第28話 記
「いい大人なんだから、もう少し片付けたら? いい大人なんだからさ」
あえて二度言ったスハの言葉を、ヨンギルはまた聞こえない振りでかわし、歯に挟まったものをしーはーしーはーと、どこかから持ってきた楊枝で取り除こうとしている。
そんなヨンギルに目を眇めつつ、それでも一応軽くだけでも片付けておくか、次にまた自分が来た時のために、とスハは近くのものに手を伸ばす。
「―――うん? 何だこれ」
およそ片付けるという意識をどこかにやってしまったらしいヨンギルにも、物入れは衣服をしまう場所だという認識は辛うじて残っているらしい。壁際の物入れの閉まりきっていない引出しから、入りきらなかったのか、でなければ、他のものを出そうとして一緒に引っ張り出されたのか、だらしなく衣服がいくつも垂れ下がっているのが見える。
入っているだけまだマシだな、とスハはそれを生温かく受け止めたわけだが、とにかく、その物入れのそばに、適当に積まれた様子の書物がいくつか置いてあった。
枕にでも使っているのだろうか、とそのうちの一つを手に取り、ぱらぱらと捲ってみると。
中には、文字と一緒に、絵図が描かれていた。
見たところ、文字はその絵図を説明するもののようだ。が、分かるのはその程度で、何をどのように説明されているのかまでは分からない。
これは、なんて書いてあるんだろう。
紙を捲りながら、そこに書いてある文字列を目で追う。自分が知っている文字はないかと探してみるが、数多ある文字の中に、それはなかなか見つけられない。
スハはソンジェが記した薬材の名前くらいなら読むことはできるが、それ以外のほとんどの文字については、読むことはもちろん、書くこともできない。
ただ、それは別に珍しいことではなく、この辺りでは大人でも文字を知らない者は多い。むしろ、当たり前に文字を読み書きできる人の方が珍しいくらいだ。
学堂に行けば文字を教わることはできるが、金持ちの家の子ならいざ知らず、普通の庶民の家の子で学堂に通っている者はほとんどいない。理由は明確で、文字を知らなくても生きていくことはできるからだ。
だが、働かねば生きてはいけない。よって、知らなくても困らないものをわざわざ学ぶくらいなら、その日の糧を得るために働いた方がいい。そういう考え方の人の方が多いのだ。
「ねえ、おじさん」
「うん? なんだ?」
満腹になったせいか、またごろんと転がって、楊枝でしーはーしながら、ぽりぽりと尻を搔いていたヨンギルがこちらを向く。
「これ、おじさんが書いたの?」
スハは軽く首を傾げながら、書物をヨンギルの前に広げて見せた。
初めは枕にでも使っているのだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。ぱらぱらと捲ってみると、書物の記述は中途半端な場所で終わっており、ところどころには、書き損じを表すようにぐちゃぐちゃと墨で塗りつぶされているところもある。
正規の品物として書物を手に入れたのなら、これがありえないことであることくらいはスハにも分かる。だから、意外にもヨンギルがそれを書いたのかと思ったのだが……。
スハが尋ねると、対するヨンギルはどうしてか一瞬「しまった」という顔をして、つい今しがたまでだらしなく横になっていたのが嘘のように俊敏に動き、スハの手からさっとそれを取り上げた。
「勝手に何を見ているんだ、お前は。まったく、油断も隙もない」
「なんだよ、見られて困るようなものをこんなところに置いておくなよな。それより、それ、おじさんが書いたんじゃないの?」
「私が書いたなどと、なぜそう思う」
「だって、売り物だとは思えないし。それに、剣舞の書だろ、それ」
ヨンギルの手にある書物を指差して言うと、ヨンギルは「はあ?」と目を見開いて、それからなぜか「ぶわっはっはっ!」と急に笑い始めた。
「なに、剣舞の書だと? これがか?」
そこに、なんとなく馬鹿にされているような響きを感じ、スハの目が据わる。それに「ああ、すまん、すまん」と軽く手をあげたヨンギルは、ぶくくっ、とまだ込み上げてくるらしい笑いをなんとか堪えるように、腹を押さえながら言った。
「スハよ、なぜこれが剣舞の書だと思ったんだ」
「だって、さっきトボクおじさんが、昨日の夜おじさんが庭先で刀剣を振り回してたって言ってたから」
「何?」
書物の中に描かれていたのは、刀剣を構えた人の絵と、それを説明するように添えられた文章の数々だった。動きの変化を説明するように順を追って描かれている様子は、一連の型を流れに沿って説明しているように見えた。
トボクの話が本当なら、ヨンギルが剣舞の練習をするためにこの書物を書いたのではないかと思ったのだが。
「おじさん、昨日剣舞の練習してたんでしょ? だから、これもおじさんが書いたのかなって」
スハがそう答えると、ヨンギルはやけに渋い顔をして「あやつめ……」となぜか低く唸った。
「よいか、あんなやつの言葉なんぞ信じるな。それから、私が芸人を目指しているなどと、間違っても広めるのではないぞ」
「なんだ、やっぱり違うの?」
「お前……、その言いようは、まさかトボクの言葉を本気で信じていたのではないだろうな」
心底嫌そうに顔をしかめて言ったヨンギルは、はあ、と大きくため息をついた。
「これはあれだ、ただその辺にあった書物を適当に書き写しただけだ。まあそれも、途中で飽きてしまってこの有り様だがな」
「ふーん」
それじゃあ、刀剣を振り回してたっていうのは何だったんだろう。
ぐるりと見回してみるが、荒れた部屋の中に刀剣らしいものはない。もし本当にあったとして、それだけがちゃんと片付けられているというのも変な話なので、やはりトボクの見間違いだったのかもしれない。
そんなことを思っていると、スハから取り上げた書物をぱらぱらと適当に捲っていたヨンギルが「ところで、」と口を開いた。
「最近、ユンファの調子はどうだ? 昔のことを何か思い出したり―――……ああ、いや、お前に聞くことではなかったな」
言いかけて首を振るヨンギルに、「平気だよ」とスハは返す。
「母さんの記憶のことだろ? 特に変わりはないみたいだ。やっぱり、大きな火と刃物は今も苦手みたいだけど、なんで苦手なのかとか、それ以外のことになると、何も思い出せないのは変わらないみたい」
「そうか……」
ヨンギルは呟いて、タラ汁が入っていた器に視線をやった。
ユンファには昔の記憶がない。ソンジェと出会う前―――、スハが生まれる前の記憶が。
スハがまだ生まれたばかりの赤子だった頃、ユンファは骨に至るまでの大きな傷を背中に負い、ここからいくつか離れた山の川辺で倒れているところを助けられたのだそうだ。
その看病に当たったのが、その時たまたまその辺りの村に居合わせたソンジェだったという。
ソンジェの看病によってユンファの命は助かったが、左半身に後遺症を残すことになってしまった。そして同時に、傷を負う以前の記憶を失ってしまったのだと聞いている。
自分の名前だけは辛うじて覚えていたそうだが、自分が本来どこの誰で、なぜそこにいたのかについて、ユンファはまったく覚えていなかったらしい。
余程怖い目にあったのか、その時は言葉を口にすることもままならず、常に何かに怯えている様子で、特に、大きな火や刃物を見ると異常な程に怖がっていたそうだ。それが、記憶を失わせた要因となる何かに繋がっているのかもしれないが、その時ユンファの身に何があったのか、十数年経った今でも分からないままだ。
そして、その時ユンファと同時に保護されたのが、少し離れた別の場所で泣いていた、ユンファの子と思われる生まれたばかりのスハだった。
背中に大怪我を負っていたユンファと違い、衰弱はしているが、スハの方に目立った怪我はない。察するに、何かから我が子を守るため、ユンファがそこにスハを隠したのだと思われた。
つまり、たまたまそこに居合わせたソンジェは、素性の知れないユンファ、スハの親子を引き取って、家族として、今日まで面倒をみてきてくれたということだ。
「このままでいいとは思わんが、体が拒否しているものを無理に思い出そうとするのも正しいとは思えんからなあ。難しいところだ」
呟くヨンギルに、スハも「そうだね」と頷く。
ソンジェと血の繋がりがないことを、スハは知っている。そして、それをスハが知っているということを、ヨンギルも知っている。
だからこそ、それら家族の事情を知っているヨンギルが先程少し気まずそうにしていたわけだが、スハにとっては今さらだ。記憶を失っていようが、ユンファが母であることと同じように、スハにとって父はソンジェ一人だけだ。
ヨンギルの部屋をある程度適当に片付けたところで、スハは立ち上がった。
「それじゃあ、俺このあと用事あるから、もう行くね」
「用事?」
首を傾げるヨンギルに、「うん、ちょっと」と言葉を濁す。だが。
「―――まさか、またあのヒョリとかいう娘のところか?」
まったく、こういう時はやたら勘が良いんだよな、このおじさん。
実は今日もヒョリのところに行ってみようと思っていたところだったのだ。だが、ヨンギルからはよく分からない忠告を受けている。よって、その推察を素直に認める気はさらさらない。ということで、こんな時はさっさと逃げてしまうに限る。
「おっと、こうしてる場合じゃない! 早く行かないとっ!」
「あ、こら、逃げる気か!」
後ろで何か言っている声が聞こえるが、そんなのは無視だ。外に出て縁から下ろした足に急いで草鞋を履き、駆け出すようにそこから離れる。
「あ、そうだ! 器、洗っておいてね! また取りにくるから」
「おい、スハ!」
生垣を越える間際に振り返って、言い逃げのようにそれだけを残し、スハはヨンギルの家をあとにした。




