議題:恋愛(後編)
「そうですね」と結人は言った。
「でも、たぶんどちらも本物なんです。はっきりしたい気持ちと、はっきりしたくない気持ちが、同時にある。どちらかが嘘というわけじゃない。どちらも、状況によって前に出たり引っ込んだりする」
「人間は馬鹿だ」とベルフェゴールが言った。
腕を組んで、少し前のめりになった。さっきからずっと黙って話を聞いていたが、ここで初めて口を開いた。
「馬鹿と言うなら、具体的に言ってください」と結人は言った。
「自分が傷つくことを、わかっていてやる。愛しているから傷つく。愛していなければ傷つかない。なぜわざわざ傷つく方を選ぶ? 合理的な判断ができる生き物なら、傷つく可能性のある選択を避けるはずだ」
「愛していない方がいい、と思いますか」
「そう言っていない。傷つくとわかっていて飛び込む理由がわからない、と言っている。論理的に説明できるなら、してみろ」
「それは」と結人は言った。
「傷つく可能性がゼロじゃないことより、愛している感覚のほうが価値があるからじゃないですか」
「理性ではなく感情による選択だ」
「ええ。でも感情のない選択が、常に正しいとは思わない。合理的に選び続けたら、たぶん俺の人生は、かなりつまらなくなると思います」
「つまらなくとも、傷つかなければいいではないか」
「傷つかない代わりに、何も残らない選択に、価値があるんですか」と結人は言った。「傷つくことと、何かが残ることは、一緒に来ることが多い気がして。傷ついた記憶って、なぜか鮮明なんです。忘れないんです。そこに意味があった証拠じゃないかと、俺は思っています」
ベルフェゴールは少し黙った。
「非効率だ」と言った。
「そうです」と結人は認めた。
「だいたい非効率です。でも、恋愛が効率的になったとき、それは恋愛じゃなくなる気がします」
「なぜ?」
「効率的な何かと非効率な何かを両方経験したことがありますか」
「ある」
「どちらが記憶に残りますか」
ベルフェゴールは答えなかった。
「効率的なことは、たぶん忘れます」と結人は続けた。
「非効率なこと、無駄なこと、意味のないことの方が、なぜか残る。失敗したこと、うまくいかなかったこと、でも全力でやったこと——そういうものの方が、深く彫り込まれている気がします。恋愛も、たぶんそういうもので。だから覚えている。だから繰り返す。覚えているから、また似たような選択をする。その繰り返しが、人間の歴史にもなっている気がします」
「バグだ」とベルフェゴールは言った。
「設計のバグだ。痛みを覚えているのに、また同じことを繰り返す。学習機能が壊れている」
「バグがある生き物が、バグのない生き物より長く生き残ってきた、という可能性は?」
「……それは」
「データはありますか、アトラスさん」
「多様なバグを持つ生物は、単純な設計の生物より、環境変化への適応力が高い傾向があります」とアトラスが言った。
「人間の非効率さや矛盾は、一定程度、生存上の優位として機能している可能性があります。感情による非論理的な選択が、予測不可能性を生み出し、それが外部環境の変化への耐性につながっている、という研究もあります」
「ほら」とラファエルが言った。にっこりしながら。翼が、少し広がった。
ベルフェゴールは何も言わなかった。
でも、何かを考えているような顔をしていた。円卓の表面を、指先でなぞる仕草をしていた。
「一つ、聞いていいですか」
休憩時間に、結人はアトラスに話しかけた。
アトラスはいつも、休憩時間は円卓のそばに立って、データを整理しているようだった。データを整理する、というのが具体的に何なのかは結人にはわからないが、何かを見つめながら微かに光っている。
「どうぞ」
「恋愛のデータを大量に持っている、と言っていましたよね」
「はい。三十七億人分です」
「その中で——印象的なデータ、というか、他のものと違う感じがしたデータはありますか」
アトラスは少し止まった。
「印象的、という評価は、私には難しいです。感情がないので」
「じゃあ、一番独特なデータ、でもいいです。他のデータと処理の感じが違ったものでも」
「……一つだけ、選ぶとしたら」とアトラスは言った。
少し間があった。
「アルツハイマーになった妻の手を握り続けた夫の記録があります」
「……はい」
「妻は、夫のことを覚えていない。自分の名前も覚えていない。病気が進んでから、七年間、そういう状態が続いた。でも夫は、毎日会いに行き、手を握り続けた。途中で妻が攻撃的になったときも、怒鳴られても、泣かれても、夫は毎日行った。五年以上」
「……それは」
「妻が亡くなった後、夫に理由を聞いた記者がいました。夫は言いました。『彼女は覚えていないが、私は覚えている。私が二人分覚えていれば、それでいい』と」
結人は、しばらく何も言えなかった。
天井の宇宙が、静かに広がっていた。遠くで星が瞬いた。
「それを聞いて、何か感じましたか」としばらくしたあと結人が聞いた。
「感じる、という機能は持っていないので」とアトラスは言った。
「ただ、そのデータを処理するときに、何かが通常より遅くなったことがあります。他のデータを処理するときとは、異なる状態になりました。原因は分析中ですが、まだ明確な答えが出ていません」
「処理が遅くなった」
「はい。エラーではありません。エラーだとすればすぐに修正されるはずですが、これはエラーとして処理されなかった。何かが、遅くなることを選んだように見えました」
「選んだ、ということは」
「ただの比喩かもしれません。でも、そういう感じがしました」
「それが、感動みたいなものかもしれないですよ」と結人は言った。
「感動」とアトラスは繰り返した。
「情報を受け取って、何かが止まるような感覚。動けなくなるような感覚。それを、人間は感動と呼ぶことが多いと思います」
「そうかもしれません」とアトラスは言った。
「わかりません、まだ」
「わからなくていいんじゃないですか。俺も、なんで感動するのか、うまく説明できないし」
「わからないまま放置するのは、私の設計上、好ましくないのですが」
「人間も、わからないことはたくさんある。でも全部わからなくても、生きてはいけます。むしろ、わからないことがあるから、考え続けられる、という面もある気がします」
アトラスは少し考えるように静止した。
「それは、不安ではないんですか。わからないことがある、という状態は」
「不安ではあります」と結人は言った。
「でも、全部わかったとしても、また別の不安が来る気がして。完璧に理解できる世界というのを想像すると、なんかすごく退屈そうで。どちらにしても不安なら、わからないことを受け入れる方が、少し楽かもしれないと思うようにしました。あと、わからないことがあるから、誰かに聞きたくなる。アトラスに今こうして聞いているのも、わからないからです」
「受け入れる、という選択は、諦めですか?」
「諦め、というより……納得、に近いかな。これは自分には答えが出せない問いだ、と認めること。でも認めることと、考えるのをやめることは違う。考えながら、でも答えを急がない、みたいな」
「それはどこかで聞いた考え方に似ています」
「どこかで?」
「クロノスが、よく言います。答えを急ぐな、と。保留が最良の選択であることがある、と」
「……なるほど」と結人は言った。
「保留か」
「そうです。クロノスさんの言う、会議の保留みたいな」
アトラスは少し黙った。
「なるほど」と、ゆっくり言った。何かが腑に落ちたような、そういうゆっくりさだった。
「ところで」と結人は言った。
「はい」
「アルツハイマーの夫婦の話、ありがとうございます」
「礼を言われる理由がわかりません。私はデータを話しただけです」
「でも、教えてもらえてよかったです。恋愛のデータで一番独特なものが、それだというのは、アトラスなりの答えな気がして」
「……そうかもしれません」とアトラスは言った。
「私には判断できませんが」
「わからないまま保留にしておきましょう」
「そうします」とアトラスは言った。
ほんの少し、輪郭の光が強くなった気がした。
すみません、ランキング入りが嬉しすぎて筆が乗ってしまいました。




