして。
途端に心が詰まった感覚を味わった。
「ま!興味なさそうでも私は話しちゃうけどね。
ただ、一人でも多くの人が精霊について興味を持ってくれると嬉しいよ」
「そう……だな」
絞り出した声は掠れていた自覚がある。
「さて、帰ろうか。私たちの家にさ」
いつもに増して上機嫌な彼女の隣で、この感情が分からず、眉間にしわを寄せたまま帰宅した。




