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第1話 蔡


第三部は、第二部から5年後、ギテ視点からのスタートです。


 蔡景(さいけい)の大国、紫微国(しびこく)は豊かな土地に恵まれた国だ。


 四季折々に美しく姿を変える山々、いくつも流れる大きな河川、そして、作物が豊富に育つ肥沃な大地。

 元々、三景(さんけい)の中でも南にある蔡景は、北の尚景(しょうけい)、東の冲景(ちゅうけい)よりも暖かく、一年を通して気候も穏やかで落ち着いている。


 人が暮らしやすい場所は、往々にして、その他の生き物すべてにとっても生きやすい場所となる。草木は瑞々しく葉を広げ、それを食む動物もまた、力強く成長する。

 それは、戦時に兵の力となって動く馬も変わらない。


 養分が豊富な土壌が育んだ作物を口にする馬は大きく強く、さらに、広く壮大な草原をいくつも駆けることのできるこの地の馬には、昔から名馬が多い。

 

 元来、人というものは、自身がより暮らしやすい場所を求め、見つけたそれを手に入れるために死力を尽くして戦うものだ。そのため、蔡景では昔から、他の二景と比べて、時代のその時々で何度も激しい争いが繰り広げられてきた。


 紫微国の祖がこの地に国を開くまでにも、数多(あまた)の困難があったと言われている。それでも、数々の死闘を潜り抜け、今日(こんにち)までに至る大国の礎を築き上げた初代の王には、脱帽を禁じ得ない。


 だが、それに勝るとも劣らない者が、今この国には君臨している。


 今代の王―――今や三景全土から「大鷹」と恐れられる大王クァク・ソンドは、歴代の王の中でも、恐らく断とつに「才」に恵まれた男だ。


 それは、文、武における、額面上の才だけではない。時流を読む目、過たず核心を引き寄せる引力、必要とあれば鬼にも邪にもなれる精神。

 そして何よりも、飴と鞭を使い分け、必要な人間は()()懐に取り込むという、決して誰にも真似できない人心掌握術。


 この国に生きるすべての者が、大王のことを深く尊敬し、憧れをもって大王がおわす中央を仰ぎ見る。


 それはいずれ、この紫微国だけでなく、蔡景全域、さらには、尚景、冲景のすべてを含めた三景全土にまで及ぶことになるだろう。


 この紫微国の大王クァク・ソンドを、三景のすべての民が畏れと誇りをもって恭しく仰ぎ見る時が、すぐそこまで迫っている。


 そして、その時はもう、それ程遠いことではない。







「取り次げ」


 扉の前に控えていた内官(ないかん)を通して来訪を告げると、中から「入れ」という声が聞こえた。


 頭を下げつつ道を空ける内官の前を過ぎ、扉を潜る。目隠しのために幾重にも垂れた薄布が、細かな風を受けてゆらゆらと揺れている。


 最後の一枚を退けて中に入ると、むわっとした白い熱気が途端に全身を包んだ。

 ギテが声をかけるより先に、ざばあ……っ、と水からあがる音が耳に届く。


 丁寧に削られた白石と、美しい模様を描く薫り高い木が丁寧に組まれた湯殿には、惜し気もなく注がれたお湯がたっぷりと揺れている。三、四〇人はゆうに入れるだろう広さのそこには、色鮮やかな花弁がいくつも散らされており、立ち昇る湯気に混じって微かな香りが漂ってくる。


 明かり取りから差し込む陽の光が反射して、揺れる水面が天井をゆらゆらと照らす中、今しがた湯からあがったばかりの大きな体躯(たいく)が悠々とした足取りで壁際の卓へと向かった。


 五〇が近付いてもなお、衰えることを知らない引き締まった体。肌には張りがあり、老いを知らない長身の背には、幾筋も伝う滴が弧を描いている。

 その背や四肢には深い傷跡がいくつも走っているが、その(いびつ)な傷跡ですら、その人間の価値を高めるものでしかない。


 ギテの目などまったく気にしていない様子で、卓に無造作に放られていた湯浴み用の上着を掴むと、ソンドはそれをばさりと羽織った。その勢いに負けていくらか飛沫が飛ぶが、それにギテが表情を動かすことはない。


 濡れた髪をかき上げ、首筋に伝う滴を軽く払いながら鷹揚に振り返ったソンドに、ギテは顎を引いて頭を下げた。


「お寛ぎのところ、申し訳ありません」

「いや、よい。戦場から戻ったばかりのそなたに、ここに来るよう言ったのは私だからな。そなたこそ、そのように鎧も解かぬままでは、ここではさぞ辛いであろう」


 くっと喉の奥で笑って、この主君にしては珍しく、本当に楽しそうに目を細める。恐らく、自分が持ってきた知らせに気をよくしているということもあるのだろう。


 自分が王宮まで戻るより先に、早馬を走らせている。ソンドはその知らせを既に聞いているはずだ。


「平素よりこれで過ごすことも多くございますれば、辛いなどとは特に」


 四〇を過ぎても、戦場を駆けていることの方が多い。重さや窮屈さ、中に籠もる熱気の不快さなど、既に何も感じない。


 ギテの言葉に「くっくっ……」と低い声でさらに笑みを深めるソンドは、卓上の酒を注ぎ、一気にそれを煽った。


「そなたも呑むか」

「いえ、私は」

「ふっ、つまらん奴だ。このような時くらい素直に受け取ればよいものを」

「ありがたきお言葉にはございますが、報告がまだですので」


 ギテに向かうソンドの眼の光が、その言葉を受けてぎらりと変わった。そして、その光を宿したまま、うっそりと口角が広がる。


 自然と畏れを抱かせるその迫力は、世継ぎですらなかった王子から立ち上がり、三景全土からその統一に一番近いと言わしめるまでに強大な存在になった今でも、何ら変わらず健在だ。むしろそれは、さらに深みを増していると言える。


 ギテは左手に持っていた太刀を右手に持ち替え、その場にざっと片膝をついた。鎧の背に肩から垂らした長い掛布が床に広がり、水に濡れて色を替えるが、そんなことはこれからあげる報告に比べれば何でもない些末なことだ。


「西の栢亜国(はくあこく)がついに降伏を申し入れてきました。諸事、これから話を詰める必要はまだございますが、ひとまず、これで蔡景のすべてが大王様の手中に収まったことになります。お祝い申し上げます、大王様」


 ギテは片膝を立てた状態で(こうべ)を垂れ、ただ淡々とその事実を告げた。

 蔡景に残っていた最後の国が、この紫微国の―――ひいては、大王であるソンドの手中に収まることは、何も驚くべきことではない。むしろそれは、初めからそうなると決まっていた予定調和に過ぎないからだ。


 蔡景を手に入れることは、単なる通過点でしかない。


 それは当然、ソンドにとっても同じだろう。ほんの一瞬浮かんだ凄みのある光は瞬き一つのうちに霧散し、上げた口の端でふっと小さく笑ったかと思うと、ソンドは少し前と同じ調子に戻って酒を傾けた。そして、その味をより愉しむように舌の上で転がしたあと、ゆっくりと喉に落とす。


「ふっ、無事に報告も聞いたことだ。これでそなたも存分に酒が呑めるな、ギテ」

「は」


 出された器を今度こそ恭しく受け取り、そこに注がれた酒に口をつける。少し辛めの澄んだ香りが、喉に染み渡るように広がっていく。それで初めて、自分の喉がひどく乾いていたことに気がついた。


 空いた器に、再び並々と酒が注がれる。それをまた、軽く掲げてから静かに煽る。


 ソンドは卓のへりに軽く腰かけ、酒に直接口をつけて喉に流し込んでいる。縁からこぼれた酒が、喉を伝って湯上がりの胸元に落ちていくが、それを気にする様子はない。


「―――して、向こうもただで降伏を申し入れてきたわけではあるまい。仮にも、西の砦だ。何を求めてきた」


 それまでと同じように、酒を流し込みながらソンドが笑った。


 一つの国の行く末も、この場では単なる酒の肴に過ぎない。それがたとえ、大いなる夢を今一歩「先」へと大きく動かすものであったとしても、それは変わらないのだ。


 紫微国の軍を率いた将として、降伏を申し受けた場から持ち帰った内容を、そのままソンドに伝えた。


「ふっ、くくっ。栢亜国は代々善政を敷いていると聞いていたが、やはり今代は腐敗した臣の傀儡であったか」

「どうなさいますか」

「ふん、「国」としての最後の希望だ。我が紫微国の不利益にならぬ限りは、その()()な希望とて、存分に叶えてやればよい」

「承知しました」


 頭を下げたギテに、ソンドがおもむろに、ふい、と軽く手を振る。


「私はもうしばらくこの酒を愉しむ。そなたは下がってよい」

「は」


 右手に持ち替えていた太刀を再び左に戻し、立ち上がったギテはその場を辞去しようと再び頭を下げた。濡れた掛布が、水気を含んだ音を立てて重く足に当たる。


「―――ああ、ギテ」


 頭を下げた形のまま、ゆらゆらと幾重にも揺れる薄布の方へ下がろうとしたところで、何かを思い出したようにソンドが言った。鷹の目を細め、僅かに口角を上げてこちらを見ている。


「これまで、ご苦労であったな。まずは、此度の戦の疲れを癒せ」

「―――もったいなきお言葉にございます」


 表情を変えないまま目だけを下げてそう返し、いくらか後ろに下がったところで踵を返して、ギテはそのまま湯殿をあとにした。


 すれ違う者もいない回廊を歩きながら、常は無表情な目をギテは僅かに細める。


 かつては将の一人として、今は紫微国の軍すべてを率いる大将軍として、常に先陣を切って駆けてきた。

 ここまで、既にかなりの年月を費してしまったが、蔡景という地は他の二景に比べて覇権争いが激しく、そのすべてを一手にまとめるのに最も時を要するだろうことは、初めから分かっていたことだ。ゆえに、蔡景が手に入れば、あとは容易い。


 ―――とはいえ、自分がやることは今までもこれからも、何も変わらない。


 主の(めい)は、絶対。

 自分はそれを、ただ果たすだけだ―――。


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