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第7話 制

我知らず、激しさを帯びた声が口をついて出る。

浮かべられていた嗤いがすっと消え、鷹のような目がゆっくりとユノに向けられた。思うよりも先に声が出てしまったことを悔やみ、ユノは急いで取り繕った。


「あ、いえ。それで、相談とは?」

「……ああ」


思い出したように呟くと、ソンドは緩慢(かんまん)な動作で手を伸ばし、茶をひと口含んだ。

先程から、胸中に渦巻くものがある。その渦は少しずつ大きくなり、ユノの心臓をじわりじわりと締めていた。だが、今はそんなことを気にしている余裕はない。ユノは笑顔を浮かべ、ソンドの腹の底を探ることに注力する。


茶器をゆっくりと下ろし、ソンドは低く呟くように口を開いた。


「その前に、一つ、よいか」


そう言ったソンドの視線が、ユノの首元に下がる。


「以前より気になっていたのだが、その白銀の首飾りは見事な代物だな」


急に、何を。


思ったが、ユノは首長の証であるその首飾りを軽く押さえ、答える。


「こちらは、光海国(こうかいこく)に代々伝わるもので、この国の首長(しゅちょう)の証にございます」

「ほう……」


首飾りを見つめたまま低く呟くソンドの目が鋭く光った。先程まで椅子に預けていた体を起こし、身を乗り出すようにして首飾りを見ている。


「国に代々伝わるものであれば、他に二つとない貴重なものということだな」

「……ええ、そうです」

「なるほど」


ソンドの視線は変わらず固定されたままだ。その獲物を見定めるような視線に、ユノは首飾りに触れる手に力を込め、身構えた。この男がどのような性格をしているかは知っている。だが、これは譲れと言われて譲れるようなものではない。


しばらく首飾りを見つめていたソンドはしかし、ふっと視線を外して体を起こした。そして、また元のように腹の読めない笑みに戻る。


「ああ、それで、先程の話だが」

「え、ええ……」

「相談というのは他でもない。ファン首長に、一つ、頼みがあるのだが」


頼み、と言ってはいるが、有無を言わせぬような響きに、すうっと胸が冷えるのをユノは感じた。

これ以上は聞いてはいけないと、頭のどこかで警鐘(けいしょう)が鳴る。何かの予感がむくりと鎌首(かまくび)をもたげ、心臓を鷲掴(わしづか)みにされたように息が詰まった。


「何で……しょうか」


浮かべた笑みが引き攣るのを感じる。訊き返した声が、自分のものとは思えないほど遠くに聞こえた。そんなユノを嘲笑うかのように、ソンドはにやりと口端を吊り上げた。


「他でもない、そなたの奥方のことだ」

「ヒャンが、何か……?」

「ああ、そのヒャンだが……」


ソンドの口から聞く妻の名に、耳元でやけに大きくどくどくと鼓動が脈打つ。


「私に、くれぬか?」

「―――――!」


どん、と脳天を貫かれたように激しい衝撃が駆け抜けた。瞬間、胸の内で渦巻いていた激情が弾け飛び、うねる様な感情の波が溢れ出そうになる。


今、何と言った。この男は、何を言っている。ヒャンを、どうしろと。


頭で理解するより早く、手が。足が。体が。目の前の男に掴みかかろうと動き出す。だが。


堪えろ―――……!


ユノは強く拳を握りしめ、噴出しそうになる思いをなんとか押し留めようと奥歯を噛みしめた。手のひらに食い込んだ爪が皮膚を裂き、血が滲むのが目の端に映る。


堪えろ。堪えろ。ここで崩れれば、全てが取り返しのつかないことになる……!


「先程そなた自身が言うておったではないか。天命は必ず果たされるのだと。それならば、ヒャンの子が三景(さんけい)統一の王となるのは確実。だが、その父親のことは天命には関係ない」

「―――……っ!」


言葉も出ないユノを斜めに見据え、ソンドが嗤う。


「三景の王の父とあらば、このクァク・ソンドが一番の適任者だとは思わぬか? ヒャンはそなたの妻にしておくには勿体なき女子(おなご)だ」

くっと喉の奥で(わら)い、ソンドは続けた。

「どうだ? ファン首長」


ソンドの顔がにやりと歪む。その目を見て、噛みしめた奥歯がぎりぎりと音を立てた。


堪えろ。守るために―――――。


目を伏せ、(はらわた)が煮えくり返るような憤りを必死に抑えようと、ユノは握りしめた拳に一層力を込めた。そして。


「……………ふ…ははっ」


突然肩を震わせて笑い始めたユノに、ソンドは軽く目を(みは)った。だがそれに構わず、ユノは声を立てて笑い続ける。

強張っていた拳を解き、僅かに持ち上げた手で、さも可笑しいという風に膝を打つ。


「はは。……はあ」


ひとしきり笑った後に息をつき、笑みを浮かべたままソンドを見返す。


御前(ごぜん)で申し訳ありませぬ。大王(だいおう)様がこんなに冗談がお上手な方だとは知らず、思わず羽目を外してしまいました」

「冗談?」


唐突な言葉に、ソンドは僅かに片眉を上げる。そんなソンドを、ユノは正面から見つめた。


「この空の下に、己が妻をひと様に譲る男などおりましょうか。仮にいたとしても、結んだ情を違えることはすなわち、天地に誓った契りを破ることに相違ありませぬ。妻に頭の上がらぬ私には、到底できるわけもない話にございます」

「―――――ほう?」


ユノの言葉を聞いていたソンドの顔に、薄い笑みが広がる。


「南の獅子などと大層な呼ばれ様をしてはいても、その実は妻の尻に敷かれるただの男。それをご存知の上で、わざと仰ったのでしょう?」


ユノは、笑みを孕んだ瞳で、まっすぐにソンドを見つめた。


「冗談とはいえ、我が妻のこと、そこまで気にかけて頂き光栄にございます」


そう言って頭を下げるユノに、ソンドは目を細めた。

そして、どすの利いた低い声で呟くように口を開く。


「そなたは、今のが冗談だと思うのか……」


ソンドの言葉にも怯むことなく、ユノは笑みを浮かべたまま答える。


「当然、そうであるかと。では、冗談でなければ、何だと?」

「さあて……」

「ではこの機に、もう一つ、私から申し上げてもよろしいでしょうか」


言葉を付け足すユノを、ソンドは横目で見やり、目線だけで続きを促した。


「先程の宴席で、私が真実を申し上げたのは何故だと思われますか?」


話の意図が掴めないのか、ソンドは訝しそうに眉根を寄せた。


「正直に申しますと、私はあの場で真実を申し上げることを迷いました。尻に敷かれているとはいえ、私は妻を心から愛しておりますし、一生添い遂げたいとも思っております。事実通りに申し上げれば、妻を取り上げられるのではないかと不安になりました」


ユノはあえて表情を曇らせ、そして、気持ちを切り替えてみせるように、再びその顔を笑みに変える。


「なれど、我らを臣と認めてくださる以上、大王様に偽りを申し上げ、その信頼を裏切ることはできませぬ。信頼に応え、大王様への忠義を尽くすために、私は皆の前で妻の天命を公表しました」

「忠義、なあ…」


黙ったまま聞いていたソンドが、ユノの言葉を繰り返すように呟いた。ユノはさらに続ける。


「加えて、大王様は妻の天命を知ったあとも何も仰いませんでした。それはつまり、我らの忠義を認められたということ」


その言葉に、ぴくりとソンドの眉が跳ね上がる。


「我が妻の天命と共に、我らの忠義は光海国だけでなく、やがては紫微国(しびこく)の民にも知れ渡るでしょう。それでももし、大王様がそれ以上を望むと仰れば―――……」


言葉を切ったユノの目がすっと冷える。ソンドをひたと見据え、ユノは静かに言い放った。


「臣どころか、民心(みんしん)はたちまち離れ、大王様があらぬ(そし)りを受けることになりはしまいか―――と、私はそれを案じております」

「―――――ほう?」


この男に対してどれ程の効果があるかは分からないが、牽制は十分に通じただろう。

ソンドはふっと嗤い、わざとらしい笑みを浮かべた。


「そこまで言うなら、私からも一つ尋ねよう」

「何なりと」

「そなた……忠心にかこつけて、その実、自分の子を使って三景の統一を狙ってはおるまいな? いくら忠義が厚くとも、己の欲に勝てぬのが、また人というもの。口では何と言おうと、腹の底で何を考えているのかまでは分からぬものだ」


その言葉に、ははっと噴き出し、ユノは一点の曇りもない顔で快活に笑ってみせた。


「また、お戯れを。先程も申し上げたように、我らは大王様の臣。我らの子が三景を統一することは、私ではなく、大王様のお力になるでしょう」

「……ふっ」


小さく笑ったソンドは、その後も喉の奥で笑い続けた。


「そうだな」


ソンドは笑いながら一つ頷き、卓上に伸ばしていた手をこんと握ると、のそりと立ち上がった。そのままユノに近寄り、おもむろにユノの肩に手を置く。

羽織が広がり、その腰帯に下げられた掌程の大きさの玉牌(ぎょくはい)がユノの目に映った。翡翠の版に細かな模様が彫られ、取り付けられた(だいだい)(ふさ)がソンドの動きに合わせて揺れている。


「すまぬ、悪ふざけが過ぎたようだ。そなたの言う通り、どうして私に天地との契りを犯せよう。酔った勢いだと思って、水に流してくれ」


置いた手で、ユノの肩を二、三度軽く叩きながら、ソンドは笑った。その目を見返し、ユノは頭を下げる。


「当然、そういたしましょう」


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