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閑話(1) 親子になった日

 ソンジェはちら、と一度後ろを振り返り、それから生垣の中へ足を踏み入れた。


「着いたぞ。ここだ」


 中に入り、再び後ろを振り返る。様子をうかがうように、そろそろとした足取りでソンジェの後ろから入ってきたのは、一人の女人だ。その腕には生まれて間もない小さな赤子が抱かれ、すやすやと気持ちよさそうに眠っている。


「こちらが土間で、厠はあちらにある。それから、部屋は二つあって、こちらは俺が使っているから、あんたはそちらを使うといい」


 赤子を抱いた女に説明しながら(えん)に上がり、ソンジェは女に示した方の引き戸のつまみを引いてみせた。がたん、と音を立てて扉が開く。


「……少し埃臭いな。しばらく使ってなかったから無理もないか……。あとで掃除しよう」


 普段自分が使っている方の部屋より、こちらの部屋の方が少し広い。普段、広い方ではなく狭い方を使っているのは、単にそちらの方が縁に近くて出入りがしやすいからなのだが、狭いため必要以上に物が置けず、いらないものはすべてこちらの部屋に詰め込んでいる。それも、少し移動させる必要がありそうだ。


 独り言のように呟くソンジェの後ろで、女は赤子を抱いたまま、軒先にいくつか下がる白い袋を不思議そうに見上げていた。


「―――ああ、それは薬材が入っているんだ。まだ準備をしているところなんだが、ここで薬房(やくぼう)を開こうと思ってな」

「薬房……?」

「薬屋だよ。怪我をした時や、病気をした時に、少しでも誰かの助けになれればと思ってな。まだ本当に、まったくの準備段階だが……。あの山にも、そのための薬草を採りに行っていたところだったんだ」

「……そう、ですか……」


 女は小さく頷いて、腕の中の赤子をぎゅっと抱き寄せた。


 女は、名を「ユンファ」というらしい。

 数カ月前、ここから少し離れた山で、背に大きな傷を負っているところを近くの村人に発見され、たまたまそこに居合わせたソンジェが介抱にあたった。なんとか一命を取り留めることができたものの、半身に少し後遺症を残すことにはなったが、こうして起き上がり、歩けるまでに回復することができた。


 それがなぜ、今こうしてソンジェとともにいるかというと。


「……ふえっ」


 先程まで静かに眠っていた赤子が、急に小さな眉をしかめ、顔を赤くして盛大に泣き始める。おしめか、腹が空いたか、急に泣き出した赤子の世話に、ソンジェは大慌てで動きだした。


 ユンファと同じ時にソンジェが助けた赤子。こちらも見つけた時には衰弱がひどく、正直、もう駄目かと覚悟していた。だが、赤子はなんとか持ちこたえてくれ、今では死にそうだったのが嘘のように毎日元気に泣いている。


 ―――二人は親子だろう。


 それが、助けた村人たち総じての見解だった。けれど。


 ―――すまんが、この村にあの親子を置いてやる余裕はない。あんたのとこで引き取ってくれないか?


 それは、単純に住む場所がないという以上に、何やら事情を抱えていそうな厄介な親子を引き受けることはできないという意味だったのだと思う。


 大怪我から目を覚ましたユンファは自分の名前以外のほとんどの記憶を失っており、赤子も、生まれたばかりだというのに外に連れ出され、あんなところで一人衰弱死しそうになっていたのだ。何かない方がおかしい。


 だが、たとえ二人に何の事情もなくとも、ソンジェとて暮らしに余裕があるわけではない。正直、断るのが賢明だと思った。しかし、せっかく助かった命を放り出すこともできない。そうして、結局二人をここまで連れて帰ることになったわけだが。


 ひと段落つき、ソンジェは縁に腰かけ、赤子を抱いてあやすユンファに目をやった。


「……なあ、あんた、本当にここで暮らして大丈夫か?」

「え……?」

「ここまで連れてきておいてなんだが、俺とだと気が休まらないだろう。別にここじゃなくても、好きな場所で暮らせばいいんだぞ? 赤子の面倒なら、心配しなくても、俺もたまに見に行って手伝うことくらいはできるんだ」


 ユンファは驚いたようにソンジェを振り返ったあと、少しして、困ったような、心細そうな顔で俯いた。


「……やっぱり、ご迷惑……ですか?」

「いや、迷惑というわけじゃないんだが……」


 なんというか……、とソンジェは言いにくく頭を掻いた。


 やはり、若い女子(おなご)が男の一人暮らしの家に転がり込むのは、今後のことを考えてもあまりよくないのでは―――と、そう思ったのだ。


 どういう事情があるのかは分からないが、ユンファと赤子が実の親子でないことは分かっている。わざわざ村人たちに話すことはしなかったが、赤子の産みの親は別にいるようだ。

 本当の親が探しにくるかもしれないし、そうなった時に、男と暮らしていたとなったら、ユンファにとっても外聞がよくないのではないだろうか。


 断じてそんな気はないとはいえ、世間的にはソンジェもいい歳をした男だ。本来なら、とっくに妻を娶っていて当たり前の年齢でもある。

 そんな男とひとつ屋根の下に暮らすのは―――などと考えていたら、(やま)しい気持ちなど毛ほども無いにも関わらず、何やら妙な居心地の悪さを感じ、ソンジェは強く(かぶり)を振った。


「あー、とにかくだ! いたいだけここにいることはまったく構わないが、出ていきたくなったらいつでも遠慮なく言ってくれたらいいからな!」

「あ、ありがとうございます……」


 なんとなく動かずにはいられないような心地になり、大袈裟に立ち上がりながら言ったソンジェに、ユンファはほう……と安心したように息をつく。


 ああ、そんな安心しきったような顔をせんでくれ! そこはもっと警戒を―――いや、俺は一体何を言ってるんだ……!


 考えてみれば、ユンファは記憶を失っているのだ。自分が本来どこで何をしていた人間なのかまったく思い出せない状況というのは、想像以上に辛く、心細いことだろう。ユンファにしてみれば、藁にも縋る思いなのかもしれない。


 加えて、赤子のこともある。

 実の親が誰なのか分からないのだから、探しようがない。だが、ユンファはどうしてかこの赤子から離れようとしない。となれば、赤子は自然ユンファが育てることになるだろう。一人で子を育てていくのは本当に大変なことなのだ。


 もうすぐ日も暮れる。ここで梯子(はしご)を外すことは、やはりできんな……。


 ソンジェは諦めにも似た息を小さく吐きつつ、三人分の夕飯の支度をするため、土間へと向かった。







「ついにそなたも、嫁を迎える気になったか」


 やって来たヨンギルに言われ、ソンジェは一瞬何を言われているのか分からず面食らった。


「皆が噂しているぞ。しばらく家を空けていたソンジェが、若い女子(おなご)を連れて戻ったとな。しかも、女子は子連れだという。事情は知らんが、その親子を引き受けるとは、あの堅物(かたぶつ)が余程その女子に惚れているのだろう、とな」

「な……、一体何の話ですか! 嫁などと、そのような―――」


 言いかけて、そこでソンジェは言葉を止める。赤子を負ぶったユンファが、川での洗濯を終えて戻ってきたからだ。


「おお、そなたがユンファとやらか。どうだ、ここでの暮らしにも少しは慣れたか?」


 ヨンギルはソンジェの反論などお構いなしにユンファに声をかけた。

 元々穏やかな性格なのだろう、初めの頃は少し遠慮するようにしていたが、今では近所の人々ともすっかり打ち解けて、笑顔で会話をする姿も見かけるようになった。声をかけたヨンギルにも、ユンファは穏やかに微笑んで返す。


「ええ、もうすっかり。皆さん、よくしていただいて。ナ教吏(きょうり)様ですよね? ソンジェさんからお話はうかがっています。様々な薬の扱い方を教えてくださった方だと」

「いやいや、私はそんな大したものではない。この男が熱心に聞いてくるから、私はただそれに答えてやっているだけだ」

「それでも、そのおかげで、私はソンジェさんに命を救われました。ありがとうございます」

「ははは、本当に何もしておらんが、そう言われると悪い気はせんな」


 そして、ヨンギルはユンファの背後に視線を移す。


「して、これがともに助かったという赤子か。おい坊主、こんな父と母がいて、お前は幸せ者だな」

「ナ教理様! ですから、それは違うと―――」

「まあ、よいではないか。子には親が必要なのだ。今はともかく、既成事実さえあれば、あとはいくらでも―――」

「な、何を言ってるんですか!」

「お、そう赤くなるところを見ると、そなた実はまんざらでもないのではないか?」

「な……っ!」


 ヨンギルのにやけ顔に、ソンジェはただはくはくと何も言えず口を開閉する。


 ユンファを変な目で見ているわけでは断じてない。断じてないのだが、ここに来る前はまったく平気だったユンファの背中への薬の塗布が、最近なんだか妙にやりにくいのは感じている。

 人に変わってもらおうにも頼める相手もおらず、仕方なく肌をなるべく直視しないよう塗ってはいるが、そろそろ限界だ。これは石だ、木だ、なんだと、自分に言い聞かせながら、半ば修行のような心持ちで対応しているというのに。


「……んう、ふぎゃあっ……」


 折よくちょうど泣き始めた赤子に、これ幸いと、ソンジェはユンファの背中からその体を抱き上げた。


「おお、スハ、どうした。腹が減ったか? それとも、おしめかな?」

「スハ……?」


 思わず口をついて出たそれに、ユンファとヨンギルが首を傾げる。はっと固まったソンジェは、己の無意識に少々慌てつつ、弁明を始めた。


「ああ、すまん、勝手に……。いつまでも名がないのも不便かと思ってな。俺の中だけで勝手に呼んでいたものが、つい口から出てしまった。こいつの母親はあんただ。あんたが好きなように名をつけるといい」


 言うと、ユンファはふふ、と微笑んで首を振った。


「いえ、スハ―――よい名前だと思います」


 そして、「よかったわね、スハ」と言いながら、ソンジェが抱いたままの赤子の頭を優しく撫でている。急に、ほんのりと胸が温かくなるのを感じた。


 まさかの形で名付け親になってしまった。なんだか照れくさい。


「なんだ、ソンジェよ。そなた、しっかり父親の顔をしているではないか」

「ち……父親……?」


 また慌てかけるソンジェに、ヨンギルは楽しそうに目を細めて笑う。 


「何も、無理に()になる必要はないのだ。そなたら三人は、よい()()になると思うぞ」

「親子、ですか……」


 腕の中を見下ろすと、数瞬前には顔を歪めていた赤子は、ソンジェの胸で何やら楽しそうに小さな指をにぎにぎして遊んでいる。

 少し遠慮がちにユンファを見ると、ソンジェの問いに応えるように、こちらも穏やかに微笑み返してくれる。


 親子か……。たしかに、それも悪くない。


 再び、楽しそうに遊ぶ赤子に、そっと視線を落とす。


「スハ、今日から俺が、お前の()()()だぞ」


 幼子(おさなご)に笑いかけるのには、まだ慣れていない。ぎこちなく微笑みかけると、スハはにぱあっ、と嬉しそうに笑ったあと、ぶーっと盛大に唾を飛ばしてきた。


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