輝く小樹は運命に首を垂れた
アセットの身体を、涼しい風が吹き抜けていったような感覚があった。
その瞬間、アセットは別天地に立っていた。
薄暗い。
夜だった。
乾いてひび割れた灰色の大地がどこまでも広がり、果ては空と混じり合っている。
空には満天の星々。
星々がうずまき状になって固まった集まりがいくつもあった。
それぞれ白、青や黄色に輝いている。
アセットは息を呑んだ。身体の痛みを忘れかけるほど美しい。
暑くも寒くもなく、空気に匂いはない。
ゆっくりと繰り返される低い鐘の音が響いていた。
それが時の門の駆動音らしかった。ここはすでに時の門の内部だった。
まっすぐ前に、白く輝く木のようなものがあった。
幹が太く、枝が広がっているが、葉はない。
その木の両脇に、やはり白く輝く人影のようなものがふたり立っている。
あそこが中枢なのだろう。きっとパモナがいる。
アセットは走り寄りたかったが、傷のためにそれは無理だった。
足を引きずりながら、一歩一歩近づいていく。
輝く木の詳細が見てとれるようになった。
幹にはパモナが埋もれるようにして収まっている。
両脇に立っているのはローブを着た男と女だった。アセットは叫んだ。
「パモナ! 目を覚ましてパモナー!」
反応はない。
男と女もただ立っているだけで、アセットを待ち受けるばかりのようだった。
いまでは見えるが、男と女はそれぞれ、光る鎖で輝く木につながれていた。
アセットは近づいていく。とうとう男女と言葉の交わせる距離に入った。
輝く男が両腕を広げて言った。
「ようこそ、アガモルゲの管理者、アセットよ。わが名はアガメンテ。このアガモルゲの創造主である。いまは肉体を失い、運転の失敗によりこの時の門に連結された無力な身であるが」
女のほうも口を開いた。
「わたしはパモナ。本来のパモナ。いま時の門に設置されているのは、肉体を得たわたしの力だけの存在。だからあなたがこれについて気を病む必要はないの。わたし自身であるのだから」
怒りにとらわれてアセットは言い返した。
「パモナはパモナ! あなたとは違う!」
アセットのパモナは木の幹に埋もれたまま、目を閉じて眠っている。アセットは言った。
「パモナを開放して。そうしてくれたらわたしたちは去っていく。あとはあなたたちの好きにすればいい」
本来のパモナを名乗る女は、刺々しく言った。
「なにを言っているのあなたは。これはわたし、ふたつに別れてしまったわたしなのよ。わたしはそうすべきことをしているの。あなたこそ邪魔をしないで。わたしの役に立つことが、この子にとっても幸せなのよ!」
アガメンテと本来のパモナは目配せした。アガメンテが口を開く。
「アセットよ、時の門を始動させよ。その仕事が終わったら、このパモナを開放しよう。大人のほうのパモナには新しい肉体を用意する。われが蘇ればそんなことは造作もない。それでいいだろう、アセットよ。時を遡ったあとは、このパモナとともにわれに仕え、この世のすべての贅沢を味わっていてもよい。このパモナと連れだって、どこかへ旅立ってもよい。すべてが丸くおさまり、すべてはそなたの思うままよ」
アセットは甘言に迷いもしなかった。
「そんな必要ない。ここですべて終わらせる。わたしは大勢の人が死ぬパルツァベルなんて起こすつもりないから」
「それは誤解だ、アセット。今度われが蘇れば、我が方には多くの蓄積がある。圧倒的有利で我が方が勝利するだろう。死ぬ者の数は比較にならないほど減り、魔物が世界をうろつくこともなくなるだろう。われは平和をこそ望んでいる」
「そんな立派な人がなんで魔人なんて呼ばれるわけがあるの。あなたは嘘をついてる!」
「違う、アセット。われは敗けたから魔人と呼ばれているだけだ」
大人のパモナはアセットのパモナを手で示した。
「この子の心を読んだ。あなたの望みはわかっている。こういうことでしょう」
大人のパモナの横に丸い窓が開いた。
窓は暗く、森のなかを突き進むオークの群れを映していた。大人のパモナは続けた。
「これはここより過去。あなたの村を襲おうとしているオークの群れを映したもの。アガモルゲは造られた時点より過去には戻れないけど、ほんの数年前ならなんの問題もないでしょう」
アガメンテが続けた。
「そなたが時の門を始動させたあと、そなたをこの時点へ送りこんであげよう。ガグスタンひと振りあれば戦局は変わるはずだ」
アガメンテはあごに手を当てて首をひねった。
「いや、いますぐでなくともよい。そなたは外へ戻って自分のデーモンを連れてきてもよいだろう。そして村が襲われる寸前に戻る。悪魔の騎士が魔剣ガグスタンを振るうのだ、その力は圧倒的。オークを全滅させるのはたやすい。村人はひとりも傷つかずに済むだろう。そなたの姉を救うのみにあらず」
アセットは震えた。
手から力が抜け、ガグスタンを落としそうになった。
村を襲撃しようと進軍するオークの群れが映っている。
いまのアセットならこの群れを壊滅させることができた。
姉を助けられる。
過去は変わり、新しい現実が生まれる。
そうだ。
これを求めて長い旅をしてきたのだった。
これがアセットの求めていた、そのもの。
認めたくはなかったが、心を惹かれる申し出だった。
だけど、とアセットは自分を諌めた。
それは過去の願望だった。
パモナと出会うまえの生きる目的。
いまは、違うかもしれなかった。
パモナの存在は、アセットにとってそれほどまでに大きなものとなっていた。
アセットは自分に問うかのように、アガメンテに聞いた。
「その申し出を受けたとしたら、パモナはどうなるの?」
アガメンテは言いにくそうに告げてきた。
「パモナにはアガモルゲが造られた時点まで一緒に戻ってもらうことになる。そなたとはここでお別れだ。二度と会うことはないだろう、我々とも。しかし、そなたは最大の願望を叶えることができる、それも最高の結果をもって。誤解しないでもらいたいのは、この取引をしてそなたが姉を救うことにしたとしても、パモナが死ぬわけではない。われわれは共存し、別の時間を生きるだろう。そなたに損はない」
アセットは片手でガグスタンをくるりと回した。
「そう。あなたは嘘をつかないんだ。わたしに都合のいいことばかりを言うわけじゃない。それは認める。でも!」
アセットは怒りに包まれていた。
取引に応じれば、
パモナははるかな過去まで連れて行かれ、大人のパモナが身体を乗っ取ってしまうだろう。
それはアセットのパモナの実質的な死だった。
姉の死は過去のこと、姉はすでに死んでいる。
だが、パモナの死はこれから引き起こされる。
それは大きな違いだった。
選択権はアセットにあった。
自分の願望とパモナの生命を、一瞬とはいえ天秤にかけてしまった。
それが許せず、アセットは自分自身に対して怒り狂っていたのだった。
そんなアセットの心の内もしらず、アガメンテは催促してきた。
「さあアセットよ、時の門を始動させよ。そなたの望み、姉を救うがよい……」
「そんな過去のこと!」
動きは突然だった。突風のごとく刃が回る。
アセットはガグスタンを振るって輝くアガメンテを斬った。
悲鳴があがる。アガメンテの姿はかき消えた。
続いて大人のパモナに向き直った。
大人のパモナは逃げようとした。しかし鎖がそれを許さない。
「それで斬られたら、このわたしといえども……」
「あなたがいるから!」
アセットは斬った。容赦なく。悲鳴を残して大人のパモナも消えた。
辺りは静寂に包まれた。アセットの息遣いと、遠く続く鐘の音だけ。
パモナを助けなければならない。
アセットはガグスタンを地面に置き、幹に埋まったパモナの肩に腕を回した。
脚の傷が痛んだが、歯を食いしばって、思いきりパモナを引っ張る。
ずるり、という感触を伴ってパモナの身体が出てきた。さらに引っ張る。
ずるり、ずるりとパモナは完全に幹から出てきた。
木のほうはパモナが入っていた痕跡もなく、静かに光り輝いている。
パモナを横たえると、アセットはガグスタンを拾いなおした。
「こんなものがあるから!」
こんなものがあるから、パモナが苦しむ。この存在を許しておけない。
アセットはガグスタンを振るって、輝く木を一刀両断した。
木は中ほどから倒れ、光の粒子を撒き散らしながら蒸発していった。
しばしののち、鐘の音がやんだ。
ここに彷徨城塞アガモルゲは、その動力源を失った。
永劫に存在すると思われたこの城塞は、
もうすぐ動きを止め、そのあと風化が始まるだろう。
いまはまだ、その巨体に蓄えられた余力で動いているにすぎない。
アセットはしゃがみこんで、パモナの頬を叩いた。
「パモナ、パモナ起きて」
怪我をしているアセットでは、自分より背の高いパモナを引きずっていくのは難しかった。
なんにしても、パモナが目を覚ましてくれるほうがよい。
「う、うぅーん……」
パモナが目を覚ました。
「パモナ!」
パモナはアセットの姿を認めて口を開いた。
「おうかん、被ってるの……?」
それからガバっと身体を起こす。
「アセット! すごい怪我してるじゃない!」
アセットは安堵で目が潤むのを感じた。
「いろいろ、いろいろあったから。けっこう大変だったんだよ、パモナを取り戻すの」
「すぐ怪我治さなきゃ。待って、施術を始めるから!」
「まだだいじょうぶ。この場所に長居するのはよくない感じがする。それよりパモナのことを聞かせて。なんにもなかった? だいじょうぶ?」
パモナは首をひねった。
「そういえば、ここどこ。暗い……」
「アガモルゲの中心、時の門のなか。時の門の中枢はもう壊しちゃったけどね。あなたは時の門にセットされてた」
パモナは眉根を寄せた。
「そういえば……、夢を見ていた感じなんだけど……、思い出してきた……。なんかね、光る海みたいなところに浮いてた、ずっと。眠くて眠くて。なんだか気持ちよくて心が融けてしまいそうだったけど、きっとアセットが迎えにきてくれるって思って自分を忘れないようにしてたんだった」
「迎えにきたよパモナ……」
「ありがとう、アセット……」
パモナはアセットを抱き寄せた。
アセットもそれに応えて腕をまわす。
生命の証である息遣いを感じ、少しずつ伝わってくる身体のぬくもりを味わった。
そこにはまごうことなき実体があった。
これがパモナだ。
とうとうパモナを取り戻した。