図書館の主
――やあ、こんにちは。迷子さん。
迷子?
――だって君は迷子でしょう。
別に、迷ってなんか……
――おや、じゃあ、君はどこに行くつもりなの?
…………え?
+―+―+―+―+
あたしが通う学校には、「図書館の主」という怪談がある。ここで言う図書館とは、本校舎内にある図書室とは別の物だ。本校舎の図書室はそれほど大きくはないけれども特別に小さくも無く、勉強の資料や新しい人気の本は過不足なく揃えてある。一方、怪談の元になっている「旧図書館」はそれだけが独立した建物になっていた。学校内で最も古い建物で、見た目からして、よく言えば時代を感じさせる……悪く言えばボロい。
中に入ってみれば、掃除の手も入らない場所だから、当然の事、汚い。如何にも見捨てられた場所、という感じで、まさに怪談の舞台に相応しい。昼間に行ってさえそう感じるのだから、夜中なんか一際そうだ。肝試しにはもってこいという物だ。
真っ暗な中を、僅かな光を頼りにあたしは歩く。こうして歩いていると、しーんとした静寂の中にあたし自身まで融けてしまいそうだ。怪談なんかと遭遇しなくたって、それだけで十分怖い。
これでもかという程に、背の高い本棚が、人二人通れるくらいの隙間でぎっしりと並んでいる。辺り一面、本、本、本、本、本ばかり。何が怖いって、とにかく本棚ばかりで、視界が悪いこと。これほど暗くなくたって、誰かがどこかに隠れていようと思えばいくらでも隠れられるのだ。例えばあたしが通り過ぎた本棚の陰からこっそり足音を忍ばせて、誰かがあたしの後ろに立って、すっと手に持った物を振り上げて……何て考えてしまったら振り向かずにはいられない。当然、誰も居ないんだけど。
『アヤの臆病は、その想像力が一因なんだろうね』
そんな言葉をふっと思い出して、あたしは瞬間、立ち尽くした。ぶんぶんと首を振る。あたしは臆病じゃない。本当に臆病なら、こんなところに来たりなんかしない。ホラー、怪談は大好きだ。ただ、そう、ちょっと暗闇が怖いだけ。それでもあたしは、そんなスリルだって楽しむことができる。
今だって楽しい。あたしは楽しんでる。ほら、楽しい楽しい。楽しいなあ、本当に。
敢えて威勢よく、あたしはずんずんと足を進める。大胆不敵に足を踏み出しても、毛羽立ってボロボロになったカーペット張りの床は大した音も立たたない。無闇に腕を大きく振って、あたしは奥へ奥へと歩みを進める。
本のぎっしり詰まった本棚をひたすら通り抜けて、本校舎の図書室より遥かに広いその部屋の奥までたどり着くと、そこにはドアがある。怪談で語られる事には、「図書館の主」はそのドアの向こうに居るのだった。
真ん中に鍵穴の着いた金属製の丸いドアノブだ。そもそもこの建物自体、レトロという程の風情があるものでもない。ドアだって重厚な木製だと言う訳でもなく、ごく普通の、どちらかというとショボイとしか言いようの無いようなドアだ。
あたしは以前、このドアを開けようとした事がある。ドアは開けられなかった。当然のように、鍵が掛かっていた。何だ開かないのか、とがっかりした様な、ほっとした様な気分になったのを覚えている。
『あそこの鍵は紛失しているらしい。開かずの間、という事だね』
……そうだ、ここの鍵がどこにあるのか、誰も知らないんだった。
あの日と変わらない古いだけの何の変哲も無いドアを前にして、あたしは手を伸ばすのを躊躇っている。
『鍵が無い、つまり誰も開けられない、というのに一定の浪漫がある。ドアに風情が欠けていた事はこの際良しとしようか』
開かない事に価値があるドア。中に何があるのか、分からないからこそ、その中に「図書館の主」という怪談が生まれる。
学校の怪談が、同じ怪談についての話でも違う物がいくつもある、というのはそれ程珍しい事ではない。例えば、よくある怪談の一つである、「音楽室の鳴り出すピアノ」も、聞いてみれば人によって聞いている内容が違っている。ピアノを弾いている幽霊の正体が先生だったり生徒だったり、はたまた音楽室の肖像画から抜け出たベートーベンだったりと様々だ。それを聞いたらどうなるか、という事についても、何も起こらない、とか、呪われて三日以内に死ぬ、とか、耳が聞こえなくなる、とか、バリエーションに富んでいる。
「図書館の主」もそうだ。もしかしたら、他のどの怪談よりも酷いかもしれない。何せ、肝心の「主」の設定からしてまるでバラバラなのだ。先生だったり生徒だったり、正体不明のお爺さんだったり、黒猫だったり、しゃべる本、だなんてのもあったっけ。
『音楽室の怪談と、そう違いは無いよ』
そう、「図書館の主」は「誰にも居ない筈の部屋に誰かが居る」という怪談だ。音楽室のピアノが鳴る正体が曖昧なように、その中に誰が居るのかは多分、怪談の骨格には関係が無い。
『裏を返せば、好き勝手想像すればいいってことだね』
でも、それって最初から怪談を全然信じてないって、そういうスタンスだから出てくる言葉だ。あたしは違う。だからあたしは、そういう風には思えなかった。かと言って、信じているかと言われれば、それもちょっと違う。
そう、例えば、こうしてドアノブに手を伸ばしながら、開く筈無いって思いながら、それでももしかしたら……ってドキドキする。それが、あたしにとっての怪談だ。
ゆっくりと、ドアノブに手を伸ばす。金属性のドアノブのひんやりとした感触に一瞬怯んで、それから捻った。どうせ回らない。やっぱり開かないってがっかりして、それで終わりだ。そのはずなのに。
カチャ……
手の中であっけなく、ドアノブが回った。嘘だ、と思う間にも、惰性の様に、あたしの手はゆっくりとドアを押す。あたしの力が掛かるままに、キィ、と軋んだ音を立てドアが開いて行く。
開かない筈のドアが開く。
ドアを押し続けながらも、あたしは目まぐるしく考えていた。何で、どうして? だってここのカギは無い筈だ。誰にも、鍵を開けることなんてできなかった筈。それとも先生が鍵を取り換えたんだろうか。そうして、鍵を試しに開けてみて、かけ忘れた、とか?
有り得なくもない。そう考えてしまえば、そうとしか思えなくなる。
だから結局、これも不思議な事なんかじゃない。ちょっと不思議だと思う事があったって、種明かしはいつも悲しいくらいに現実的で当たり前な事ばかりだ。このドアの向こうだって単なる備品室か何かで、図書館の主なんて、存在しない。
頭の中で考えながら、その一方で思っていた。きっと居る筈。中に、この中に居る筈。開くと思ってたんだ。きっと開けられるって。そうしたら、会えるって信じてた。信じてる。だから、お願い。
会いたいんだ
矛盾する、期待と恐怖が頭の中を埋め尽くす。何を考えているのか自分でもよく分からない事を、ぐるぐるぐるぐる、呼吸が苦しくなるくらいに考えながら、ドアを開ける。緊張のあまりか、ぼうっとぼやけた視界の中で人影を見つけて、あたしの中に歓喜と恐怖が荒れ狂った。
「ゆ……!!」
詰めていた呼吸を吐き出すように叫びかけて、けれども視界に映るその人の顔を見て、頭が真っ白になった。
誰?
ちょっと驚いたような顔をして、その人……少年はあたしを見ていた。大きく見開いた目は薄く透き通った、菫色。部屋を照らす青白い光に照らされて、真っ白な髪は自ら光を放つかの様だ。その色彩からして、まず日本人じゃ有り得ない。脱色やカラコンでできた色とは思えなかった。その上、その少年は真っ黒い布をマントの様に身に纏っていた。その格好も、お人形の様に整った綺麗な顔も、部屋を照らす青白い光も全てが全て、この世の物とも思えない。
でも、この子、どこかで……
頭の隅にチリっと何かが引っかかる。知り合いじゃない。こんな日本人離れした知り合いはいない。けど、どこかで、そう、こんな顔の……
少年が、ニコリと笑った。
その顔に見とれて、少しぼうっとしてしまう。はっと気が付いた時には、思い出しかけていた何かは霧散してしまっていた。
それにしても、何て綺麗な子なんだろう。
「やあ、こんにちは。迷子さん」
それが少年の第一声だった。
+―+―+―+―+
にゃあ
可愛らしい声がした。どこから? とあたりを見回して、ふと少年の肩の上に小さな黒猫が乗っているのに気付く。真っ黒い毛並みは少年のマントの色に溶け込む様だ。そんな中で、とんがった耳の形と金色に輝く目がその存在を際立たせる。
しかし、この格好といい、黒猫といい、何ていうか……この子……
「僕たちはね、案内人なんだ」
肩に乗った子猫の顎の下を指先で撫でながら、少年が言う。黒猫が金色の目を気持ちよさそうに細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
「案内人……?」
「そう。君みたいな、迷子の子をね」
あたしみたいな。
「何であたしが迷子なの?」
少年はあたしの問いに答えずに微笑む。
部屋はぼんやりとした青白い光に照らされていた。光源はどこなんだろう。まるで部屋全体が淡く発光しているかのようだ。それはとても幻想的だけれど、それ以外はごく普通の部屋だ。
資料らしきものが並べられた棚がいくつか壁際に並んでいる。真ん中に、縦長の机が置いてあって、その周りを囲むように古ぼけた木製の椅子が置かれていた。もしかしたら、会議室か何かだったのかもしれない。
あたしと少年は、その椅子の二つに、机を挟んで向かい合うようにして座っている。
日本人離れした美しい容姿に、流暢な日本語を話すこの少年は、多分普通の人間ではないのだと思う。小さな黒猫を当たり前のように肩に乗せ、手元には指揮棒のような細い白いステッキを持っている。
まるで……何だっけ。知っている。あたしは知っている筈だ。そう、こういうのって……知っている筈の言葉が、すっぽりと抜けたように出てこない。もどかしい。えーと、何だったっけ……
『この少年は魔法使いなのかい?』
そうだ、魔法使い、だ。
「君は魔法使いなの?」
そう問いかけると、少年は頷く。
「魔法なら使えるよ」
「へえ……」
会話終了。
そうか、やっぱり魔法使いなのか、と思ったところで、その先にどう話題を繋げればいいんだろう。例えば目をキラキラさせて「魔法見せて!」とか…あたしには無理だし。そもそもからして、元々コミュ障の気があるあたしに、美少年魔法使いとのコミュニケーションは難易度が高い。
ひたすら無言で向かい合う事に、あたしは死ぬほど気まずい思いをしているというのに、少年の方はまるで気にする様子も無くあたしの方をニコニコと見るばかりだ。無言で向かい合ってると気まずくなったりするのって日本人特有の感覚なんだっけ? いや、そもそもあれだ。魔法使い、だから国どころじゃなく異世界から来た、とかそういう事もありうるのか。
「どこから来たの?」
「僕がここの前に居た場所から」
それはそうだろう。それ以外に何がある。つまり答える気はないと、そう言う事なんだろうか。それはそれで構わないけど、それなら普通に言えないって言えばいいじゃないかと思う。
「どんなところ?」
「きっと君が居た場所とそう違いは無いさ」
またはぐらかすような言い方。なんだかおちょくられているような気分になってくる。これがわざとなのか天然なのか、綺麗すぎる顔からは読み取れない。呆れてしまうような、いっそ感心する様な、何だろう…懐かしい、ような。
ふっと胸に飛来した息苦しさを、あたしは首をふって追い払う。少年がそれを見て目を細め、僅かに笑みを深くした。あたしはそれに軽く睨み返す。この子は一体なんなんだ。
「あのさ……魔法使いが、なんでこんなところに居るの?」
怪談の「図書館の主」とこの少年は、何か関係があるのだろうか。まあ、普通に考えればこの少年が「図書館の主」なんだろう、とは思うんだけど。だけど日本の学校の、しかも古ぼけた図書館の、怪談の正体にはあまりに似つかわしくない。
少年はあたしの質問に、嬉しそうに答えた。
「君に会うために」
「……」
え? これラブコメなの? まさかのラブコメ展開なの? とか反射的に考えてしまったあたしを許して欲しい。だってこんな台詞を、現実離れした美少年があたしを見つめて微笑みながら言うんだよ? これで一瞬でもそんな事を考えない女が居たら、それは乙女成分をどこかに忘れてしまっているんだきっと。
でもまあ、冷静になってみれば、それがそういう意味じゃないのは明白だ。この子は自分の事を、案内人、と言っていた。そして、あたしを迷子だと。つまりこの少年の文脈の中では、あたしという迷子を案内するのが彼の仕事で、その迷子のあたしに会うためにここに居た、と、そういう事になるんだろう。
「人違いだと思うんだけど……」
日本語は素晴らしく上手だけれど、意思の疎通に苦労しそうな気配を感じさせる少年に、あたしは恐る恐るそう言った。少年はそんなあたしに、少し困ったように首を傾げる。あたしはそれに、得体のしれない罪悪感を抱いた。
「じゃあ、君は何でここに来たの?」
迷子じゃなきゃここに来ちゃいけないとでも言うんだろうか。
「何でって……」
図書館の主に会うために。でも明らかにこの学校の生徒じゃない少年がこの学校の怪談を知っているとも思えないし、言った所で首を傾げられるだけだろう。だからあたしはこう答える事にした。
「肝試しだよ」
少年が不思議そうに目を丸くした。
「一人で?」
何て事言うんだコイツ。漫画的に言うなら、コイツの台詞は今確実にあたしの心臓をグサリと刺した。いくら天然浮世離れといえど言っていい事と悪い事がある。ぼっちにぼっちを面と向かって指摘するのはマナーに反する。少なくとも繊細な日本人女子中学生に対しては。
「そうだよ。悪い?」
思わずむっとして言う。あたしが睨んでも、少年は悪びれる事も無く首を傾げた。
「どうして、一人で肝試し何てしようと思ったの?」
「どうしてって……それは、」
どうしても何も、図書館の主に会うためだ。……だけど、あれ?
何であたし、図書館の主に会おうと思ったんだっけ。
「それは……」
思い出せない。嘘でしょ? 会いたくて、あたしは会いたくて、会えないだろうと思いながらここに来て、そうして扉を開けた。居ても立ってもいられなかった。その気持ちは、未だにそう、この胸の中にあるのに。
どうして会いたいのか、分からない。あたしは、図書館の主に何を求めていたんだろう。何を求めているんだろう。会いたい。会いたい。それだけは、それだけははっきりしてるのに、どうして?
「落ち着いて」
少年があたしに手を伸ばす。その手を振り払った。急な混乱と同時に、あたしは理不尽な怒りをこの少年に抱いている。
「何でここに居るのがあんたなの?」
少年を睨んで言えば、少年は悲しそうな顔をした。それとももしかしたら憐れむような顔だったのかもしれない。
「落ち着いて。大丈夫だから」
「うるさい!」
怒鳴れば、少年の腕がそっとあたしの頭を抱え込んだ。そうして優しい声で囁く。
「大丈夫。君が会いたかったのは僕だ」
何言ってるの?
更に怒鳴ろうとしたのに、少年の肩から伸びた黒猫の尻尾があたしの頬を撫でた瞬間、すうっと気持ちが静まってしまう。苛立ちも混乱もどこか遠い物になり、その代りに妙な脱力感に覆われる。
さっきまでこの少年はあたしの向かいに座っていたはずだ。それが一瞬の間にあたしの隣にいて、あたしの頭を抱え込んでいる。成程、魔法使いというのはどうも本当なのかもしれない。と、特別疑ってもいなかったのに納得する。
「僕が図書館の主だ。君が会いに来たのは僕なんだよ」
違う、と頭の片隅、さっきまで怒っていたあたしが叫ぶ。けれども、それを口に出す事も億劫なくらいに、力が出ない。
あたしは何がしたいんだろう。
「大丈夫。君が思い出すまで、僕は君と一緒に居るから。さあ、顔を上げて」
洗脳するかのような優しい声に、頭が麻痺したかの様に痺れる。少しくすぐったい黒猫の尻尾の感触を頬に感じながら、あたしは顔を上げた。近くで見ても、見れば見るほど綺麗な顔だ。
「さあ、君の名前を教えて?」
綺麗な菫色の目に見入りながら、あたしはぼうっと考える。あたしの名前……あたしの名前は、何だったっけ……? 自分の名前すら思い出せないなんて、あたし本当に、どうしちゃったんだろう。
『アヤ』
ふっと蘇る声に、思い出した。そう、アヤ、だ。あたしは確かに、そう呼ばれていた。
「アヤ」
少しほっとしながら少年に名乗れば、少年はやけに嬉しそうに笑った。
+―+―+―+―+
どうも今のあたしは正常じゃないらしい。と、少年に言えば、少年はあたしの頭を撫でる。
「大丈夫。アヤは落ち着いてる方だよ」
こちらとしては「そんな事を言われても」という気分だ。あたしの頭を撫でる手に、半ば強制的に落ち着かされている気がする。
「あたしに魔法をかけたの?」
さっき、あたしの怒りは不自然なまでに急激に収まった。収まったのとは違うのかもしれない。激しい怒りがまるで他人事のように遠くなり、冷静になったと言う感じだ。自然な事じゃない。
「少し落ち着いて貰っただけだよ」
人の感情に不可思議な力で干渉した事を認めておきながら、相変わらず何の罪悪感も感じていないらしい綺麗な笑顔だ。駄目だ。この子とあたしは、どうも倫理観が徹底的に食い違ってる。魔法使い恐るべし。
「やっぱりアヤは落ち着いてるね。流石だよ」
何が流石なんだろう。あたしは充分に混乱している。
「自分の事、全然思い出せないんだけど」
これはつまり、記憶喪失とかいう物なんだろうか。そんなことになる心当たりが全くないんだけど。その「心当たり」ごと忘れてるってことなんだろうか。
「大丈夫。皆最初はそうだから」
「意味が分からない。やっぱりあんたが何かしたの?」
「アヤがここに来たのはアヤ自身がそうしたいと思ったからだ。違う?」
違わない。だけど自分の名前すら思い出せなかったあたしが、それだけははっきりと覚えているなんて、却って不自然だ。そこに作為を感じない方がおかしい。
「あたしに何したの」
「アヤが疑うような事はしてないよ。僕に敵意を向けないで欲しいな……僕は君を助ける為に居るんだよ?」
少年は傷ついたように目を伏せ、そっと上目づかいにあたしを見る。あざとい。実にあざとい。この子、自分が綺麗な事を自覚していやがる。
「じゃあ、何であたしは、何も覚えてないの?」
思い出せない。自分の家すらも。ああ、帰ろうにもどこに帰っていいか分からない、なんて、まさしく迷子じゃないか。少年の目的があたしであるという、それはどうやら確かだったらしい。
いくつか自分の事として分かる事はある。たとえば、あたしはこの学校の生徒で中学生だ。名前だってさっき思い出した。あとは、あとは……
自分の事をどれだけ分かってるのかって、考えるのは難しい。自己紹介のノリで考えてみようか。あたしはアヤ。中学生。趣味は……読書、かな? 本は嫌いじゃなかった気がする。ここ、図書館だし……ってそんな馬鹿な。
ああ、予想以上に酷い状態だ。
「大丈夫。アヤはこれから思い出すんだ。僕が手伝うから」
「いやあの、その前に状況を説明して欲しいんだけど……」
「そんなに気になるの?」
不思議そうにあたしを見る少年。そこで不思議そうにするってどういうことなの? ここで気にならない方がおかしいでしょ。どう考えたって。
「あんたのせいじゃないなら、なんではぐらかすの?」
「うーん……」
少年は顎に手を当てて悩む。さっきから思ってたんだけど、この子の動作はオーバーアクションというか芝居がかってるというか。まあいいんだけどね。美形だから絵になってるし。
「アヤになら、言っても大丈夫かなあ……落ち着いてるし。ねえ、アル? どう思う?」
少年が黒猫の顎を撫でながら、そう言うと、黒猫がゴロゴロと喉を鳴らす。そしてその言葉から、あたしはこの黒猫はアルというのかと認識する。
「うん。アルがそう言うなら。アヤにはちゃんと言う事にするよ」
黒猫のアルが言う言葉が少年には分かるらしい。傍目にはほんのりとイタイ人に見えるけれど、まあ、この子は魔法使いなんだからきっと本当に聞こえているんだろう。アルはあたしに話す様にと言ってくれたらしいし、きっといい子だ。そう思う事にしよう。
「じゃあ、アヤ、言うけどね。驚かないでね?」
「ここまで来て引っ張るのやめてくれない?」
段々とイライラし始めたあたしに、少年がやれやれとでも言うように息を吐いて肩を竦める。何だろう。腹立つ。
「じゃあ、言うけど」
少年が微笑む。優しい、慈愛に満ちたと言ってもいいような顔で。それから優しく言った。
「あのね、アヤは死んでるんだよ」
+―+―+―+―+
息を吸う。そして吐く。うん、あたしは確かに呼吸をしている。
ついでに、体育の授業で習った通りに、自分の脈をとる。大丈夫、ちゃんと鳴っている。
「呼吸も脈拍も正常だと思うんだけど」
「すごいね、アヤ。本当に落ち着いてる。流石はアヤだ」
何故か自慢げ。嬉しそう。この子の感性、本当にどうなってるんだろう。少年はちょっとハイになったように目をキラキラさせながら笑う。
「でもほら、考えてみて? アヤはどうして、学校の制服を着ているの?」
確かにあたしは学校の制服を着ている。でもここは学校だし、それがどうして変なんだろう。
「こんな真夜中の学校に、どうやって入って来たの?」
……覚えてない。どうやって? 気がついたら、ここに来ていた、としか。
「制服で真夜中の街を歩くなんて、補導される可能性が高くなるだけだ。どうして私服で来なかった?」
覚えてない。
「ここだって、いくら古い建物とはいっても、流石に夜中に鍵くらいかけるよ。あ、この小部屋じゃなくて、この図書館自体の入り口の事だよ? アヤ、それをどうやって通り抜けたの?」
「……」
「そもそもアヤは懐中電灯も持ってないじゃないか。殆ど光もさしこまないこの暗闇を、どうやってここまで歩いて来たの?」
僅かな光を頼りに。でもその光が、どの光源によるものか、分からない事に今になって気付く。あたしの周りは僅かな光で照らされていた。でもそれは、何の光?
分からない。
「アヤは僕に指摘されるまで、ここに来た理由を忘れている事にすら気が付かなかった。それって単なる記憶喪失にしては変だと思わない?」
記憶喪失の標準動作なんてあたしが知るか。
「そもそも魂は自由だ。アヤが自分の呼吸や心臓を感じるのは、それだけ自分をイメージできてるだけの話だよ。そんなの、生きてるって証明にはならない」
「……」
この子実はSっ気があるんなんじゃないかと思えてきた。あたしが死んでいると伝えるのを渋っていたくせに、一旦言ったらやけに嬉しそうだし、嬉々としてあたしを追いつめるし。しかも殆ど理詰め。さっきまで言うのを渋ってたのだって、多分あたしを傷つけないようにとかじゃなくて、あたしが焦れるのを楽しんでただけだ。絶対そうだ。
でももしかしたら、あたしは本当に死んでるのかもしれない。
そう思いながらあたしは自分の手を見つめる。この手も、あたしが自分のイメージの中で作った物って事? 魂は自由、ねえ……? クサい言葉だけど、もし本当にそうなら。
あたしはイメージする。あんまり突飛なイメージは実現しちゃったときに自分で困りそうなので、簡単なイメージで。自分の爪をじっと見つめて、イメージする。素っ気ない短く切られた爪を少し伸ばして、その上に薄くコーティングを、それから……
結果出来上がったネイルアートをあたしはしみじみと見てしまった。できてしまった。我ながら中々いい出来だと思う。グラデーションを付けて塗られた青いマニキュアの上に、ちょいちょいとストーンを配置して花の形を作っている。勿論学校にはつけて行けないし、前にやろうとしたときは右手の爪が思った以上に上手くできなくて結局すぐ落としちゃったんだっけ。あ、これって自分の事を一つ思い出した事になるのかな。
「……やっぱりアヤ、落ち着いてるよね」
一転して、少年はどこかつまらなそうだ。やっぱりあたしが落ち込むなり動揺するなりするところを見たかったんだろう。ざまあみろ。とか、あたしも結構性格悪いかもしれない。
「そういうの、興味あったの?」
少年があたしに聞く。どうしてか、少し寂しそうに。あたしはそれに、曖昧に首を傾げた。
「おしゃれじゃなかったと思うけど」
言いながら爪を戻した。服は制服のまま。靴は学校の上履き。これを替える気にはならない。爪だってあれを続けたくはない。爪は短い状態の方が好きだし。
そんな事を考えながら、何となく安心した。色々思い出せなくても、あたしはどうやらあたしであるらしい。あたしらしさ、って言うほど大層な物ではない気がするけど……そういうような物はちゃんとあたしの中にあるんだろう。まあ、そりゃそうだろうって感じだけれど。
「ふうん……お絵かきみたいなもの?」
「まあね」
イメージだけで爪が形作られていくのは、中々楽しかった。けれどそれができたことで、あたしは認めざるを得なくなる。
「なんか本当に、あたしは死んでるみたいだね」
「予想以上に適応が早いね」
「実感ないだけだと思う」
自分が死んだという記憶は今のあたしには無い。それどころか、自分が生きてきた人生すら碌に覚えていない状態で、どうして死んだ事を嘆けるだろう。これから思い出していけば、また変わるのだろうか。
「まあ、そうだろうね」
少年が肩を竦めてそう言って、それから少し意地の悪い顔で笑った。
「じゃあ、これから、少しずつ思い出していこうか」
そうするしかないんだろうな、とあたしは未だ実感が薄いままで考える。だって明らかに、このままだと成仏的な事はできそうにない。
「どうやって?」
こうやって少年と話し続ければいいんだろうか。少年はあたしの手を取った。当たり前なのかもしれないけれど、その感触を手に感じる事に少しはっとする。幽霊でも感覚はあるらしい。魔法使いでも無い普通の、生きた人間に対してだとどうかは分からないけど。
「アヤのしたい事をするんだよ」
「したいこと?」
「そう。アヤのしたいことに、アヤがあるんだ。だから、アヤはアヤのしたい事をすればいい。勿論僕も手伝うよ」
したい事、ねえ……? 図書館の主に会う…は一応もう、達成してる。となると、後は特に無い……事も無い。つまりあるような気がする。したい事っていう程の事でもないけどある。
どうせ幽霊になったんだし。
「学校の七不思議ツアーとかでもいい?」
だって幽霊。夜中に学校をうろついても怒られない。だとしたら、やるしかないと思わない? 怪談は好きだ。どっちかっていうと、不思議な話っていうか、あんまり怖くない怪談が好きなんだけど。うちの学校の七不思議はどれもやる気がなくて、あんまり怖くなくて大好きだ。これも多分、些細なあたしの欠片の一つ。
「勿論だよ」
と少年が笑う。
この子と一緒に居るしかないっていうのは…まあ、構わないんだけど、ちょいちょいストレス溜まりそうだ。まあ、人間関係何てそんなもんだろう。
と、ここで今さらながら、気付く。
「そういえば、君の名前、聞いてないんだけど」
少年にそう尋ねれば、少年は硬直した。何で?
「あ、そっか、名前か……」
斜め上に視線を走らせてどうやら考えているようだ。
『名を聞かれて答えないというのは、警戒心の表れか、もしくは仲良くなりたくない、という意思表示だと思うのだけど?』
そんな言葉を思い出せば、この先この子を頼りにするのに気が重くなる。別にいいんだけどさ。この子からすれば、あたしの面倒を見るのは仕事なんだろうし。それにしてもこの子は何なんだろう。死神とか天使とか、そういうものだと思っとけばいいのかな。
迷う少年を辛抱強く待っていたのに、挙句の果てに少年は誤魔化す様に微笑みながらあたしに言った。
「君の好きに呼んでほしいな」
でたらめな名前を考えることすら放棄した少年に、これから上手くやっていけるのかと、あたしはため息を吐いた。




