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第39話 祭

 寺の入口からあの通りまでは、この石段を下りて、少し下にある山門をくぐれば、目と鼻の先だ。


 良家の子女のような格好のままのセヨンは、その石段を見下ろして、はあ、とため息をついた。


 女官見習いの衣装なら簡単に下りていけるこの道も、都城(とじょう)から輿に乗ってやってきた王女としての姿でいる今は、それもできない。

 だが実際は、これだって仮のもので、王宮にいる時の本来のセヨンの姿は、この辺りの日常からはさらにかけ離れたものになる。


「ここにいらっしゃったんですね」


 その時、後ろから声が聞こえた。軽く息を乱した様子でやってきたのは、ヒョリだ。


「お姿が見えなかったので、今度こそ本当に私の目まで盗んで抜け出したのかと思いましたよ」

「……ああ、たしかに、そうすることもできたわね」

「ちょっと、やめてくださいよ。そんなことをされたら、本当に私の寿命が縮みます」

「ふふ、冗談よ。だいたい、この格好で抜け出せるわけないでしょう」

「いえ、そこは私の着替えの方をお召しになるという可能性も―――、あっ、その顔! いいこと聞いた、みたいな顔をしないでください」

「あら、気のせいよ。ちょっと、なるほど、って思っただけ」

「思ってるじゃないですか、なるほどって」


 すかさず腕を組んで睥睨(へいげい)してくるヒョリに、「だから、気のせいだって」と笑って手を振る。そして、セヨンは話題を変えた。


「そういえば、今日は下の方がなんだか賑やかね」

「ああ、今日は火祭りというこの辺りのお祭りがあるようですよ。寺の僧たちが話しているのを聞きました」

「火祭り……」


 スハが話していたお祭り、今日だったのね……。


 約束をした。一緒に行こうと。だがそれは、セヨンとの約束ではなく、()()()()()()()()()との約束だ。厳密には、()()との約束ではない。


 だから、やっぱりお祭りには……。


 そう思いかけたところで、セヨンはふいに息を詰めた。

 眼下に伸びる石段。そこを、上がってくる姿がある。


 スハ―――。


 まだ遠目ではあるが、スハの姿に間違いない。その顔には憂いなど一切無く、ただただ今日これからを楽しみにしているような気配が伝わってくる。


 せめて、あと一度だけ―――。


 突き上げるような感情が、ぎゅうっと胸を強く締め付けた。


 その正体が何かは分からないが、胸を強く震わせるその感情が、幼い頭にやっとあるだけの理性に勝てるわけがない。


「……ヒョリ、お願いがあるんだけど」

「何ですか?」


 気付けば、そう口にしていた。

 階下を見下ろしたまま呟くセヨンを見て、その視線の先を追ったヒョリは、そこに()る者に気付いてさっと顔色を変える。


「王女様、まさか―――」

「お願い、もう一度だけ、その服を貸してくれないかしら」


 ヒョリは絶句したようにセヨンを見つめたまま、しばらく固まった。そして、感情を抑えるように大きく息を吐き出し、静かな声で口を開く。


「―――王女様、これ以上はもうやめておいた方がいいと、言いましたよね? これ以上は、バレるのも時間の問題だと。今ならまだ、互いにとってよい思い出だけで終わらせられます。なのに、すべてが壊れてしまうことをお望みなのですか?」

「もちろん、そんなことは望んでない。でも、このままもう会えないなんて―――」

「王女様―――!」

「分かってるわ! 分かってるけど……!」


 けれど、セヨンはヒョリの手を取り、懇願するように両手で強く握りしめる。


「せめて、もう一度だけ。あと一度だけでいいの。これで最後にするから、だから、お願い……!」


 見つめるセヨンを、苦渋の表情でヒョリは見つめ返した。




 



「スハ!」


 寺の入口のところにいたスハを呼ぶと、スハは待ちわびていたような笑顔でセヨンを振り返った。


「ヒョリ! よかった、来られたんだ」

「ええ、だって、約束したじゃない。友達との約束を破るわけがないでしょう?」

「へへ、そっか、ありがとう」


 嬉しそうに笑うスハに、セヨンも自然と笑みがこぼれる。

 無理を言ってでも、ヒョリに頼み込んでよかった。これで心置きなく、最後の時を楽しめる。


 やっぱり、何も挨拶できないまま「さよなら」は、嫌だもの。


「お祭りは、もう始まってるの?」


 尋ねると、スハは「ううん、それはまだ」と首を振った。


「でも、じきに始まるよ。あまり時間もないから、少し急ごうか。ヒョリに見せたいものがたくさんあるんだ」

「見せたいもの? なあに?」

「それは、行ってみてのお楽しみ。ほら」


 そして、自然に出されたスハの手を取って、寺の石段を二人で駆け降りる。とはいえ、スハに引かれる手は心強く、ちっとも怖くはない。風を切るように軽い足取りで石段を下り、セヨンはスハと火祭り前の喧騒に包まれる通りの中へ入っていった。


 日は既に落ちて、山の()に僅かに橙の色を残す程度になっている。空は徐々に暗くなり、次第に、辺りは祭り特有の賑やかな空気に包まれていった。


 見るものすべてが不思議だった。並んでいるものも、それを柔らかく照らす明かりも、まるで同じ場所だとは思えない程、先日来た時とはまったく異なる雰囲気だ。


「なんて素敵……」


 どこもかしこも人で溢れ、通りは高揚した雰囲気で満たされている。


「ほら、あそこ。今日しか出てないものだから、ヒョリにも絶対食べさせてあげたくて」


 スハが示す先へ向かい、セヨンは火祭りの今日にしか食べられないというそれを、興味津々で覗き込んだ。そして、二人分を買って、少し摘まみながら、また別のところへ移動する。あちこち指差しながら丁寧に説明してくれるスハと一緒に、セヨンはいろんなものを見て回った。


 が、そんな調子で回っていると、足元が少し疎かになる。


「ひゃ……っ!」

「おっと!」


 何かに足を引っかけ、思わずこけそうになったセヨンを、スハがすんでのところで止めてくれる。


「大丈夫?」

「あ、ありがとう」

「またこけると危ないから、ほら」


 言って、スハはセヨンの手を取り、そのまま人々の間を歩き始めた。ぎゅっと強く繋がれた手を見下ろし、けれど、どうしてかそれ以上そこを見ていることができなくて、あらぬ方向へ目を逸らしてしまう。


 な、何かしら……。心臓が……。


 急にどきどきと激しく胸を叩き始める鼓動に、訳も分からずセヨンは何度も瞳を(またた)いた。


 それまでも何度か手を繋いだことはあったし、先程ここに来るまでの間も繋いでいた。その時はなんともなかったのに、急にそわそわと、居ても立ってもいられないような心地になる。叫び出したいような気もするのに、強く打ち続ける胸に喉が震えて、声を出すどころか息をするのもやっとだ。


 ほんとに、何なの……っ。


 しかしスハは、そんなことなどまるで気付いていないように、それまでと変わらない口調で話し続ける。


「ここを、松明を持った男衆が凄い勢いで駆け抜けるんだ。さすがにその頃になると、ただの見物人は危ないから、端に寄って道を空けるんだけどね。でも、近くで見たらすごい迫力だよ」

「そ、そう」


 ああ、手汗が……。スハが変に思ってないといいけど……。


「それも見られたらいいけど、さすがにそこまでいたら遅くなっちゃうよな?」

「うん……、え……えっ? 何?」


 内心それどころではないセヨンは、スハの言葉が完全に右から左になってしまっていた。慌てて聞き返すが、こちらを振り返っていたスハは、どうしてか、ふはっと噴き出し、「なんでもないよ」と首を振った。そして、立ち止まってセヨンを見る。


「ヒョリ」

「な、何?」

「俺、今日ヒョリと一緒に来られてよかった。この祭りの風景をどうしてもヒョリに見せたかったんだ。多分、こういう景色も、見たことないんだろうなと思ったから」


 そして、手を繋いだままぐるりと辺りを見回して、スハは再びセヨンに視線を戻す。


 いつの間にか日は完全に暮れて、もうすっかり夜だ。通りにいくつも灯された灯篭が、賑やかな喧騒を橙に照らしている。


「俺さ、ヒョリが見たことがないものを、たくさん見せてあげたいと思ってるんだ。それで、楽しそうに笑ってるヒョリを、これからもずっと見ていたい」

「これからも、ずっと……?」

「うん、だからさ、都城に帰っても、俺たちずっと友達でいような」


 ずっと、友達。


 その言葉が、すごく嬉しい反面、どうしてかものすごく胸を締め付ける。泣きたくもないのに、目の奥が熱くなった。


 それをなんとか押し込め、やっとの思いで「……スハ、」とセヨンは口にする。


「私も、ここに来て、スハと友達になれて、一緒にいろんなものが見られて、すごく楽しかった。全部、スハのおかげよ。ありがとう」


 けれど、スハが言うように、「これからも」は、セヨンの中にはない。それは、セヨンには選べない―――選んではならないものだからだ。


「スハには、一生分の大切な思い出をもらったと思ってる。ここでのこと、この先もずっと、一生忘れない」

「はは、一生なんて、そんな大袈裟な。それじゃあまるで、二度と会えないみたいじゃないか」


 笑うスハに、セヨンは弱く微笑んだ。だが、それだけで、今セヨンが何を思っているのかスハには伝わったようだ。はっと目を(みは)ったあと、スハは急にまっすぐセヨンを見つめ、「そんなことない」と強く首を振った。


「都城に帰ったって、会いに行けばいいだけじゃないか」

「でも、それは簡単なことじゃないわ」

「分かってるよ。だから約束をするんだ。俺が、いつか必ずヒョリに会いに行く。そしたらまた、どんなところにだって俺が連れて行ってあげるよ。約束だ」

「スハ……」


 繋いだ手をぎゅっと強く握るスハに、セヨンは何も言えなくなる。


 ……スハは、知らないのよ。


 そして、言葉もなく、スハの強い手をただ見下ろす。


 私は普通の人間じゃない。蔡景(さいけい)どころか、三景(さんけい)統一に一番近いと言われている、この国の王女なの。


 だが、口から出かかった言葉は結局、音になることはなかった。


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