第26話 忘
◇ ◇ ◇
時折、見る夢がある。
「あな……の、むす……こが……、生まれ……よ……」
涙に濡れたような声が、優しく微笑むように自分を見つめている。
「……と、わた……の、大切な……です」
その声は、ただただ泣き続ける自分を優しく抱き、本当に愛おし気に頬にそっと触れる。
「どうか、重い……しゅく……にも負けず、きぼう……包ま……子の、ゆく末……見守……ください……」
夢の中の自分は生まれたばかりの赤子で、優しく触れるその手を取りたいのに、おくるみの中で握りしめた手は思うように開くことができない。
やがて、外が騒がしくなり、自分を取り囲む空気が、凍り付いたように一変する。数瞬前の温かな時が嘘のように消え去り、緊迫した雰囲気に包まれる中、先程の手が再び頬にそっと触れた。
「凛々しい眉、意志の強そうな瞳、すっきりと通った鼻筋に、少し立った耳……、心配しなくていいわ。この母が、あなたを覚えているから。何年経っても、どれだけの時が流れても、きっと覚えているから。だから……」
必ず迎えに行くから、その時まで、どうか無事で―――。
すべてが朧げな夢の中で、その言葉だけが毎回寸分違わず鮮明に聞こえてくる。
心に深く刻みつけられたように、その願いだけが強く響く。
これ以上ない程の安心感。自分もきっと、必ずこの腕の中に戻ってくるのだと、確信にも似た思いで強く誓う。
毎回、そう強く誓うはずなのに―――。
手が離れ、温もりが遠ざかっていく。
そうして、その夢自体も、遠く離れていく―――……。
◇ ◇ ◇
ふ……っと目を開けて、スハは一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
微かに漂うのは、古い木や土壁の匂い。弱く見上げた頭上にあるのは、古びた天井の大きな梁。
ぐるりと見回せば、木窓に張られた薄茶けた古い紙の向こう側に、昇ったばかりの明るい陽が照らしているのが分かる。
……ああ、自分の家の、自分の布団の中だ。
スハは何度かゆっくりと瞬きを繰り返して、ごそ……、と起き上がった。
目尻に何か冷たいものが伝っているのを感じる。それに触れて、ごし……と拭う。
我知らず、はあ……、と深い息がこぼれ出た。
またあの夢だ。一体何なんだろう。
時折、見る夢がある。
けれど、その内容は覚えていない。
誰かの声が耳に残っている気がするのに、思い出そうと意識を凝らせば凝らす程、何も掴めなくなっていく。毎回、目が覚めると同時に夢は霧に包まれるように消えていき、意識がはっきりしていく程に、何を見ていたのか判然としなくなっていく。
そういう夢だ。
その夢を見たあとは、毎回なぜか涙が伝っている。夢の内容は何も覚えていないのに、そこはいつも同じだ。
だからこそ、何も覚えていないのがもどかしい。忘れちゃいけない大事なことだった気がするのに、まったく思い出せない。ただ、どうしようもない寂しさのようなものだけが、いつも胸に残っている。
昔から時折見るこの夢について、スハは今まで誰にも話したことがなかった。ソンジェやユンファはもちろん、ドハンたちにもだ。
話したところで、そんなものは気にするなと言われるだけのような気もするが、なんとなく話せないまま、ここまで来ていた。
一体何の夢なのか。いつか、それが分かる時がくるんだろうか。
……もしかして、その時が来ない限り、一生見続けることになったりして。
それはちょっと嫌だなあと思いながら、スハは起き上がり、布団を片付け始める。
普段隣に寝ているソンジェの姿は既になく、布団もきれいに片付けられたあとだ。寝坊したつもりはないが、あまりゆっくりしていると朝ご飯を食べ損ねてしまう可能性がある。
布団を片付け、スハが急いで身支度を整ていると―――といっても、ほつれた髪を首の後ろで括り直し、着崩れた合わせ目を直して腰帯の中に突っ込む程度だが―――、ガタン、と外から部屋の木戸が開いた。
「あら、スハ、起きてたのね。ちょうど今起こそうと思ってたところだったのよ」
木戸の間から顔を覗かせたユンファが、おはよう、と穏やかに微笑んで言う。
「起きたなら、顔を洗って、朝ご飯にしなさい。昨日の残りでタラ汁とおこげを作ったから」
「え、タラ汁に、おこげ!? やった!!」
それを聞いた途端、涎と共に腹の虫が盛大に鳴き始める。気のせいか、ユンファが開けた木戸の外から、その美味しそうな匂いが漂ってきているようにも感じる。
先程まで空腹なんて何も感じていなかったのに、不思議だ。
「少し多めに作ったから、あとでナ教吏様のところにも持っていってね」
弾む気分で急いで顔を洗いに行こうとしていたスハは、だがそれを聞いて「ええーっ!」と足を止めた。
「なんでわざわざ! タラ汁もおこげも、そんなにいつも食べられるわけでもないのに」
「ナ教理様のことだから、きっと昨日も深酒をしているでしょう? 時には、お腹に優しいものも食べてもらわないと。タラ汁は酔い覚ましにもよく効くから」
「だからって、なんで俺の朝ご飯をお裾分けしなきゃならないんだ」
「もう、そんなこと言わないで。ナ教吏様には、スハも普段からお世話になってるでしょう?」
ユンファはそう言って困ったように腰に手を当てるが、スハは一つも頷けない。
どちらかというと、お世話してるのはこっちのような気がする。
………とは思うが、ここは素直に頷くより他ない。
ヨンギルの元へ持っていくことをスハが断ったところで、ユンファは自分で持っていこうとするはずだ。自分の食べる分が増えるわけでもなければ、ただユンファが不自由な足を引きずって無駄に疲れるだけの結果になる。それなら、素直に自分が持っていった方がいい。
漂ってくる匂いに再び、ぐーっと腹の虫を切なく鳴らしながら、
「分かったよ、持っていくよ……」
結局、スハは渋々そう頷いて、庭先の水場へ、とぼとぼと顔を洗いに行った。




