第44話 探
スハは、夜の中をひた走った。
闇雲に走っても仕方がないとソンジェには言われたが、自分にできることはそれしかないのだから、足を動かし続けるしかない。
気だけが急いて、何も考えられない。気になる物陰があれば一つ残らず確認し、そこに何も無いのを見て安堵するとともに、また新たな焦燥が募る。それをひたすら繰り返す。
そもそも、なんで母さんが―――……。
走りながら、もう何度思ったか分からないそれを再び思い、スハは唇を噛み締めた。
早くしないと、本当にどうなってしまうか分からない。もしかしたら、無事じゃないことだって……。
考えてもどうしようもないことだけが頭の中をぐるぐると回り、その度に焦りだけが増していく。
スハは一度足を止め、辺りを見渡した。
この辺りはもう探し尽した。これ以上ここを走り回っていても、あまり意味がない気がする。
顎に伝う汗を拭い、乱れに乱れた息を整える。
ここまでずっと走り通しだ。履いていた草鞋もところどころが擦り切れ、汗と砂ぼこりで足の先まで真っ黒になっている。
もし、ユンファが今もどこかに捕えられているとしたら、近くに人気がない辺りにいるに違いない。
あと探していない場所で、そんなところがあるとしたら……。
ぐるりと見回した視界の端に、少し上り調子になった道の入口が映った。―――波止場が望める場所に続く、あの道だ。
そして、スハの脳裏に、先日の光景が蘇る。
あの時、スハとヒョリの周りを取り囲んだ山賊のような連中。自分はあの時、奴らのことを見て「人攫い」のようだと思わなかったか。
さらに、眼下に波止場が見えるあの場所は、夜であれば特に、ほとんど人気のない場所でもある。何かを隠すには、もってこいの場所だ。
人攫い。人気のない場所。
思った瞬間、スハは走り出していた。
「痛……っ!」
地面から飛び出した木の根につまずき、思わず転びそうになる。咄嗟にそばの木に掴まり、転ぶことはなんとか防げたが、既にぼろぼろで限界を迎えていた草鞋の一方が、ぶつりと切れてしまった。
ぶらんと力なくぶら下がる草鞋を、近くに伸びていた蔦の弦で結び直し、汗を拭う。
波止場が見える場所までの道は、木々の間を進むところもある。先程までいた辺りとは違い、祭りの喧騒から完全に離れたこの辺りは、篝火もなく、さすがに暗くて進みにくい。
だが、幸いにも今夜は月が出ており、木々の合間から差し込む細い月明かりのおかげで、まったく進めないという程ではなかった。
「はあ……、はあ……、はあ……」
その薄暗い中を、自分にでき得る限りの早さで急ぐ。
トボクの話を聞いてから、―――いや、トボクの手当てを最初に始めた時から考えると、時間は既に随分過ぎている。もしユンファを見つけることができたとして、無事でいる可能性はあとどれ程残っているだろうか―――。
考えたくはないけれど、無意識に考えてしまういろんなことを、スハは頭を振って必死に打ち消した。
進む足が重い。全身が鉛のように感じられ、泥の中を歩いているようだ。一度でも足を止めてしまえば、きっともうそこから動けなくなる。
「はあ……、はあ…………、―――……、」
……あ、れ―――……?
その時、ただ前に進むことだけを思っていた視界の端に、ちら、と何かが掠めた気がした。
進もうとしていた先からは少し逸れた、今いる場所からはもう少し急な山道を上っていく方の、背の高い葉が茂った先だ。その向こう側に、何かの明かりのようなものが掠めた気がする。
「―――――?」
草木が道を塞いでいることもあり、普段そちらの方に近付くことはあまりない。だが、その道の先にはたしか、使われていない小屋があったはずだ。
スハは自分の背丈程に伸びた草木をかき分け、そっとそちらに近付いていく。
葉が生い茂っている中だったからこそ、歩く音にだけ気をつければ、小屋には容易に近付くことができた。
身を低くして、小屋の様子をうかがう。
放置されてからかなり経っているのか、壁板の至るところに穴が開き、土壁も崩れ、明かり取り用の窓に嵌められた木も無事に残っているものの方が少ない。
初めから無かったのか分からないが、入口に当たる部分に戸のようなものは何もなく、開け放たれたそこから申し訳程度の弱い明かりがもれていた。
それは、辺りが薄暗いからこそ、気付けた明かりだった。
そして、その小屋のそばに、黒い影が、一、二、三……。
一体そこにある何を守っているのか、周りを警戒するように外に向かって絶えず鋭い視線を走らせている。
彼らの手にあるのは、使い慣れた様子の太い太刀。ひと目で、ただ腕っぷしが強いだけの連中ではないことが、スハにも分かった。
思っていたような、先日の山賊達ではなかった。だが、今目の目にいる奴らがトボクを躊躇なく斬ったのだと言われたら、疑うことなく素直に頷けてしまえるものがある。つまり、これは恐らく、当たりだ。
ごくり、と喉が鳴った。
ここに来て、スハは初めて、自分が丸腰でいることに気が付いた。
もし本当にユンファがここにいたとして、これで助けることなどできるのだろうか。
いや、それよりも。
もし、ここにもいなかったら? その場合、ここでこうしていることは、ただの時間の無駄にしかならない。
スハは小屋の前に立つ者達を草の中から睨みつつ、少しずつ場所を移動した。もう少し左に寄れば、遠目ながらも戸口の中が見える。中に灯る明かりは弱いが、それでも、ユンファがいれば分かるはずだ。
小屋の入口は目と鼻の先だ。少しでも大きな物音、ましてや声でも上げれば、小屋の前を徘徊する連中にすぐにでも気付かれてしまう。
細心の注意を払いながら左にずれると、そこには太い木がいくつか連なるように生えていた。その木々の影に隠れながら、中の様子をうかがう。
ばくばくと心臓がうるさく鳴っている。
口元を押さえ、呼吸が乱れないように気をつけながら、中を確認しようとスハは少しだけ首を伸ばした。
どうか―――。
ここで見つかってほしい気持ちと、いてほしくないという気持ちとのせめぎ合いで、心の内は大いに荒れ狂っている。けれど、願うのはたった一つだ。
どうか、母さんが無事でいますように―――!
だが。
「―――――………っ!」
漏れそうになった声をぐっと押さえ、必死に喉に力を込めて、それ以上の衝撃が外にこぼれ出ないよう懸命に堪える。
汗と涙が一緒になって、痛む視界が一気にぼやけた。必死に瞬いてそれを払おうとするが、涙が次々と溢れては、目の奥を熱く焼き続ける。
なのに、視線はそこを捉えたまま離さない。
スハは息をするのも忘れて、ただ固まったままそこを見つめた。
梁からぴんと張った縄が下りているのが見える。それが続く先に力なく項垂れる影があり、汗と涙と血で、そこら中がどろどろに汚れているのが見えた。手を後ろに縛られているようで、項垂れた影はぴくりとも動かない。
なんで、こんな―――。
俯いているため、顔はよく見えない。だが、その髪に挿さる簪も、着ている服も、夕方、スハが家を出る前に見たものと酷似していた。
まさか……、まさか……、でも、そんな。
それは絶対に考えたくないけれど、まさか、もう手遅れだったのだろうか―――……。
口元を押さえていたスハの手が、するりと落ちる。
「……母……さ………」
無意識にもれたのは、掠れた、吐息のような声。
一瞬前に必死に抑えようとしたことなど嘘のように、それはこぼれ出た。
母さん……、母さん―――!
そこに向かって、手が伸びる。足が前に出る。もし見つかったらなんて、そんなことは考えていなかった。
ユンファのその姿を見た瞬間から頭は真っ白で、何も考えられない。
弾けるように瞬間的に動いた体は、そのまま草むらを突っ切って、目の前の小屋の中に突っ込んでいこうとする。
「―――――っ!!」
だが、スハがまさに飛び出していこうとしたその時、後ろから伸びてきた手に突如口を塞がれた。そして、前に進もうとしていたのとは逆に働く強い力で、ぐん……っと体が半回転し、一気に後ろに引き戻される。
「かは……っ!」
そのまま背後の木に押し付けられるように喉元も押さえられ、息が詰まった。同時に、鳩尾まで強く圧迫され、口、喉、胸を押さえられたスハは、訳も分からないまま意識が飛びそうになる。
「お前は、本当に人の言うことを聞かん奴だな……!」
ふいに、よく知る声が耳元で聞こえた。
正体不明の襲撃者に必死に抵抗しようとしていたスハの耳元で、その声が呻るように続ける。
「見つけたら、まずは知らせろと言っただろう……!」
小声ではあるが、そこには明らかに叱責と怒り、そして僅かな安堵の色が含まれている。
スハは押さえられたまま、涙が滲む目で少しだけ見上げた。そこには、柄にもなく必死の表情を浮かべるヨンギルの顔があった。




