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音楽室のピアノ

 ――自由研究?


 そう。夏休みの。分かる?


 ――知ってるよ。それにしても、随分ふざけたテーマだ。


 少なくとも独創性はあると思うけど?


 ――まあ、好きにすればいいさ。どうせ提出はできないけどね。


 それはまあ、もう死んでるしね。


 +―+―+―+―+


 熟考の果てに、少年の事は「ユキ」と呼ぶことにした。理由は、雪のような髪をしているから。少年の見た目が現実離れしていて綺麗な事を考えると、もっと格好いいというか気取ったというかファンタジーなというか、そういう名前を付けるのも一興かと思ったけれど、結局呼ぶのはあたしになるわけだし、やめて置いた。自分で言ってて恥ずかしくなるような名前は避けた方が無難だろう。

「僕の名前をそんなに一生懸命考えてくれるなんて、嬉しいな」

 ニコニコと嬉しそうな少年、ユキに少し腹が立つ。あと、そう言いながらあたしの髪に触ってくるコイツは、やっぱりそういう距離感が日本人の標準的な感覚とは違う気がする。一言で言ってしまえば馴れ馴れしい。

「何であたしに考えさせるかな。本名名乗れとまでは言わないし、別にあたしの前の人に言われてた名前でも全然良かったのに」

 そう言えばユキは軽く唇を尖らせる。

「そうつれない事言わないで欲しいな。素敵な名前を貰って喜んでる僕に」

 こういうのって「つれない」になるんだろうか。でも「つれない」ってむしろユキの方なんじゃない? ってあたしは思う。馴れ馴れしいくらいに親しげで、タラシめいた事も言うけれど、こいつは自分の事をほとんど話さない。いくつか質問してはみたものの、はぐらかすばかりだ。分かっている事と言えば、自称・図書館の主である事、魔法使いである事、どうやらあたしのような、自分が分からなくなっている幽霊に自分を思い出される事が仕事である事、だけだ。まあ、それだけ分かっていれば、業務上差し支えはないんだろう。

「ところで」

 ユキが白銀の髪をさらりと揺らしながらあたしの顔を覗き込んだ。やっぱりこの子、デフォルト距離が近い。

「学校の七不思議を見て回りたいって話だけど……覚えてる?」

 あたしは頷いた。

「覚えてる」

 自分の家すら思い出せないのに、どうしてかとか、考えるのは無駄なんだろう。所詮あたしは幽霊なんだ。色々変な事があっても、そういう物なんだと納得するしかない。だって当然ながら、幽霊になるのなんて初めてだし。

「ならいいけど。じゃあ、まずはどこに行く?」

「どこでもいいけど……」

 あたしはこの学校の七不思議を思い出す。

「まずは音楽室、かな。音楽室の勝手に鳴りだすピアノ」

 理由は特にないけれどそう言えば、ユキが頷く。

「分かった。じゃあ、行こうか」

 あっさりとそう言ったユキは、さも当然のようにあたしの手をとって椅子から引っ張ると、さも当然のようにそのまま手を繋いで歩き出した。

 その手に引っ張られるように付いて行く。

「あのさ、これ、本当に意味あるの?」

 これからやる事と言えば、音楽室に言ってピアノを見て来るだけだ。怪異なんて多分起こらないし、怪異が起こった所でそれがあたしの記憶にどんな関係があると言うんだろう。実はあたしは学校の七不思議に巻き込まれて死んだんだ、とか? いやいやいやいや。ないないないない。そもそもうちの学校の七不思議はびっくりするくらいにやる気が無くて、大体にして適当だし、人死にが出るような物は……派生形を別にすれば……無かったはずだ。

「言っただろう? アヤがやりたいことに、アヤ自身へのヒントがある。今のアヤがそれをしたいと思ったからには、それはアヤ自身への何かに繋がってるはずだよ」

 あたし自身に、かあ……

 つまりあたしは、どうして七不思議を見て回りたいのか、とそこが鍵になるという事だろ。

 ここ、旧図書館だって階段の舞台だ。図書館の主、という。あたしが幽霊として存在し始めたのも恐らくはここで、それだけあたしは学校の七不思議に執着している、のかもしれない。執着、という事で言うならば、あたしが確かに強い意志でそうしたいと思っていのは……


 会いたい


 何もかもに実感が無くて、他人事みたいにしか思えない今のあたしに、唯一生々しく存在する感情。あたし自身へと繋がる鍵が何かと言えば、まさにこれこそが最大の鍵だとしか思えない。だけど、生々しい癖にとらえどころのないその感情は、深く考えようとするとするりと逃げて行ってしまう。あたしが会いたかったのは、図書館の主、何だろうか。本当に? ユキの自称が正しいならば、それは達成できてるはずなんだけど。だったらどうして、この気持ちが消えないんだろう。それにあたしは確かに、ユキが「図書館の主」を名乗った時に思ったのだ。「違う」と。

 この先、あたしはこの気持ちの正体を掴むことができるんだろうか。そもそもどうして図書館の主なんだろう。やっぱりあたしは度を越したオカルト好きで、どうしても怪異に遭遇したくて馬鹿をやらかした挙句に死んだんだろうか。

 そこまでのオカルト好きじゃなかったと思うんだけどなあ……と、思いつつ今やろうとしてるのも七不思議巡りだし、説得力が無いかもしれない。でも他にやりたい事を、と言われても、特に無い。


『アヤは無欲だ。あ、これは全然褒め言葉じゃないよ? 何ていうか、他人に何も期待しないって、そう言う意味での無欲だから』


 どうして今これを思い出すんだろう。今考えてるのは、あたしが何をしたいかであって、誰かに何かを望む事とはまたちょっと違うはず。それも、あたしが無欲とかとすら関係なく、ただ単に思い出せないだけだ。

 なのにどうしてか、それが後ろめたい。


『それって人を見下した態度だ。どうせ自分の事なんて他人には分からないと、線を引く態度でもある。そんなに自分を特別だと思っているの?』


 不意に走った胸の痛みに、あたしは思わず、ユキの手をぎゅっと強く握る。ユキが驚いたようにあたしを振り返った。


『ま、そういうところも含めて、僕はアヤの事、好きだけどね』


「アヤ、大丈夫?」

 立ち止まったあたしを、ユキが心配そうに見ている。縋るように強くユキの手を握る自分の手が震えているの事に、あたしは気付く。

 胸が痛い。

 あたしは深く息を吸って、ゆっくりと手から力を抜く。震えが収まったのを確認して、それからユキに言った。

「大丈夫……」

 ユキが訝しげにあたしを見て、それから心配そうにあたしの頭を撫でる。初対面なのにスキンシップが多いと思ったけれど、けれども最初から、嫌悪感は無かった。それはユキのずば抜けて綺麗な外見によるものかもしれない。それに、あたしより少し背の高いユキの、その仕草は不思議と馴染がある。

 同じような距離で、同じような仕草で、あたしの髪を撫でていた誰か。そんな誰かが、あたしには居た。そんな確信が芽生える。

 その誰かは、今どうしているんだろう。死んだあたしを、どう思ってるんだろう。悲しんでいるだろうか。泣いてくれているだろうか。そもそも、あたしが死んでからどのくらい経っているんだろう。あたしが死んだのがこの夜ならば、まだあたしが死んだことを知らないという事も有り得るし、本当は随分な時間が経っている、としたら、もう、忘れている、という事だって…有り得る。

 その人の事を思い出せば、あたしはどうなるんだろう。その人に限った事ではない。あたしが親しかった人、あたしにとって特別な人の事を。

 きっとその人の今を確認したいと思うだろう。そしてその人があたしの為に泣いていても、あたしが死んだことを知らなくても、あたしの事を忘れていても、きっと…寂しい。

 だってあたしは死んでいるのだ。その人にもうどうする事もできない。

「アヤ」

 ユキの声に顔を上げた。ユキが優しい顔で微笑んでいる。そうして、そっと、誘惑するように囁いた。

「アヤ、ねえ、やめる?」

 あたしは思わず、ぽかんとしてユキの顔を見返す。

「やめるって……何を?」

「だから、思い出そうとする事」

「は? だってユキは……」

「怖いなら別にいいんだよ? 大丈夫。思い出そうとしなくたって、僕はアヤの傍に居るよ?」

 いや、あたしは最初から、傍に居てほしいとは言ってない。だけれど、こんな状況で一人じゃない、という事に慰められているのは、確かだ。

 あたしはユキを必要としている。

「それ、それで大丈夫なの?」

「僕にはね、時間なら有り余るくらいにあるんだ」

 ――だからいくらでも、アヤの傍に居られるよ

 囁く声音に、何故か背筋が凍った。死んだあたしと魔法使いの…実際に普通の人間じゃないだろうユキにとっての「いくらでも」はどれくらいの永さなんだろう。ユキのこれは、優しさなんだろうか。無理に思い出す事は無いと、このまま曖昧な状態で、ユキと一緒に居てもいいと。

 じゃあ、ユキが「案内人」だという事は? あたしが思い出さなくていいという事は、このままでいいと言うことは、それって仕事放棄じゃないの? それとも単に、時間をかけていいってだけ? いくらでも?

 あたしは、ユキの事をどれくらい信用していいんだろう。自分の事をほとんど話さないこの子の事を。

 それでも今は、ユキと一緒に居るしかない。

 あたしは首を振った。

「ううん……あたしは思い出したい」

 例え思い出した先にあるのが、どうしようも無い寂しさだけでも。あたしは思い出したい。

「そっか。じゃあ、行こう。音楽室に」

 ユキが愛おしむかのようにあたしを見て言った。


 +―+―+―+―+


 旧図書館の入り口までは普通に歩いた。普通に? そう言えばずっと手を繋いでるんだけど……まあいいか。多分ユキにはこれが普通なんだろう。ごく普通の女子中学生のあたしとしてはちょっと恥ずかしい気がするけど……別に誰に見られるわけでもないし。

 で、旧図書館の入り口をどうしたか。入り口前まで来て、ユキはあたしをくるりと振り返るとにこやかに聞いてきた。

「すり抜けるのと開けるの、どっちがいい?」

 すり抜けられるのか。そうか、幽霊だもんね。とあたしは折角だから試してみる事にする。

「すり抜ける方で」

「じゃあどうぞ」

 あたしの手を放して扉の脇に退き、気障ったらしく扉を示して優雅に一礼する。動作は綺麗だし様になってるけど、妙に腹が立つ。からかってるみたいなニヤニヤ笑いがまた何とも。

 あたしは軽くユキを睨んで、扉に向けて手を伸ばした。

 触れればすっと通り抜ける、という事はなく、あたしの指先には確かに扉の感触がある。手の平を付けて、ぐっと押しつけてみても、あたしの手が扉の向こうに抜ける事は無い。ついでに言えばびくともしない。鍵が掛かっているにしても、少しは動いたりがたついたりするものだと思うのだけど、ピクリとも動かなかった。試しにドアノブを握ってみても、動かない。

「どういう事?」

 と、あたしはユキを睨む。ユキは悪びれずに笑った。

「こういうのは、早めに理解しておいた方がいいと思って」

 あたしは扉から手を放す。そのまま床の毛羽立ったカーペットに手を伸ばした。カーペットの感触を指に感じて、そのまま指を押し込もうと試みる。全然フカフカじゃない安物のカーペットだけど、指を押し込めば少しは沈む筈だ。けれどもやっぱり、少しも沈まない。

「アヤにはこの世の物は動かせないんだよ」

 確かに、幽霊がひょいひょい物を動かしたら、それは大騒ぎだろう。人が毎日どのくらい死んでいるかを考えれば、ポルターガイストなんて現象ももっと頻繁に発生してもおかしくない。

「まあ、ものすごーく頑張ればできるかもしれないけどね。試してみる?」

 扉を示してユキが笑う。

「すり抜ける事もできないみたいなんだけど?」

 試してみる? というのはスルーすることにして、そう聞けば、ユキはしゃがみこんだあたしの手を取った。

「それはできる筈だよ。要はイメージの問題だ」

 ユキに導かれるまま、もう一度扉に手を当てる。

「アヤには今、実体が無い。だから、その体もその感触も、アヤが自分でイメージして創り出しているものだ。すり抜けられないのもそう。アヤが自分の体を実体があるものとしてイメージしているからできないんだ」

「あたし自身がこれを、すり抜けられない物として認識しているから?」

「その通り」

 なら、すり抜けられる、と思えばできるという事だろう。あたしは扉に当てた手を押し込みながら、抜けられる、すり抜けられる、と念じてみる。手のひらが扉に埋まり、通り抜けて、その向こうの外の空気を感じる…事をイメージする。

 できない。

 依然としてあたしの手は扉に当てられたまま。押しても押しても扉は頑固にあたしを阻んでいる。

 ユキに目で訴えてみた。

「流石のアヤでも、いきなりは無理か」

 ユキは楽しそうだ。くすくす笑いながら、扉に当てられたあたしの手を取って握りしめた。

「じゃあ、一緒にやってみよう」

 一緒にやるってどうやって? と思うけれど、このまま扉を抜けられなければ、あたしはずっとこの図書館の中に居なくてはいけない。それは流石に嫌だ。ここはユキに従うしかない。あたしはユキの手を握り返した。ユキが目を細める。

「アヤ、目を瞑って」

 何となく嫌な予感がしながらも、あたしは言われるがままに目を瞑った。視界が真っ暗になる。何も見ずにいると、あたしがどこにいるのかすら分からなくなりそうで不安になる。勿論、旧図書館の扉の前にいるんだろうと分かってるんだけど。自分が床を踏みしめる感覚すら曖昧な気がして、あたしの手を握るユキの手の感触だけが命綱のように感じられた。

 その手を、ぐいっと引かれた。

「わっ!!」

 バランスを崩し、前につんのめる。とっさに目を開くけれど、真っ暗闇で何も見えない。それどころか、踏み出した足に感じる筈の床の感覚すら怪しくて、自分が足を付いているのかいないのかもよく分からない。そのままユキの手があたしから離れ、あたしは真っ暗な中でベチャリと転んだ。

 そしてようやく、視界が開ける。

 ぽつぽつと両脇に木の植えられた石畳の道の、その先に見える本校舎。

「抜けられたね」

 ユキが言う。成程、目を瞑れば「すり抜けられない」というイメージが曖昧になってやりやすくなるのかもしれないけれど……それにしたってあんな乱暴に引く必要はあったんだろうか。わざと転ばせたとしか思えない。それによろけたとき、あたしは確かに目を開けたのに、何も見る事ができなかった。あたしにまた魔法を使ったんだろう。断りも無く。

 文句はいくつかあるけれど、まずは起き上がろうとあたしは石畳に手を……付こうとして、その時初めて、自分がほんの数センチ浮いてる事に気が付いた。

 え? と思うも本当に浮いている。ほんの数センチなんだから、手を、いやその前に足を、と混乱する間に、落ちる。

「ぐぇっ」

 地面に全身を打って、我ながら女の子らしくない声が漏れた。それほど痛くないけど、何この理不尽感。転んだ時も体を打ったような気がしたのに。

「言っただろう? アヤの感覚はアヤのイメージでできている」

 ユキが楽しそうに言うのが聞こえた。ああ、やっぱりこの子Sだ。

 つまり、あたしは転んだ時に、何も見えていなかったから、あたしが「地面がある」と思う場所を踏みしめて、そこに転んだ、と。でも実際は地面はその数センチ下で、だからあたしは数センチ浮いていたんだ。

 ユキが言う。

「アヤは自分が『浮いている』と気付いた瞬間、『落ちる』と思ったんだ。だから、落ちたんだよ」

 それはそうだ。浮いていると気付けば落ちる事を連想する。さっきはどうしよう、と軽いパニックになっている間に落ちた。けれども

「壁抜けよりも空を飛ぶことの方が簡単かも……」

 今度こそ石畳に手をついてあたしは起き上がった。制服に付いた土埃を払う。けれどもこれも、あたしのイメージで付いた思うと馬鹿らしくなって、綺麗な制服を想像したらあっという間に綺麗になった。なんだかなあ。

 クスクス笑うユキを見ればこれみよがしに浮いている。なるほど、ユキも飛べるのか。魔法使いだもんね。と考えて、ふと疑問に思った。

 さっきはユキも、一緒に扉をすり抜けたんだろうか。一緒に、と言っていたから、多分そうなんだろう。ユキは一体なんなんだろう。ユキにもまた、「実体が無い」のだろうか。もしかしたら…存在のありようとしては、生きた人間よりあたしの方が、ユキに近いのかもしれない。開かない筈の図書館の奥のドアの向こうに居たし……って、ん?

「ねえ、ユキ」

「なんだいアヤ。一緒に飛ぶ?」

「いやその前に」

 飛ぶのは正直言って魅力的だけど。その前に聞いておきたい事がある。

「あたし、ユキが居た部屋のドア、開けられたんだけど?」

「そうだね」

「あたし、この世の物は触れないんでしょ?」

「ああ、そうそう、それね」

 ユキが手に持った指揮棒みたいなステッキで、石畳の脇に生えた木の一つを指し示す。にぃ、と鳴く黒猫の声と共に、その木がぽうっと青く発光して、それから元に戻った。

「あの木の葉を千切ってご覧?」

 言われるがままに手を伸ばして千切れば、その葉は簡単に千切れてあたしの手の中に収まった。なるほど。あの部屋は全体が青く発光していた。あの光は魔法による物なんだろう。そして、ユキの魔法によって、あたしはこの世の物に干渉する事ができる。そう言えば、あの部屋の中では椅子を引いて座ったりもしたっけ。

 ならばあたしがもし、この先思い出した誰かに、声を届けたいと、会いたいと、望んだら、ユキならそれを叶える事ができるのだろうか。

 手の中の葉っぱを見つめるあたしの首に、ユキが腕を回す。

「さあ、アヤ。行こう?」

 やけに甘ったるい声であたしの耳に囁く。綺麗な顔に、少し意地の悪い性格。どこか誘惑するかのような甘い囁き。死者を導くというよりも、魂を堕落させて食らおうとする悪魔みたいだ。

 本当に悪魔なのかもしれない。願いを叶える代わりに、魂を、なんてね。

 考えたって分かることじゃない。あたしはユキの腕を解くと、向き直ってユキの手を取る。

「うん。行こう」

 ふわふわ浮いているユキを見ていると、飛ぶことなんて簡単に思えてくる。ユキに手を引かれるまま、あたしはいとも簡単に空を飛んだ。

 目指すは、本校舎最上階の東の角にある、音楽室だ。


 +―+―+―+―+


 目を瞑ってユキに手を引かれる方式で音楽室の中に侵入する。五線譜の描かれた黒板に、段差が付いた床。記憶にあるままの音楽室だ。窓から月光が差し込む。それに照らされて、グランドピアノが置かれている。

 とても、静かだ。

「鳴って無いね」

 とユキが言う。

「まあ、ここで本当に鳴ってる事までは期待してなかったんだけど……」

 ちょっと拍子抜けはする。

 来たものの、ここで何かすることがあるわけでもない。怪談の舞台に行って、そうかこのピアノが鳴るのか、と思って、それでおしまい。それも普段からここで授業をしている……していた場所なのだから、ああ、音楽室だな、で終わりだ。

 でもやっぱり夜の方が、怪談っぽい雰囲気はあるかもしれない。月光に照らされたグランドピアノというは中々いい。

 前の時は全然…………前の時は?


『流石に夜中に学校に入る許可は出なかったよ。夜じゃないと意味が無いと力説してみたんだが……許可そのものが打ち消されそうになったんで慌てて撤回した』


 だから、昼間にここに来た。あたしと……


『折角だから、』


「折角だから弾いてみようか。ピアノ」

 ユキの声にはっとする。ユキがにっこりとあたしを見ていた。

「あれ? 何か思い出しかけてた?」

 しれっとそんな事を言う。

「うん。まあ……」

 ユキの声のせいでぶった切られた気がするけど。でもそう、あの時もピアノを弾いた気がする。折角だからって、そう言って。

 ユキがステッキでピアノを示すと、カチャ、と微かな音と共に、グランドピアノのふたが開く。鍵盤のふたと弦の部分の蓋とがゆっくりと開いて、コンサートなどで良く見る形になった。

 使われていない時のピアノには鍵が掛かっている。あの時も、それを開ける為に、わざわざ職員室に行って鍵を借りに行った。そうしてピアノの蓋を開けて…けれどもあたしたちは……

「どう、アヤ。弾く?」

「いや、あたしはピアノは……」

 あたしは弾けない。キラキラ星のメロディーラインだってつっかからずに弾けるか怪しい。

「そう? ほら、アヤが弾いたら立派に怪談成立だよ?」

 まあ、確かに。あたし幽霊だしね。

「いいよ。弾けないし……」

 ユキがつまらなそうにあたしを見て、すっとステッキをピアノに示す。

「ふうん……なら僕が弾こうか」

 悪戯っぽく笑って、ピアノの前に座ったユキは、背筋をピンと伸ばしてすっと鍵盤に手をのせた。

 絵になるなあ……

 真夜中の学校の、月光に照らされたグランドピアノ。その前に座る銀髪の少年。日本の怪談としてはユキの銀髪は採用しがたいものがあるけれど、美しい光景には違いない。

 すうっとユキが息を吸い、そうして鍵盤を叩きだした。


 タラランタッタ タラランタッタ タラランタッランタッランタッタ


 流れ出したのは、良く知った曲だった。ピアノ曲として、知名度ならかなり高いであろう曲だった。

 その名も「ねこふんじゃった」

 しかも拙い。ゆっくりと演奏してさえ、リズムは不安定だし、つっかえつっかえで間違えてはまた少し前から再開する。

 見た目だけなら素晴らしく完成されているだけに、これはちょっと酷い。見た目からしてもうちょっとそれっぽい曲を演奏してくれるかと思ったのに。ラフマニノフとまでは言わないけど、せめてもう少し。

 あたしは少しおかしくなってしまって、ユキに声をかけた。

「怪談で聞こえてくるのが」


『怪談で聞こえてくるのが『ねこふんじゃった』だったらがっかりだよ』


 言いかけた言葉を途切れさせて、あたしは蘇った声に少しぼうっとしてしまう。これはあたしの声だ。同じ事を、あたしは前にも言った。


『こういうのは雰囲気だ。真昼間じゃあまりに雰囲気が出ないだろ? だから少しでもそれっぽくなるようにしてやったんじゃないか』

『だったらいっそ弾かないで。そのまま座ってて』

『はいはい』

『こっち見ないで、ちゃんとピアノに向かって』

『……』

『鍵盤に手、置いて』

『アヤの僕への扱いが、最近酷くなってきている気がする……』

『気のせいだよ。背筋伸ばして』

『……ちなみに、どのくらいこの体勢をキープすればいいのかな?』

『もうちょっと』


 そんなやり取りを、ここで。


『もういいよ。お疲れ、ユウ』


 その子の顔も声も曖昧で捉えられない。あたしの声ばかりが、その子の言葉ばかりが、くっきりと蘇って胸を圧迫する。あたしがお疲れ、と言うとその子は振り返って笑った。けれどもその顔が思い出せない。だけれどこれは、間違いなくあたしの思い出だ。


 あたしには、ユウという親友が居た。


 +―+―+―+―+


「ここの怪談ってどんな話なの?」

 「ねこふんじゃった」を弾き終えて気が済んだらしいユキが振り返ってそう聞いてきた。あたしはまだ少しぼうっとする頭を整理して答える。

「ああ、えっと……音楽室のピアノが、誰も居ないのに鳴りだすっていう話」

「それだけ?」

「まあ、基本はね」

 あたしは思い出す。

 あたしとユウはあの時、ここで、この怪談について話した。


『では考察しようじゃないか。ピアノを弾いているのは果たして誰なのか?』

『先生、生徒、ベートーベン……』

『僕からしてみれば、ベートーベンとかそのあたりになってしまうと最早ギャグだ。先生か生徒かのどちらかに絞り込みたいな』

『日本のピアノをどうしてベートーベンが……って気は確かにするかもね』

『肖像画から抜き出したという話だけど……それが本当ならベートーベンの幽霊も大忙しだね。大変だ』

『肖像画のベートーベンが果たしてベートーベンの幽霊なのかっていうとそれも微妙な気がするけど?』

『そのあたりの考察は二宮金次郎像の方でやろう』

『ああ確かに、似たような内容になっちゃうか……』

『で、先生と生徒、どちらか、という話だけど』

『集めた話として先生の方が多かったよ。この学校で死んじゃった先生が……って』

『でもさあ……先生が学校のピアノに執着するって、それどういう状況?』

『ピアノの前で死んだとか』

『それは好みじゃない』

『またそう言う事を……』

『だってさあ、そこで死んだからそこに執着するって、ちょっと面白味が無いだろ?』

『じゃあ生徒? でも生徒も同じじゃない?』

『いや、そこにはストーリーが組み込めるね』

『へえ?』

『ピアニストを志す少女がいる。少女はコンクールに向けてピアノを練習したかったが、家にはピアノが無い。だから学校に特別に許可を貰って、学校のピアノで練習させて貰っていた。ところがある日、コンクールを目前にして、少女は死んでしまう。その少女が、ピアニストへの夢を諦められずに、ピアノを練習し続けるんだ』

『そんな話をした子は一人もいなかったと思うけど……』

『今僕が言った』

『情報源は?』

『友達の友達のそれまた友達の友達が聞いた話さ』

『虚言癖』

『ストーリーテラーと言って欲しいな』


「ピアノの音の正体についてはいろんな話があったけど……ピアノを弾いてるのは、ピアニストになりたかった女の子って結論になったんだ」

 ユウが、それがいいと言ったから。

「ふうん……」

 聞いておいて大した興味も無さそうな相槌を打ったユキはあたしの顔を面白そうに覗き込む。

「何か思い出した?」

「思い出したよ」

 あたしとユウがどうしてそんな話をしていたのかも、今なら思い出せる。あたしたちは夏休みの自由研究を一緒にやろうと話していて、そのテーマとして選んだのがこの学校の七不思議だったのだ。七不思議を収集して、考察して、纏める。それを提出するつもりでいた。

 そんな自由研究の為に、ユウは夏休みの校舎に入る許可を先生からもぎ取った。本当は夜中がいいんだけど、それは流石に無理だったみたいだ。むしろあんなふざけた研究テーマの為に、必要性も怪しいのに、校舎の中に入る許可が出ただけで凄い。勿論、入るときと出る時は職員室に顔を出して先生に一言言っていくのが条件だったけれど。

 あたしとユウは、夏休みの学校に入り込んで怪談の舞台に行っては、そうやって考察にもならない考察を話して時間を過ごした。

 そうして過ごした、というのは覚えているのに、じゃあ具体的に何をしたのかを思い出そうとすると、また霞のように記憶をすり抜けてしまう。ユウの声も、顔も。仕草や口調、口角をつり上げる笑い方、そういうのは思い出せるのに。

 あたしがやりたいと思った事、学校の七不思議を見て回る事。あたしにとっての七不思議は、ユウと見て回った思い出だ。それを見て回るという事は、ユウとの思い出を辿る事に他ならないんじゃないだろうか。

 だったらあたしは、この先ユウの事を思い出していくのだろう。その顔も、声も、思い出すことができる。

 その思い出はきっと、あたしにとってとても大切な物の筈なんだ。

「まだ続けたい? アヤ」

 ユキの問いかけに頷く。

「勿論、続ける」

「そう。じゃあ次はどこにする?」

 ユキがつと口角を上げて微笑む。その表情が思い出せないユウの顔に重なるような気がして、くらりと眩暈がした。


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