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第35話 仙

 開け放たれた桟敷の席が心地いい。


 眼下に、通りを行き交う人々の姿が見える。それはすぐそこに見える光景だが、一段上がったここからはその喧騒も少し遠い。突き出た屋根の陰の下、静かな風が流れている。


 立ち話もなんだ、と言って場所を移し、目についた酒場に適当に入った。腰を下ろしたのは、周りに誰もいない二階の卓だ。


「そうかしこまるな。楽にしろ」


 かしこまった様子で正面に座るギテに、ヨンギルは軽く声をかけた。だが、そう言ったところで、ギテの様子は変わらない。「は―――」と頷きはするが、変わらず姿勢は崩さないままだ。


「だから、楽にしろと言うに……」


 呟くヨンギルに、ギテは僅かに顎を引くだけで、やはり姿勢はそのまま。その様子に、変わらんな、と思わず嘆息(たんそく)する。こうして相見(あいまみ)えるのは、都城(とじょう)を離れて以来のことだ。


 チャン・ギテという男は、昔からこういう男だった。

 まず、羽目(はめ)を外すということを知らない。無礼講という言葉もこの男には利かない。どんな時でも、一から十まで、原則に従った行動をする男だ。


 ―――下手な「かくれんぼ」は、気を抜けばすぐに見つかるぜ?


 ふと、先日の間諜(かんちょう)の言葉が蘇った。せっかくのその忠告に反するようで申し訳ないが、実際にこうして(まみ)えてみると、やはり感慨深いものがある。もしかすると、心のどこかではこうなることを望んでいたのかもしれない。


 何に呆れるでもなく、ふっと小さく笑って、ヨンギルは酒瓶に手を伸ばした。席に着くなり店の女将に注文したものだ。卓には二人分の器と(さかな)が既に用意されている。


 ギテが代わろうとするのを手で制し、酒を注いだ。とくとく……と小気味よい音とともに器が酒で満たされていく。一つはギテに渡し、もう一つを自分の口に運んだ。


「遠慮せずに呑め。都城の酒程ではないが、ここの酒も旨いぞ」


 ヨンギルの言葉に、ギテは頭を下げ、器を傾ける。だが、口をつけたのはその一口だけで、すぐに卓に下ろしてしまう。


「なんだ、気に食わんか」

「いえ、任務中ですので」

「……相変わらず面白味のない男だな」

「申し訳ありません」


 頭を下げるギテにちちちっ、と舌を鳴らし、ヨンギルは空いた器に再び酒を注いだ。そこでもまた代わろうとするギテに「気にするな」と言って断る。


「おい、せめてその鎧くらい脱いだらどうだ。ここは戦場ではないぞ」

「いえ、これが私の平装ですので。これを着ていなければ、私は私ではありません」

「ああ、聞いたぞ、大将軍になったらしいな。お前のことだ。私が離れたあとも修練を積み重ねてきたのだろう」


 滅相もございません、とギテが再び頭を下げる。


 ギテは、昔から修練の鬼だった。夜通し稽古をし、限界を超えて修練場で倒れているところを発見される、ということも日常茶飯事だった。

 闘う、ということ以外に、生きることを知らない男だ。


 ヨンギルは、ギテが身に着けている重厚な鎧を見やった。それは「大将軍」の証である。これを着ていなければ自分ではない、と言うギテの言葉も、この男の性質を知っていれば分からないわけではない。


 だが、こちらからすると暑苦しいことこの上ないものでもある。広いはずの卓が、二倍にも三倍にも狭く映る。


「……お前も、物好きだな」


 私には理解できん、と最終的には結び、ヨンギルは再び酒を煽りながら下の通りにちら、と視線をやった。


 三人か。


 あそこの柱の影と、向こうの店の影に、それぞれ一人ずつ。もう一人は、反対の細い道の入口のところだ。


 ギテに付き従う配下の者たちだろう。何かあった際にすぐ動けるよう、近くに控えているようだ。気配はほぼ消しているが、意識を凝らせばその息遣いはここからでも感じられる。


 こんな辺境でご苦労なことだ、とヨンギルが思ったところで、ギテが静かに口を開いた。


方々(ほうぼう)を探して、ようやく(まみ)えることができました。今まで、お元気でしたか、師匠」

「……ふっ、師匠か。私はまだ、お前にとって「師匠」なのか?」

「―――……」


 小さく呟くと、ギテは押し黙った。


 ―――師匠、お祝い申し上げます。


 若き日のギテが、無表情の中にも微かに喜ばし気な色を浮かべ、自分に祝いの言葉をかけて寄越したあの日。その日の光景が、瞬時に瞼の裏に広がる。


剣仙(けんせん)』―――国一の剣の使い手であるという、その称号。それを持つことは、最強の武人であることの証でもある。


 かつて、大王から賜ったあの刀剣。過去を押し込めるように、今は物入れにしまい込んでいるその刀剣こそ、剣仙という称号を戴いた際に下賜されたものだった。


 ―――師匠ほど、剣仙と呼ばれるにふさわしい方はいらっしゃいません。


 喜ばし気にそう言ったギテに、あの時自分は何と答えたのだったか。確か、戦にこの太刀はちと重い、とかそういうようなことを言って笑った気がする。


 そういう全部を思い出して、ヨンギルは下げた目をふっと細めた。


 師匠、と呼ばれることに対して、どうしてか胸中に苦い思いが湧き上がる。今の自分は、あの頃の自分とは程遠い。かつてのようにそう呼ばれることは、刺さった何かをつつかれるような思いがする。


 酒を傾けると、風が吹いた。その風を感じながら、手元に目を下ろしたままヨンギルは言う。


「―――もう何年になる」

「一四年になります」

「……そうか、一四年か」


 注いだ酒は、器にすぐいっぱいになる。その歳月ですら一瞬であることを表しているようだ。

 だが、ヨンギルはそんな内面に蓋をして顔を上げた。


「元気かと聞いたな。私はほら、見ての通りだ。好きな時に好きな酒を呑んで、楽しくやっておる。平和な毎日だ。大人げなく、近所の子どもと口喧嘩をしたりもしている」


 ははは、と笑って両手を広げて見せるヨンギルに、ギテは眉間に小さな(しわ)を寄せた。


「剣仙ともあろうお方が、そのような……」


 剣仙。そんなもの。


「やめよ、私はそんな大層なものではない。……それに、剣仙が何だと言うのだ」

「剣仙は、国一の剣の達人です。この紫微国(しびこく)に、剣仙はただ一人しかおられません」


「はは、おかしなことを言う。お前がいるではないか」

「私など、師匠の足元にも及びません」

「謙遜するな、お前の腕はよく知っている。―――と言っても、一四年前のものだがな」


 新たに酒を注いだ器を取りながら笑うヨンギルに、「―――師匠、」とギテが口を開いた。


「まだ、戻る気になりませんか」


 器を傾けていた手が止まる。


「大王様も、師匠のお戻りをお待ちです。やはり、三景(さんけい)統一には師匠のお力が無ければ……」

「―――大王は、まだそんな取るに足らない夢を見ているのか」


 呟くと、ギテはまた小さく眉間に皺を寄せた。この男の特徴だ。表情を表に出すことは極端に少ないが、気に障った時には微妙に眉間に皺が寄る。だが、ヨンギルは構わず言葉を続けた。


「三景統一など、くだらん夢だ。そんなもののために一生を費やすなど、大王もお前も、実につまらんことをしている」

「師匠……!」

「間違ったことでもないだろう。見てみろ、この一四年の間に、その夢はどこまで進んだ。確かに、領土は多少広がったかもしれん。紫微国は、蔡景(さいけい)では力の及ばない場所がない程、大きく成長しただろう。だが、それも所詮、蔡景の中だけの話。外には他に尚景(しょうけい)も、冲景(ちゅうけい)もある。それを全て統一するまでにどれだけの時間がかかるか、分かっているのか」


 黙るギテに、ヨンギルはなおも続ける。


「それだけではない。そんな夢を追っている間、紫微国の民は、いや、大王が占領し踏み潰して手に入れた国の民たちは、そんな夢に耐え続けられるか。ギテ、お前が望む三景統一は、何のための大業(たいぎょう)だ。己の私利私欲のためか、大王への忠義を示す単なる手段か」

「それは―――」


 言いかけるギテを制し、ヨンギルは一度息をつく。そして、言葉を変えた。


「お前は知っているか。かつてこの三景を一手に治めた亡国の存在、そこに()った守り神を」


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