第33話 波
ヒョリの手を引いたまま、昨日歩いた通りを抜け、村の家々がまばらに並ぶ辺りを進む。
「ねえ、どこまで行くの?」
通りを越えてもまだ足を止める気配のないスハの様子に、さすがに少し不安になってきたのか、くん、とヒョリが手を引いた。
「ああ、ごめん。行きたいのはこの先なんだ。もうすぐなんだけど―――」
先を指差しながら振り返り、ヒョリの様子を見たスハは、はっと止まった。
しまった、飛ばして歩き過ぎた……!
少し顔を赤くして肩で息をするヒョリは、繋いでいない方の反対の手でわき腹を押さえている。ひと目で、ここまで必死について来たのだということが分かった。
ヒョリのことを考えず、つい、いつもの速さ―――いや、気持ちが逸っていた分、いつもよりかなり飛ばして歩いてしまっていたようだ。身長差もあり、女の子でもあるヒョリには、普通について来るだけでも大変だっただろうに、スハが手を引いていたことで止まることもできなかったようだ。
「ご、ごめん! 大丈夫?」
「ええ、大丈夫。でも……、ふふ、ちょっと待ってくれる? 少し息を落ち着かせたいから」
何度か呼吸を繰り返して息を整え、最後にふう、と大きく吐き出して、ようやくヒョリは顔を上げた。
「ふふ、スハって元気ね。あんなに早く歩いてるのに全然けろっとしてるんだもの」
「ごめん、全然気付かなくて」
「ううん、いいの、気にしないで」
迷惑をかけてしまったのはスハなのに、ヒョリはどうしてか、なんだか楽しそうな、清々しげな表情を浮かべて笑っている。
「私、あんなに走るみたいにこれだけの距離を歩いたの、初めて。こんなに息が上がっちゃうものなのね。……ふふっ、なんだか可笑しくなってきちゃった」
そう言って口元を押さえ、本当に楽しそうに笑う。最後は、もう堪え切れないというように、ころころと軽やかな声を上げて笑い始める。そんなヒョリに、スハもつられて笑いがこぼれた。
「はは、ヒョリってなんだかいつも予想外だ」
「予想外? 私が?」
「うん、だから、面白い」
「ふふ、何それ。誉めてくれてるのよね?」
そして再び、今度は歩調を合わせて歩き始める。―――と、そこに。
「あれ、スハ」
理由は特に無いだろうが、今日も一緒にいたらしいドハンたち三人がやって来るところに出くわした。
「スハ、こんなとこで何してんだ?」
「お前らこそ」
もはや街と呼べる程広い村ではあるが、子どもたちが家の手伝いを終えて日中を過ごすようなところなど、たかが知れている。どこかに行けば誰かに会うというのが日常であるため、逆に、誰にも遭遇しない方が珍しい。
「俺たちは別に。―――ああ、ドハンがおばさんにお使いを頼まれたらしいんだけど、そのお金がお菓子に消えたり、お使いで買ったものをつまみ食いしたりしないよう見張っててくれ、ておばさんに頼まれてさ。それで、こいつに付き添ってるとこ」
「ああ、なるほど」
ジョンウの説明にスハが頷くと、「おい」と横にいたドハンがこちらを睥睨した。
「別にうちの母ちゃんが頼んだわけじゃねえだろ。さっき作ってた団子欲しさに自分たちから買って出ておいて、何言ってんだ。それに、スハもそれで納得すんなよ」
不機嫌そうに顔をしかめて言ったところで、「ていうか、それより」とドハンはこちらに視線を寄越した。
「その子、誰だ?」
指差されたヒョリが、そこでびくっと肩を跳ねさせた。それを気持ち後ろに庇うようにして、スハは「ああ、」と前に出る。
「ヒョリっていう、都城からの行列で来た子だよ。寺に薬を届けに行った時に知り合ってさ、この辺りをちょっと案内してるんだ」
「はあ!?」
「なにお前、いつの間にそんなことになってんだよ!」
「そうだそうだ、聞いてないぞ!」
異口同音に、三人が三人とも同じような反応を示す。
「行列ってことは、将軍は? あの将軍様にも会ったのか?」
「抜け駆け、ずるいぞ!」
「うおー、羨ましい! どんなだった? やっぱ近くで見ると違ったか?」
スハはその勢いに一瞬後ずさり、だがすぐに、はあ、と大きく息をついて、ずいっと並んで顔を寄せてくる三人を押し戻した。
「会ってないし、見かけてもないって。それに、薬を届けに行っただけだって言っただろ」
そして、びしっと指を突きつけ、
「それよりも、俺はこれから、俺だけの秘密の場所に行くところなんだ。お前ら、絶対について来るなよ!」
言いきり、ヒョリを促してその場をさっさと離れる。
「―――秘密の場所?」
「ああ、あの道を上った先の、波止場が見える場所のことだろ」
「そこ、いつもスハが行ってるとこだろ? 秘密でもなんでもなくね?」
当然のように話す三人の会話は、スハの耳には届いていなかった。
ややきつめの道をヒョリに手を貸しながら上りきり、本格的な山道に入る手前で脇に逸れる。少し木々が茂る辺りを奥に進んで、それが途切れたところでスハは足を止めた。
「見せたかったのは、ここ」
目の前に、視界を遮るものはない。明るい陽が水面に反射して、きらきらと光っているのがよく見える。その中に、大小さまざまな船がいくつか停泊しており、緩やかな川の流れに合わせてゆらゆらと揺れているのが見えた。
「波止場?」
呟くヒョリに、うん、とスハは頷く。
「ここの波止場は、この先の大きな川と繋がってるんだ。ここを通して、村やあの通りの方にたくさんの人や物が入ってきて、運ばれていく」
数年をかけて大きく整備されたというこの波止場は、蔡景にあるこの紫微国内だけでなく、北に行けば尚景、東に行けば遠く冲景にも通じる、大海の道への玄関口となっている。
この国のことどころか、自分が住んでいる村のことくらいしか知らないスハであっても、外の世界が争いに溢れていることはなんとなく知っている。けれど、人や物の行き来がまったくないわけではない。むしろ、大きな国がある場所であればある程、交易は盛んに行われているようだ。
波止場を見ると、それが感じられて面白い。だからスハは、その波止場を一望できるこの場所が好きだった。
「信じられないよな。こんなところから、この国や、もっと広い外の世界に、人や物がたくさん運ばれていくんだ。ここが世界のいろんな場所に繋がる出発点だと思うと、不思議じゃない?」
思った通り、「あれは何?」「そこに見えるのは何かしら」と、きらきらした瞳で波止場を眺めていたヒョリは、スハのその言葉に、はっと驚いたように振り返った。
「すごいわ、スハ。世界の出発点なんて、そんなことをよく思いつくわね」
「え?」
そしてまた、波止場の方へ目を戻しながら、楽しそうに笑う。
「そう思うと、ここからならどんなところへだって行けそうな気がする。今はまだ夢のまた夢だけど、そのうちきっと、三景全土を自由に行き来できる日が来ると思えるわ」
「三景全土を……?」
「ええ、もしかしたら、この世の果てまで行くことだってできるかもしれない」
なんだか話が大変な方向へ飛躍している気がする。三景全土に、この世の果てなんて。
俺は別に、そんな大それたことを考えていたわけじゃないんだけど……。
思わず、ぱちくりと見返したスハに、だがヒョリは瞳を輝かせて笑う。
「そんな考え方が自然にできるなんて、スハはもしかしたら、すごい人になるかもしれないわね」
「すごい人? ははっ、俺が? 外の世界のことなんて何も知らないのに、ヒョリは変なことを言うなあ」
「まあ、私は本気よ?」
腰に手を当てて唇を尖らせているが、普段都城で暮らしているとはいえ、自分より世界を知っているとは到底思えない年下の女の子に言われても、本気で受け取る気にはなれない。はいはい、と頷いて、適当に手を振っておく。
しばらく、そうやってなんだかんだと話しながら波止場を眺めて、満足したところで「そろそろ帰ろうか」とそこを離れた。
あまり遅くなるのも、スハはよくてもヒョリはまずいかもしれない。
「そういえば、火祭りって知ってる?」
「火祭り?」
波止場が見える場所までの道を、今度は逆に下りながら、スハはヒョリを見た。
「毎年、この辺りで開かれるお祭りだよ。元は大王様の活躍を称えるために始まったお祭りらしいんだけど、たくさんの屈強な男衆が松明を掲げて村の中を駆け抜けて、最後は大きく燃える火柱の周りで勇ましく踊るんだ。太鼓や掛け声でびりびり震えるくらい、それはもうすごい迫力でさ」
「へえ、そんなお祭りがあるのね」
そこに思いを馳せるように遠くを見つめるヒョリは、見てみたいな、とそっと呟いた。すかさず、それなら、とスハは声を上げる。
「なら、一緒に行こうよ」
「え?」
「難しいかもしれないけど、もし行けたら。俺、迎えに行くから」
言って、軽く握った小指を差し出した。
「約束」
「約束?」
大きな瞳で見返してくるヒョリに、スハは頷く。差し出した小指を見下ろしたヒョリは、やがてふっと笑って頷いた。
「ええ、約束」
そして、同じように小指を出し、指切りをする。
やった、これでますます火祭りが楽しみになってきたぞ。
―――ずさっ。ざざっ。
早くその日にならないかな―――と思っていたスハの背後で、ふいに、異質な音が聞こえた。なんだ? と思い、後ろを振り返ろうとした時。
「おんやあ? ガキが二人か」
その下卑た笑い声が聞こえた途端、スハは全身の肌がぞわりと粟立つのを感じた。一瞬にして、顔から血の気が引く。
「こんなところを子ども二人だけで歩いてちゃあ、危ないぜ?」
にやにやと黄色い歯を見せながら現れたのは、熊のような大男。そいつが、スハたちを見下ろして、さも可笑しげに嗤っている。腰には太く長い太刀が下がっており、薄汚れてはいるが、疑うまでもなくそれが本物であることがうかがえた。
まさか、山賊……!? こんなところに、なんで。……いや、それなら、金目のものを渡せば助かるかもしれない。でも、もし、人攫いだったら……。
頭の中で激しく警鐘が鳴る。
スハは、後ろに庇うようにヒョリの前に出て、その手を強く握った。




