第32話 諜
吏那国の菓子に、萱郎国の菓子か―――。
昼過ぎまで寝ていようと思っていたが、スハによって叩き起こされてしまったため、昨晩飲み干してしまった酒の調達に通りの方へやって来たところ。ユンファのタラ汁のおかげで腹が温かく満たされたこともあり、眠気覚ましの一杯が欲しくなったのだ。
空の酒瓶を手に、通りをふらふらと歩きながら、店先に並ぶ品々を見るともなしに見て回る。その一つ、そばの物売りの台の上で平籠にきれいに並べられた「菓子」の列が目に入り、ヨンギルは足を止めた。
吏那国も萱郎国も、元はこの紫微国と対立していた国だ。ともに、この国の属国になったのは一〇年程前。だが、ここに並ぶ菓子は、庶民の食べ物というより、それらの国の高位の者が食す贅沢品の部類に入るようなものだったはず。
それが、こんなところでお目にかかれるようになるとは……。
作り方は多少簡略化されているのかもしれないが、とはいえ距離も離れたこんな場所の、庶民が行き交うただの通りで安売りされるようなものではない。本来は。
それだけ、他国に対して、この紫微国の影響力が増しているということなのか。
……いや、ただ他者を軽んじているだけなのかもしれない。
思わず、ちちっと呆れ交じりに舌を鳴らして小さく首を振ったところで、隣に人が立った。
「主人、珍しい菓子を置いているな」
呆れ交じりに眺めるヨンギルとは違い、隣に立った人物は興味深そうに菓子を覗き込み、店主に声をかける。「よくお気付きになった」だの何だのと言って、菓子の説明を始める店主にほほお、としきりに頷いて見せている。
それをちらと横目に見て、ヨンギルはそのやり取りを見守った。
「これもいいが、もう少しこういったものも無いか」と問うその客に、店主は「お待ちください」と上機嫌で奥に入っていく。
「関わるべきじゃないのは、あんたの方じゃないか?」
隣に立つその客が、ふいに言った。そばの平籠にあった菓子を適当に一つ摘まんでみながらの言葉だ。視線をこちらに寄越すこともしない。
お代も払っていないくせに売り物の菓子を素手で摘まむな、と思いながらヨンギルも言葉を返す。
「どこで聞いていたのか知らんが、盗み聞きとは感心せんな」
「それが俺の仕事だからな」
摘まんでいた菓子をぽいと放り、手についた粉を面倒くさそうに払う。
スハと、あのヒョリという娘のことだ。昨日のやり取りをどこかから見ていたのだろう。
男の見た目は、どこにでもいる一般的な小間使いのそれ。だが、その実態はまったく異なる。
間諜。
紫微国の大王が、国内外問わず各地に放っている連中の一人だ。その地のありとあらゆる情報に通じており、常は誰がそうであるか分からないよう行動している。仮に間諜同士が会ったとしても互いに気付かないという程であるから、その秘匿性は相当なものだ。
実際、ヨンギルもこの男の本来の名は知らない。たまたまその正体を知っているに過ぎない。
「あの娘が誰なのか知っているなら、あんたも小僧に忠告している場合じゃないと思うぜ?」
「だから、私は別に隠れているわけではないと言っているだろう」
この前も、なんだかんだと忠告らしいことを言ってきた奴だ。はあ、と眉を下げて言ってやるが、相手はふん、と鼻を鳴らすだけだ。
本来、見つけたら報告しろと周知されているはずだ。しかし、何を思ってかは知らないが、この男はそのヨンギルがここにいることを上官に告げずにいる。
まったく、よく分からん奴だ。
そう息をついたところで、店主が戻ってくる。隣の男はそれまでとは別人のような爽やかな笑顔を浮かべ「なるほど、これは見た目にも華やかだ」などと大いに頷いている。そして、適当なところで「では、これを頼む」と店主に告げた。
「これと、それと、あと、あれもな。一緒に包んでくれ。実はちょっとした贈り物で、それなりの見た目に包んでほしいんだ。―――ああ、あそこにあるあの紙で包んでもらえるか」
男が指差したのは、店の奥に飾るように置かれていた上質の染色紙だ。庶民には到底手が出せないような贅沢品である。
「高いですよ?」
「だからだよ。金に糸目はつけない」
「かしこまりました。では」
怪訝な顔でそのやり取りを見るヨンギルの前で、「頼んだぞ」と男は店主を奥へと促す。その背が見えなくなると、男は再び元の感情の乏しい顔に戻って言った。
「まあ、また表に出て行きたけりゃ好きにすればいい。俺には関係のないことだ」
心配しているのか何なのか、この男の魂胆が掴めない。
まあ、簡単に掴めるような人間なら間諜など務まらないか。
思ったところで、店内では先程の菓子を包み終えたようだ。包みを持った店主が、こちらにやって来る。それを見て、ヨンギルはふと首を傾けた。
「ところで、あの大量の菓子はどうするつもりだ? どこぞの家での茶会にでも持っていくのか?」
言いながら横を見ると、そこには既に誰もいない。人がいた気配さえ感じない様に、ヨンギルはしばし呆気に取られた。
「お待たせしました」
満面の笑みで出てきた店主が顔を上げ、きょと、と辺りを見回す。注文した本人がいないのだから、それは当然の反応だ。だが、しばらく彷徨っていた店主の視線は、どうしてかヨンギルに寄せられた。
「お代を」
店主は変わらず笑顔のままだ。だが、口調には抵抗を許さない響きがある。
奴め、やりおったな……。
内心で間諜に悪態をつきながら、ヨンギルはただ、はははは……、と乾いた笑いを浮かべた。
包まれた品と一緒にこちらに出された店主の手が、言外の圧力をかけてくるように見えるのはきっと気のせいではない。心なしか、笑顔の下の目も据わっているように見える。まるで、やっと得た獲物は決して逃さない、と言っているようだ。
まずいぞ、こんな菓子を買う金なんぞ持っていない。おのれ間諜め、それを分かっていながら仕掛けたな。しかし、この窮地をいかにして逃れるか……。
ぐぬぬ、と唸っているところで、遠くにスハの姿が見えた。その途端、思考が別の方向へ流れていく。
あいつめ、関わるなと言っているのに、大人の話を聞かん奴だな。
そして、そうだ、と思いつき、ヨンギルは店主に向き直った。こちらも満面の笑みを浮かべて、有無を言わさぬ勢いで言いきる。
「すまんな、待ち合わせに遅れそうなんで急いでいるところなんだ。菓子はまた今度必ずいただくとしよう。では」
じゃ、と片手を上げ、「スハよ!」と声を上げながらそそくさとその場をあとにする。
そして、追ってくる気配がないことを確認しつつ、ヨンギルはそのままそこを立ち去った。




