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第49話 託

 

 命の(ともしび)が消えていく。

 まだ伝えなければならないことが残っているのに、抗うことすらできず、こぼれていく。






 ―――寒い。

 痛みは感じないのに、凍えるような寒さは感じる。

 流れていく血とともに、全身の熱が急速に失われていくのを感じる。


「……ナ教吏(きょうり)……様、」


 もはや、首どころか、指先一つだって動かせない。少しでも息がしやすいようにという配慮か、肩を抱き上げてくれたヨンギルへ、ユンファはのろのろと視線だけを向けた。


「お話……が……」

「ユンファ、口を開いてはならん……!」


 言いきる前に、ヨンギルが沈痛な面持ちで苦し気に首を振る。


「いたずらに口を開けば、ただ時を縮めるだけになるぞ……! スハ達が戻ってくるまで、持ち堪えられるかどうか―――」

「……それは、承知……しております」

「ならば……!」


 ユンファを見るヨンギルの目が、また苦し気に歪む。どうすることもできない悔しさを押し込めるように、唇を噛み締めているのが見える。


 分かっている。口を一つ動かすたびに、胸の傷からはどくどくと熱いものが溢れ、そのたびに体の熱が奪われていく。


 もう、あまり時間は残されていない。

 誰に言われなくても、ユンファ自身がそれを一番よく分かっていた。


 けれども、話さなければならない。伝えなければならない。

 あの子が本当は、誰の子で、本来あるべき場所が、どこなのか。それを知っているのは、自分しかいないのだから―――。


「……ナ教吏様、どうか私の話を……、聞いてください」


 力を振り絞り、ユンファはヨンギルを見上げた。


「私には……もう、時間がありません……。あの子が戻ってくるまで、耐えられるかどうか……。ですから、代わりに、……私の話を、聞いて……いただきたいのです」


 喉が詰まり、強くせき込んだ。そのひょうしに、傷口からまた、ぞぶり、と(なみ)のように大量の血が溢れる。

 もはや、止血など何の意味もなさない。それをヨンギルも分かっているのだろう。呻くようにそこに視線をやったあと、それでも何かを堪えるようにしながら、ヨンギルは「……分かった」と頷いた。


「そこまで言うのであれば、私が代わりに話を聞こう。だが、スハが戻ってくるまでだ。大事な言葉は、必ず自分で伝えるのだぞ」

「ありがとう……ございます」


 その言葉に、ほう、と安堵の息がこぼれた。


 よかった。これであの子に真実を伝えられる。このまま自分が、すべての秘密を抱えたままあの世へ行くことだけは、防ぐことができそうだ。


 そう思った途端、急に視界が涙でぼやけた。張っていた気が、少しだけ緩んでしまったようだ。目の奥が熱くなるのを、瞬き一つでようやく押し流す。


 ただ口を開くだけでも、かなりの部分を消耗する。残された時間は限られている。急がなければと思うのに、なかなか思うようにいかない。


 ユンファは何度か呼吸を繰り返し、乱れた息を整えてから、ようやく話し始めた。


「本当は……、もっと早く、あの子に伝えるべきでした……。でも、……愚かな母の、せいで……、あの子は……スハは……、今日まで……真実を知ることなく、過ごしてしまいました」

「愚かな母など、誰もそのような……」

「いいえ……っ、そうなのです……。決して忘れてはならなかったのに……、私は、恐ろしさに負けて……、今日まで記憶の蓋を……、開けることができなかった……」


 話す声に、喘鳴(ぜんめい)が混ざる。喉に力を込めようと思うのに、体のどこにも力が入らない。口からもれるのは、囁くような掠れた音ばかりだ。


 だが、それでもヨンギルはユンファの言葉をしっかり聞き取ってくれたようで、「記憶の蓋―――?」と呟いた表情がはっと驚愕に染まるのが分かった。


「もしや、ユンファ、そなた―――!」

「……ええ、思い出しました……、何もかも」


 とても、遅くなってしまったけれど。でも、ようやく、すべてを思い出すことができた。

 自分が本当は何者で、どこで、何をしていた者なのか。そして、決して忘れてはいけない、あの真実を。


 ユンファは弱く微笑み、ヨンギルを見つめた。


 罪深い自分に、穏やかな日々と温かな時間を与えてくれたあの子に、その真実を伝えなければならない。


「……あの子……スハは、本当は……私の子では、ない……のです」

「何……? スハが、そなたの子ではない……? それは、一体―――」


 戸惑う様子のヨンギルに、ユンファは言葉を続ける。


「ナ教吏様……、どうか、スハに……伝えてください。本当の、産みの親を……お母上を、探しなさいと」

「本当の産みの親を、探す―――?」


 呟くヨンギルに、ユンファは僅かに頷き返すことしかできない。


 生まれたばかりの赤子であったスハの命を狙っていた彼ら―――チョンミョンと、ギテ。


 特にチョンミョンにとって、スハは思い出したくもない嫌悪すべき記憶の一つだったに違いない。ゆえに、ああすれば、チョンミョンならば必ず、不要な労力をわざわざ費やしてまでスハの行方を追うことはしないだろうと考えた。そもそも、生きているかどうかを気にすることすら、チョンミョンにとっては忌避すべきことなのだろう。


 皮肉なことだ。死んだことにされることが、逆に、スハの命を守ることになるなんて。


 思ったところで、突如、ごぼっ、と(むせ)るような鉄の味がせり上がった。


「……うっ、……ごほっ……はあ……、はあ……」

「ユンファ、大丈夫か! しっかりしろ……!」


 少しずつ、視界が狭まり、幕で覆われるように徐々に何も見えなくなっていく。先程までは聞こえていたヨンギルの声も遠く、まるで水の中で聞いているように判然としない。口から漏れる自分の声すらも、あやふやだ。


 五感が、徐々に失われていく。もはや、寒ささえ感じない。


 その時が、迫っている。

 まだ、すべてを伝えられていないのに―――……。


 勝手に離れようとする意識を、ユンファは必死にこの世に繋ぎ留めていた。


 まだ、伝えなければならないことがある。スハが本当は、誰の子なのか。本来あるべき場所が、どこなのか―――。


 けれど、意志に反して、ユンファの意識は徐々に白い靄の中に包まれていく。


 遠くの方で「その産みの母とは、一体誰なのだ―――」、そう投げかけるヨンギルの声が聞こえた気がした。あやふやな感覚の中で、「……とじょう……の……、おうきゅう、に……」となんとか口だけをその形に動かしたが、それが声となってちゃんと届いているのか、自分ではもう分からなかった。


「ユンファ、しっかりしろ……! しっかりするんだ……!」


 耳元でヨンギルが必死に叫んでいるのが聞こえる。だが、その音がユンファの中で意味をなすことはない。


 それでも、最後の力を振り絞り、見えない目で、聞こえない耳で、ユンファはヨンギルにすべてを遺す。


「スハは……、天命の子です……。きっと、運命に導かれ……、自分の本来の場所を、取り戻すことができるはず……。それまでどうか……、あの子を、よろしくお願いします……」


 言った。伝えた。自分にでき得るすべてを懸けて、それを託した。

 あとは、信じるだけだ。重い宿命を背負うあの子が、何にも負けず、強く生きてくれることを。


 スハ―――。


 (まなじり)からこぼれた涙が、つ……と頬を伝う。


 大切な、私の子。


 これからも、遠くからあなたを見守っているから。だから、何があっても、どうか生き抜いて―――……。


 そう願ったのを最後に、ふつり―――、とユンファの意識は途絶えた。


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