第4話 君がそばにいる夜
星奈の両腕は私をきつく抱きしめたまま、余計な言葉は一つもなかった。ただ静かに、私の泣き声が次第に途切れ途切れの嗚咽へと変わり、やがて彼女の胸の中で落ち着くまで、じっと待っていてくれた。どれくらい泣いていたのかは覚えていない。ただ、手のひらがずっと優しく背中を叩いてくれていたことだけは覚えている。まるで、「大丈夫、ここにいるよ」と囁いてくれているみたいに。
夕焼けが空一面を橙色に染め、斜めに差し込む光が空き教室へと入り込み、私たちの上に柔らかく降り注いでいた。その光は、言葉もなく、互いの鼓動をなだめてくれているようだった。
「……帰ろうか?」
星奈が小さく声をかける。抑えきれない優しさと、わずかな心配が、その声音に滲んでいた。
小さく頷き、ゆっくりと立ち上がる。脚はまだ少し震えていたけれど、彼女の手は離れなかった。冷えた私の指先をぎゅっと握り、その温もりが、掌からまっすぐ心の奥まで伝わってくる。
肩を並べて校舎の廊下を歩いた。校内はすでに夕闇に包まれ、人影のない廊下には、二人分の小さな足音と、かすかな息遣いだけが響いている。夕日が窓越しに影を長く、長く伸ばし、重なり合ったその形は、まるで言葉にならない約束みたいだった。
校門を出た瞬間、ひんやりとした風が頬を撫で、思わず肩をすくめた。
「寒い?」
星奈はすぐにそれに気づき、少しだけ顔を傾けて尋ねてくる。
「少しだけ……でも、大丈夫」
その声は風にかき消されそうなくらい小さくて、かすかな掠れと、控えめな照れが混じっていた。
次の瞬間、温かな上着がそっと私の肩に掛けられる。少し驚いて顔を上げると、淡い笑みを浮かべた彼女の視線と目が合った。
「羽織って。風、ちょっと強いから」
あまりにも自然なその口調は、優しくて、安心できるほど穏やかだった。
胸の奥がふっと熱くなり、何も言えずに俯く。指先が、無意識にその上着の端をきゅっと掴んでいた。
私たちはそのまま、放課後の街を静かに歩いた。空は次第に暗くなり、街灯が一つ、また一つと灯っていく。淡い光に照らされた影が足元に落ち、歩調に合わせてゆっくりと前へ進んでいく。星奈はさっきのことを問い詰めることもなく、ただ黙ってそばにいてくれた。それだけで、言葉のいらない、確かな支えになっていた。
川辺に差しかかったとき、自然と足を止めた。水面には星の光が映り、小さな波紋が幾重にも広がっている。柔らかな風が吹き抜け、胸に残っていた不安までも、そっと連れ去っていくみたいだった。
「……ありがとう、星奈」
ようやく口にしたその言葉は、囁きに近いほど小さかったけれど、確かに彼女には届いていた。
「謝らなくていいよ」
星奈は私のほうへ顔を向ける。瞳には淡い星明かりが映り込み、その眼差しは真剣で、揺るぎなかった。
「できるなら……遥が本当に安心できるまで、ずっとこうしてそばにいたい」
胸の鼓動が、そっと一拍早まる。ゆっくりと頷いた。その仕草は返事のようでもあり、言葉にしない約束を交わすみたいでもあった。
星奈はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を静かに滑らせて、短いメッセージを打ち込む。
「見つけた。大丈夫。今は私が一緒にいる」
宛先は黒羽だった。送信ボタンを押したその瞬間、夜風がやさしく私たちの髪を撫でていく。何も付け加えず、ただ少し首を傾けて、もう一度私の手を取った。今度は、さっきよりも自然で、そして確かな握り方で。
私は一瞬きょとんとしてから、彼女の掌の温もりをはっきりと感じ、反射的に握り返した。言葉は交わさないまま、肩を並べ、手を繋いで、静かな夜の中を家の方角へと歩き出す。
これは逃げでもなければ、痛みの終わりでもない。新しい始まりだ。
今夜の月明かりはやさしく、街灯は無言のまま、ぎゅっと繋がれた私たちの影を守ってくれている。誰にも見られていないこの時間の中で、私の呼吸はようやく重さを失い、ちゃんと、静かに息ができるようになった。
きっと、これから先の道は簡単じゃない。それでも、星奈がそばにいてくれるなら、こんなふうに、ただ手を繋いで前へ進くだけでも、また勇気を出して、あの困難や試練に向き合える。
私はそっと振り返り、少しずつ遠ざかっていく校舎を見つめながら、心の中で小さく呟いた。
——今度は、もう一人じゃない。




