第2話 場
場所は変わって、辺境です。
―――ふっ、よしよし、いいぞ……。
他の者に見えないよう細心の注意を払いつつ、隠した手札を眇めた目でそっと確認する。
程よい緊張に、スハは舌なめずりをしながら周りの者たちの様子をうかがった。
卓には、自分と同じように手札を確認しつつ、眉間に深いシワを刻んで唸る三人の男たちがいる。三人とも、スハと同じような平民の格好だが、こうして遊ぶ金があるくらいにはある程度余裕のある暮らしをしているらしい。同じ卓についてから勝負を重ねること数回、今のところ、男たちに勝負を切り上げて席を立つ気はまだないようだ。
それぞれスハよりかなり年配の男たちではあるが、皆一様に、捨てる札と温存する札の見極めに、己の一世一代の集中力を注ぎ込んでいる。額には軽く汗が浮き、札を睨む目も尋常ではない。
「さあ、これが最後の札だ。乗るか?」
三人とは別に、場を仕切るための親役の男がにやりと笑みを深めた。この男も、軽く四〇は超えているだろう見た目をしている。手札を吟味する男たちも、この親役の男も、ちょうど父のソンジェと同じくらいだ。
あの親父も、こんな風にもう少し遊び心ってものを持てばいいのに。
周りの男たちを見ながら、ふとスハはそんなことを思った。
とはいえ、ソンジェはこんな場所には決して来ない。賭博というものの存在はもちろん知っていても、こんなところに来るどころか、あのクソがつくほど生真面目な親父はきっと、今までの人生でただの遊びですら「賭け事」というものをやってみたことがないに違いない。
だから当然、俺がこんなところに出入りしてることを知られたら、タダでは済まないだろうな。
スハは、今年で一八歳になる。一八歳といえば、もう立派な大人だ。こんなところに当たり前のように出入りしていたとして、誰も咎める者はいない。
だというのに、ソンジェにとって、自分はいつまで経っても「世間を知らない子ども」らしい。
今どき、賭博の腕を真面目に磨き、真剣にそれで生計を立てている人間もいるくらいだというのに、世間を知らないのはどっちだと言いたくなる。賭博は、必ずしも人を破滅に導くだけのものではない。
まあ、と言っても、ここにいる奴らにそんな高尚な意志があるとは俺にも思えないけどな。
スハは思いながら、ちらと周りに目をやった。
隣街の細い通りに、ひっそりと開かれている賭け場。
外からは一見そうだとは分からないが、入口の扉を潜り、入り組んだ通路を進むと、静かな熱気と緊張、興奮に包まれた空間に出る。それが、今スハがいる場所だ。
この賭け場には初めて入ったが、かなり繁盛しているようだ。まだ昼間だというのに、それ程広くはない中にいくつも並べられた卓には、働き盛りの男たちが所狭しと額を突き合わせ、場上と手札を真剣な表情で見比べている。
賽を振る音や、札を配る音、捨て札が場上に放られる音。そんな音の合間に、男たちの歓喜とも悲嘆とも取れる呻きのような声も時折聞こえてくる。
こういう、外からは一見そうだとは分からないような場所は、たいてい「違法」である場合が多い。これが見つかれば、開く方はもちろん、入る方にも、決して小さくはない罰が課される。
それが分かっていてここにいるスハは、その事実を鑑みれば確かに、ソンジェが鬼のように眦を吊り上げて鉄拳を振るおうとしてきたとしても、文句を言える立場にない。
卓では相変わらず、他の三人が唸りながら自身の手札をまだ睨んでいる。―――と、スハも彼らと同様に手札を睨むようにしていた時、後ろの卓に人が座る気配を感じた。
そしてそこから、低めた声でこんな話が聞こえてくる。
「―――おい、知ってるか?」
「なんだ?」
「ここの賭け場だけどよ、何度か続けて勝ったら、その最後の勝負は普通の十倍の掛け率で儲けが増えるらしいぜ」
「なに、十倍だと……!?」
話している方に対して、聞いている方は息を呑んだように声を上げたあと、思わずもらしてしまったその驚きが、この場にいる他の連中に聞こえないよう慌てて口を押えた。いや、話し声が聞こえる卓はスハの後ろにあるため、正確には、口を押えた気配が伝わってきたと言う方が正しいか。
男たちは、尚もひそひそと話し続けている。
「―――それで、その続けて勝つってのは、何回勝つ必要があるんだ?」
「たしか、三回だったか……、いや、五回だったかな……。ああ、そうだ、五回だ、五回。間違いねえ。五回続けて賭けに勝ちゃあ、その勝負の儲けがさらに十倍になるって話だ」
「五回で十倍か、なるほど。こりゃあ、いいことを聞いたぜ」
くっくっ……、と落とした声で笑うのが聞こえてくる。
―――ほお、なるほど。
「さあ、どうする」
聞こえた話に口元を僅かに緩ませたところで再びかけられた親役の声に、スハの意識は目の前の勝負に引き戻された。
「自信が無えなら、勝負を下りるこった。これ以上は待てねえぞ」
さらに拍車をかけるように、親役が煽りを放ってくる。
今この卓で行われているのは、参加者同士の勝負ではなく、親と子とで勝負を行う賭けだ。子は決められた基準に則って、決められた回数、手札を交換することができる。交換が終わり、最後に場上に明かした札が親に勝つことができれば、手札から算出される変数を掛けた取り分を得ることができる。逆に、負ければ、賭け金をすべて親に持っていかれるという仕組みだ。
ちなみに、交換をすべて終えた状態で手札が満足に揃えられなかった場合は、その勝負を下りることもできる。ただし、下りる場合には、賭け金の半分を持っていかれることになる。
勝負に参加した子が自分の持ち金を減らさないようにするには、始めた勝負には最後まで乗り、勝つしかない。
たとえ少額でも自分の持ち金を減らすことを良しとするか、勝負に乗って持ち金を何倍にも増やすか、この賭けはそういう遊びなのだ。だが、そうなると、少額の保身より爆発的な儲けを狙う者の方が多くなるというもので。
「もちろん、乗るに決まっている!」
「おう、俺もだ!」
「当然だな!」
一瞬前まで悩んでいたのが嘘のように、スハ以外の三人ともが挑戦的な笑みを浮かべ、伏せた手札を勢いよく場上に置いた。
おいおい、調子いいな、おっさんたち。
スハは思わず心の中でそう呟いてしまうが、実際にそれを口に出すことはしない。恐らく、先程後ろの卓でなされていた会話が、他の三人にも聞こえていたのだろう。儲けが十倍になると聞けば、勝負師であれば血が騒ぐというものだ。
賭け場では、誰かが何気なく口にした言葉がその日の結果を大きく左右することもよくある。自分の手札に集中していたとはいえ、賭博をやり込んでいればやり込んでいる程、そういう声は耳につくようになっているのだ。
そして、すぐ近くでなされた魅惑的な話に乗らない人間は、恐らくこの場にはいない。
三人が場上に手札を置いたところで、親役の男も含め、四対の目がスハに寄せられた。
さて、どうするか。
もちろん、スハとて負ける気はさらさらない。
だがその前に、一応確認しておくことがある。
スハは四人を順に見回したあと、手札を持ったままおもむろに腕を組み、ふっと口元を緩めた。
「なあ、その前に一つ確認しておきたいんだが、」
「ああ、なんだ?」
元々にやにやと下卑た笑いを浮かべていた親役の男が、さらに黄色い歯を覗かせる。
「実はさっき小耳に挟んだんだが、ここの賭け場は、五回続けて勝てば取り分が賭けた分の十倍に増えるというのは本当か?」
まさかそれを馬鹿正直に確認するとは思っていなかったのだろう、先に賭けに乗った他の三人が顔色を変えてスハを見た。だが、止めることはしない。その真偽が気になるのは、彼らも同じようだ。
「ふん、そのことか」
親役の男は言うと、先程と変わらない笑み―――いや、先程よりもさらに下品な笑みを浮かべてスハを見た。
「ああ、その話は本当だ。五回続けて勝てば、しっかり十倍になる」
男が答えると、周りで聞いていた者達も「おお、やはりその話は本当だったんだな」「こりゃあツイてる」と一気に色めき立つ。さらに、「それなら、今からでも賭け金をもっと増やしておいてもいいか!?」「俺もそうさせてくれ!」と次々と懐から金を出し始めた。
そうして、他の全員が有り金すべてを出しきったところで。
「ふむ、ならばよかった」
スハはにっこりと笑い、そこでようやく組んでいた腕を解いた。そして、ゆっくりと自分の手札を場上に置く。
「なら、俺も乗ろう。俺も、この勝負に有り金をすべて突っ込む。これで十倍だ」
「ああ、もちろんだ。―――勝てば、な」
にやりと笑った親役が、場上にゆっくりと札を開示する。
途端に、周りで「……くそっ!」「なんだと……!」という悪態が聞こえ、スハと一緒に勝負に乗った男たちが、この世の終わりとでも言うように次々と頭を抱え始めた。どうやら、すべてを注ぎ込んだにも関わらず、誰もかれも、この賭けに勝てた者はいないようだ。
この卓の勝負は、今のでちょうど五度目。そして、ここにいる者たちは皆、ここまで調子よく勝ち続けていた者たちばかりだった。
人間、勝ちが続けば自然と気も大きくなるというもので、感覚は狂い、正常な判断ができなくなり、財布の紐はどんどん緩くなっていく。普通でもそうなのに、「五回続けて勝てば十倍になる」という餌が目の前にチラついていれば、それに手を伸ばしたくなるのが人の心理というものだ。
だが、結果は大負け。ここまでの儲け、元々の持ち金、賭けたすべてを失うとなれば、さすがに痛い。いや、痛いどころでは済まない。
まるでそうなることが分かっていたかのように、親役の男はその様子をしたり顔で見やり、「くくっ、残念だったな、金は回収だ」と笑いながら、男たちの金をすべて回収用の袋に収めていく。
そのままその袋を懐にしまおうとするのを見て、
「―――おっと、それはまだ早い」
と親役の手を掴み、スハはにやっと口の端を上げた。
「しっかり見ろ。その金は、すべて俺のものだ」
不適に笑いつつ、場上に置いていた自身の札を返す。
「……っ、何だと……!?」
それを見た親役の男が、信じられないものを見たように言葉を失った。
「八と八、ゾロ目の龍だ。この勝負、俺の勝ちだな」
そして、親役、負けた男たち、すべての恨めし気な視線を浴びながら、スハは十倍に膨れ上がった金のすべてを、それ用に持参した大きな袋の中に悠々と収めていった。




