第4話 先輩のやさしい告白
打ち上げが終わったあと、カラオケ店の前には静かな夜の気配が広がっていた。ネオンが柔らかな風の中で瞬き、通りの先を走る車のライトが長い光の尾を引き、流れる川のように街を染めていく。みんなは笑い合いながら三々五々に帰路につき、誰かは電車に乗り、誰かは歩いて帰る。私も最初は、一人で家に帰るつもりだった。
その時だった。高橋先輩が、いつもと変わらぬ落ち着いた笑みを浮かべながら、気づけば私の隣に立っていた。その笑みは、どこか普段よりも柔らかかった。
「遙、一緒に帰ろうか? 私が送るよ」
「えっ、あ……うん」
私は思わず目を瞬かせ、反射的にうなずいていた。胸の奥にはまだ少し緊張が残っていたけれど、その温かな瞳を前にしては、どうしても「いいえ」と言うことができなかった。
私たちは並んで夜の小路を歩いていた。街灯が路面に淡い光を落とし、静かな影を長く引き延ばしている。夜風が涼しさを運び、髪や頬をそっと撫でていった。靴底が舗道を踏む音は細やかで規則正しく、そのリズムがまるで二人だけの夜を彩っているようだった。狭い路地には人影もなく、ただ私たちの足音だけが静かに響いていた。
「……今日は楽しかった?」
ふいに先輩が口を開いた。その声は夜風のように柔らかく、かすかな期待を含んでいた。
「……うん」
私は小さくうなずき、控えめに答えた。
「みんなすごく盛り上がってて……先輩が場を盛り上げてくれたから、とても安心できた」
「そう……それなら良かった」
彼女は静かにそう返した。その響きは独り言のようでもあり、何かを確かめるようでもあった。そして次の瞬間、彼女の歩みがふっと緩む。
「……遙」
名前を呼ばれて、思わず振り向いた。ちょうど路灯の下に立つ先輩の横顔は、柔らかな橙色の光に包まれていて、夢の中にいるように見えた。いつもは落ち着いた表情のその顔に、今はわずかな緊張と迷いが滲んでいる。
「もし私が……これからも、ずっとそんなふうに笑っていてほしいって言ったら、どうする?」
「……え?」
言葉の意味をすぐには理解できず、視線が彼女の真剣な瞳と、わずかに震える唇のあいだを行き来する。心臓が一拍、強く跳ねた。
「君がチームに入ったあの日から、私はずっと気づいてたんだ」
先輩の声はかすかに震えていたけれど、一語一語を大切に刻むように、私の胸に染み込んでいった。
「グラウンドで必死に走る姿も、戦術を覚えようと食らいつく姿も……緊張するとつい視線を逸らしてしまう癖も……全部、ちゃんと見てた」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぎ、やがて夜の静けさに重ねるように告げた。
「私は、遙のことが好きなんだ。友達としてでも、仲間としてでもなく……ひとりの人として、本気で、君を好きになった」
その瞬間、頭の中が真っ白になり、時が止まったかのように動けなくなった。夜風が二人の間をすり抜けていくのに、胸を覆う混乱とときめきは、少しも吹き払ってはくれない。
顔を上げると、先輩の瞳が揺れていた。わずかに震える視線は、もし私が長く沈黙すれば、自分の衝動を後悔してしまいそうで――その不安が透けて見える。だけど、私には……何も言えなかった。返事を待つ彼女の前で、私の心はすでにここにはなかった。
別の顔が、幻のように脳裏の奥底に浮かび上がる。観客席から陽射しを背に微笑んでいたあの人。私が一番弱い時に、必ず最初に駆けつけてくれた人。
神崎星奈。
試合の傍らで一心に拍手を送ってくれた姿。図書館で解き方を囁くように教えてくれた声。完璧に見える横顔の陰に、ふとこぼれる寂しげな笑み。そして、運動会のあの日、雨の午後。全身びしょ濡れになりながらも、一歩も退かずに座り続けていた背中。
それらの光景が、波紋のように次々と押し寄せ、温かな水の層となって胸を覆っていく。
「……どうして、こんな時にまで、彼女のことを思い出すんだろう……」
胸の鼓動が乱れ始める。長いあいだ押し込めていた感情が、この瞬間、静かに浮かび上がってきたようで。私は俯き、指先で制服のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。それは、不安に言葉を与えられないとき、震えを押さえ込むための癖だった。
先輩は……本当に優しくて、温かい人だ。もし、神崎さんと出会う前の私だったら。きっと、とっくに心を奪われていたのかもしれない。
けれど今の私の心には、もう別の誰かが住んでいる。その人は、目の前の先輩ではなかった。
「……ごめんなさい」
夜風にかき消されてしまいそうなほど小さな声で、しかし誠実に口にした。
「今は……答えを出せない」
高橋先輩は一瞬黙り込み、それから淡い微笑みを浮かべた。
「……わかったよ」
責める色は一切なく、ただその瞳の奥には、私にも読み取れる寂しさが宿っていた。
「こういうことは、急いで答えを出すものじゃないから。……ゆっくり考えていい。私は待ってる」
そう言って、彼女は小さく頷き、静かな夜の中へと歩き出した。背中は次第に遠ざかり、足音は柔らかく響いて、私の胸に深い余韻を残す。
黄昏色の街灯の下に立ち尽くしながら、頬をなでる風を感じて空を仰ぐと、夜空にはまばらな星が瞬いていた。まるで、手を伸ばしても届かない答えのように。
心もまた、この夜の景色のように、揺らぎ、かき乱されている。けれどわかっている――私の心のどこか、光の届かない奥深くに、神崎さんの姿が静かに、確かに居座っていることを。それは誰にも触れられない場所。けれど、ただ彼女だけに残しておきたい場所だった。




